天上の回廊 第九話
部屋のテレビが朝の報道番組になり、リポーターの甲高い声で翔太はぼんやりと目覚めた。薄目を開けて、枕元の時計を見るともう8時を回っていた。はっきりしない意識で彼は部屋を見回した。照明は薄暗く壁際の調度品や絵などに影を落としていて、ベッドのシーツが無造作に乱れ、下着が散乱しているのが目に付いた。
横を見るとはるかが小さな吐息を立てて、うつ伏せに寝入っている。整った横顔は天使のように美しく、肩が静かに上下していた。
夢ではなかったんだな、と彼は思った。そして、白い天井を見つめ、暫し黙考に耽った。はるかは思ったよりもずっと情熱的で愛に溢れる女性だった。相手のことを思いやり、その為に自分を押し殺せるような、意外な奥ゆかしさみたいなものも兼ね備えた、翔太にとって正に理想の恋人と言えた。彼はそのはるかを自分のものにすることが出来たことが未だに信じられない思いだった。眼を瞑ると、心の底から無辺大の喜びが湧き上がってくる感じがした。
しかし、翔太は同時に一抹の不安も覚えていた。はるかを束縛し高圧的に人格を否定する彼女の内縁の夫の存在である。昼間の喫茶店で見掛けたグレーのスーツの男も幾分か気になる。奴がはるかの夫に命じられ、自分達を監視していたのだろうか。外見からして、真っ当な人間ではないようだし、事と次第に依っては非合法的な手段に訴えてくる事も考えられる。
そう考えていくと翔太はふと言い知れぬ悪寒を感じてきた。それでも、自分は彼女を守らなくてはいけない。恐ろしい内縁の夫に背いてまで、彼女は自分を必要として全てを預けてくれたのだから。彼はシーツの下の拳を強く力を込めて握った。
「はるかちゃん、朝だよ」
翔太ははるかの肩を小刻みに揺さぶった。彼女はすーすーと微かな寝息を立てていて、一向に目覚める様子はない。
「はるかちゃん」
彼が一段と大きな声で強めに身体を揺すると、彼女は、
「うーん」
と僅かに唸って長い手足を伸ばし、やがて薄く目を開けた。
「翔太君…夢じゃなかったんだ…」
はるかは優しく微笑んで呟くように言った。
「ああ、オレも思ったよ、夢じゃない」
翔太も口元に笑みを湛えて、出来るだけ穏やかな声で答えた。
そしてはるかの額に軽くキスをして、少し興奮の落ち着いた身体を、やや強く抱き締めた。
「嬉しい。ありがとうね」
彼女は目を閉じて翔太の広い背中に腕を回した。
「今日は休みなんでしょ?」
はるかはブラウスのボタンを留めながら上目遣いで言った。
「うん、今日は休みを取ったって昨日言ったよね」
「そうね。出たら食事ね」
「そうだな、もうブランチだ」
翔太はテレビの画面を横目に答えた。昼のバラエティ番組が喧しく捲し立てている。二人は忘れ物を確認して、11時少し前にホテルを後にした。
月曜の空は、いつかのようなどんよりとした曇り空だった。今にも雨が降り出しそうで街行く人々の顔も一様に沈んでいるように見えた。それでも二人の心は一点の曇りもなく、互いに笑顔を見せながら歩幅を揃えて雑然とした池袋の街を楽しげに歩いた。
二人は路地裏のあるイタリアンレストランに入った。外に古びた商店が連なるのが見える窓際の席に二人は座った。板張りの床はワックスが丁寧にかけられているようで綺麗に光沢を見せていた。あまり広くないキッチンは此方から見渡せるようになっていて、近くに置かれたアンティーク類に心が休まるとても感じのいい店である。天井に設置されたサーキュレーターの回転するのを翔太はぼんやりと見上げていた。
「どうしたの?」
はるかは不思議そうに訊ねた。
「いや…何でもないよ」
「旦那のことが気掛かりなんでしょ」
彼女は若干眉間に皺を寄せて、声を潜めた。彼は心の中を見透かされた思いがした。はるかは続けた。
「いいのよ、怖がっても」
「え?」
「怖くて当然よ。恐ろしい人だって言ったでしょ?」
「いや、怖くはない」
「私は翔太君が怖がっても、ちっとも臆病者だなんて思わないわ。男のプライドがあっても、そんなの下らないものよ」
翔太は思わず少し笑ってしまった。
「なに?」
彼女は訝しげな表情になった。
「はるかちゃんには敵わないなあ。強いひとだ」
そう言って、はるかに笑い掛ける彼に彼女は、
「ふふふ。図星ね。いいのよ。そんな翔太君も好き」
と顔を和らげた。
「確かに、怖い。でもオレは負けないし、負ける積もりもない」
「ありがとう。勇気があるのね」
「どうだかね。わからんけど」
「私は知ってるわ。翔太君も本当は強い」
はるかは大きな瞳で翔太をじっと見詰めながら言った。
「翔太君がいじめから私を守ってくれたときのことを今も思い出すわ。あのときがあるから、今の私がいる」
「そうか」
「子供心に、私、このひとと将来結婚するんだろうって思ったの。絶対に運命だって。でも、そうならなかった。運命は残酷ね」
「そうだな…」
「でも、こうやってまた結ばれたわ。これも運命なのよ」
「うん、そうだな」
強く頷いた翔太の顔を見て、はるかは窓の外に視線を移した。いつの間にか雨が降り出している。窓ガラスを伝う水滴をじっと見ながらはるかは言った。
「私、旦那と別れるわ。どんなに邪魔されても、絶対にする」
「そうか、それが筋ってもんだよな」
翔太は納得した。やはりそれが最善の手段であろう。そして彼は続けて言った。
「これからお互いに助け合ってやっていこう。二人なら出来る」
「そうね。私も私の出来ることをするわ」
「うん」
二人は手を握り、ひとしきり見つめあった。激しい雨音が聞こえてきて、強く降り出したようである。
そのとき、翔太の電話が鳴った。見ると非通知設定からの電話である。二人は顔を見合わせた。
「出てみる」
はるかは止めようとしたが、翔太は通話ボタンを押した。
「もしもし」
応答はない。はるかは不安そうな顔をしている。
「もしもし?」
翔太はもう一度呼び掛けた。やはり相手は無言だったが、暫くして、
「おい」
と凄味のある低い声がした。翔太はなんとなく覚悟していたことだった。
「お前ら、不倫してるな?いいのかなあ?そんなことして」
声を発しない翔太を見て、はるかは電話を代わった。
「茂夫?茂夫なのね?」
翔太は初めてはるかの内縁の夫の名が茂夫だと知った。
「窓の外を見ろ。灰色のスーツの野郎、見えるだろ?」
二人が外を見ると、昨日のグレーのスーツの男が電柱の脇に立ってこちらを見ていた。
「お前らが昨日行ったところは全部知ってる。ホテルへ入ったところの写真もしっかり納めさせて貰ったよ」
はるかは声を乱した。
「何?やり方が汚いわ!」
電話の向こうの声は語気を強めた。
「はるか!よくそんなことが言えるな!自分のやったことをよく考えろ!証拠はあるんだ。慰謝料たっぷり貰ってやる」
「あなただって浮気してるじゃない!慰謝料なんて払わないわよ!」
「こっちの証拠はないだろ?浮気したのはお前だけだ」
「調べればわかるわ!あなたの好きなようにはさせないからね!DVだって証拠があるのよ!」
「ふん、こっちにはいい弁護士が付くし、お前らに勝ち目はない。600万くらいで手を打ってやるよ」
「…そんなお金あるわけないでしょ?知ってるじゃない!」
取り乱すはるかを見て、翔太は電話を代わった。
「もしもし…全てわかってるようなので言いますが、あなたの言うことは認めます。でも、あなたもはるかさんに散々酷いことをしています。それは許せない」
毅然と言い放つ翔太に、茂夫は、
「ほう、偉そうな口を聞きよる…自分のしたことをわかってるのかな?」
と苛ついたような口調で答えた。
「あなたのやりたいようにすればいいでしょう。私たちもやる事はやらせて貰います」
「言ったな。その言葉、忘れんなよ」
それで電話は切れた。
「翔太君、大丈夫?」
はるかは翔太の腕を掴んで言った。彼は全身の力が抜けたように椅子にもたれ掛かった。
「大丈夫、大丈夫」
その顔からは幾分生気が失われていたが、表情はしっかりとしていた。表を見ると、スーツの男はもう姿を消していた。雨はより一層強さを増し、屋根を穿つ音が耳に煩く聞こえた。
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