天上の回廊 第七話
池袋は、翔太が学生時代、よく遊びに訪れた街だった。その頃とはだいぶ趣が変わっているが、今も時々翔太はこの街に足を運んでいた。彼はこの街がとても好きだった。ごみごみとしていて、通りや雰囲気も決して上品な街ではなく、むしろ雑多で忙しない感じである。しかし、それ故の、底から湧き上がるエネルギーや、泥臭い活気が溢れるこの街が、翔太には魅力的に見えた。埼玉県民の街、などと揶揄されることもあるが、この場所は東京のひとつの夢の象徴でもあった。
「ベッカーズ」という飲食店は、池袋東口を出たところに駅に併設される形であった。洒落た店内は平日は多くのビジネスマンや若者達で溢れ返っていた。天井がとても高く、内装はとてもシンプルで、嫌味のない、リラックスできる空間であった。二階もあり、喫煙席になっている。壁の棚には沢山のビールを始めとしたアルコール類がずらりと並んでいて、カウンターでは、カチッとした格好の店員がてきぱきとオーダーを処理していた。
あと15分程で午後2時である。既に席に付いていた翔太は腕時計と店の入口を交互に見比べていた。望んでいたはるかとの再びの対面にもう少しと迫っていたが、なぜか期待感より焦燥感の方が優っていた。
理由は、はるかの突然の申し出であることは明白だった。あまりにも唐突過ぎる、と思うと同時に、翔太はあの幼い日のはるかの告白を思い出し、確かに喜びみたいなものを感じたことも紛れも無い事実だった。
店の飾り気の無い大きな時計が2時を回った。翔太は懸命にはるかの姿を店内くまなく探したが、彼女はどこにも見当たらなかった。彼は少し不安になった。広い空間の喧騒の中で、たまらない孤独感を覚え、翔太の視線はあちらこちらに飛んだ。
やるせない思いで、彼はコーヒーを一口含んだ。携帯を取り出し、LINEを開いて、「はるかちゃん、着いてるよ」と送ってみた。暫く待ってみたが、既読は付かない。そのまま、30分程過ぎた。
翔太は軽い憤りを覚えていた。またこれか、と一種諦めの気持ちが湧いてきて、彼は自分が惨めに思えた。
ずっと疎遠になっていた幼馴染に久し振りに再会して、ただ一度席を共にしただけで、彼女の話に勝手に同情して、勝手に馬鹿みたいな、ある意味の期待を抱いて、日曜の歓声響く飲食店で、こうして待ちぼうけを食っている。はるかの話だって本当かわからない、とまで彼は思い始めていた。
もう帰ろう。馬鹿馬鹿しい。オレは騙されたんだ、と翔太は椅子を乱暴に引いて立ち上がった。周囲の客の笑顔さえ腹立たしく、彼は出口を出て、駅の中へ向かった。すたすたと足早に彼は大股で歩いた。改札口が見え、彼は速度を速めた。
そのとき、彼の腕を誰かがぐっと掴んだ。翔太は、咄嗟にその腕を振り解こうとして、相手の顔を見た。
はるかだった。目には涙が浮かんでいる。彼女は震える声で言った。
「ごめんね、翔太君…ごめんね…」
この間会ったはるかとは、まるで別人のような様子に、翔太は驚いた。
「はるかちゃん…!どうしたの?」
「旦那に怪しまれて、携帯置いていくように言われたの。大丈夫、証拠は全部消してあるわ。殴られそうになって、急いで出てきたのよ」
翔太は、瞬時に今までの自分の思考を心の底から恥じた。自分はなんて浅ましいのか。たった30分待たされただけで、はるかを疑ってしまった。
「ごめんね…ごめん」
繰り返すはるかを、翔太は強く抱き締めた。
「謝るのはオレの方だ。本当にごめん」
はるかは、少し驚いたようだったが、すぐに翔太の体を背中をまさぐるように抱き返した。
「翔太君…ありがとう。ありがとうね」
彼女の涙声を聞いて、彼ははるかがたまらなく愛しくなった。それは明らかな恋愛感情だった。翔太は言った。
「店に戻ろうか」
彼ははるかの手を引いて歩き出した。彼女も手を握り返し、並んで歩を進めた。駅の出口の脇の店に、再び入って、翔太はビールを2つとフライドチキンを注文した。二人は席に着いた。
翔太は口を開いた。
「はるかちゃん、ごめんな。オレは一瞬でも、はるかちゃんを疑ってしまった。本当にすまん」
はるかはまだ赤い眼を擦って、
「いいのよ、私が悪いんだから。でも良かった。翔太君に会えて」
と嬉しそうに言った。
「でも、旦那も疑い深い人なんだね。携帯を取り上げるなんて」
「そうね。蛇みたいに執念深い人よ。自分は浮気してるくせして、人には貞淑さを求める。最低よ」
「うん。でも、オレがなんとかするよ。はるかちゃんを酷い目に遭わせる奴は許せない」
翔太ははるかの大きな瞳を見つめ、しっかりとした口調で言った。
「ありがとう…翔太君は変わってないのね。私は変わってしまったわ」
「いや、はるかちゃんは全然変わってないよ。昔を思い出した」
「本当?嬉しい!」
はるかはやっととびきりの笑顔を見せた。彼はこの笑顔をずっと守りたいと心の底から思った。
店を出ると、日曜の池袋の街は、一際活気を帯び、人々の喧騒も、この一日を謳歌する喜びの声に聞こえていた。二人は踊る街をぶらぶらと歩いた。夢のような時間が過ぎていった。
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