見出し画像

天上の回廊 第十四話

暫く後、翔太とはるかの姿は文京区の小石川後楽園にあった。二人は楽しげに手を取り合って、仲睦まじく歩いた。秋の陽が木々の間から縫うように差して、はるかは眩しげに目を細めた。
こんな日がいつか日常になるときが来るのだろうか、と翔太は思った。遠い遠い未来、二人は住まいを同じくして、一つのテーブルで美味しい朝食を取ることができるのだろうか、と。
池の回りを進みながら二人は周囲に気を配っていた。茂夫の存在は二人に重い影を落としていた。あの男さえいなければ、と二人の心情は共通していた。

紅葉は真っ赤に色付き、はらはらと舞っているものもあった。柔らかな風が深紅の葉を弄んでいた。
「翔太、今日はありがとう。朝早くから」
はるかはにこやかに明るい声で言った。
「ううん、いいんだ。今日は有給取ったし。今日は楽しもう」
翔太も朗らかな様子で答え、二人は誰の目にも羨むようなカップルに見えた。
「翔太、あそこで休も」
彼女は松の木の近くの東屋を指差した。
「うん、いいよ」
二人は東屋の色褪せた木のベンチに座ると、はるかはバッグからランチボックスを出した。
「ほら、翔太、作ってきたよ」
中にはブロッコリー、人参、ルッコラなど色とりどりの野菜と蒸した鶏肉をドレッシングで和えたものが入っていた。
「これはなんて料理?」
「…はるかスペシャル」
思いがけないはるかの台詞に翔太は思わず吹き出した。
「はるかスペシャルね、あはは。どのへんがスペシャルなの?」
「見ればわかるじゃない。何から何までスペシャルでしょ」
彼は返答に窮したが、
「そうだねえ。全部スペシャルと言っても過言ではないね。ありがとう。嬉しいな」
と、にやけたような笑顔で言った。我ながらデレデレして、鼻の下が伸びていると思うと、自分もはるかに本当にこころ奪われてきたのだと改めて自覚した。

いつまでもこの幸せを失いたくない。この愛する女を誰にも渡したくない。ひとの心は何かを手に入れる度に、頑なに、欲深くなっていく。
翔太はそれに気付きながらも、愛欲の強い引力に抗う術を持たなかった。はるかのことしか考えられなくなっていく自分に恐怖すら感じる今日の彼だった。
二人は人目に付かない木陰で軽くキスを交わした。滑らかな白いうなじを指でなぞると彼女は少し呻き声のような低い声で唸った。

秋の空は高く、天井知らずに宇宙へと突き抜けていた。鰯雲の隙間から天使達が二人を覗き見ていた。林の向こうに東京ドームが見え、中からトランペットの音が聴こえる。下手な演奏が若干耳障りである。

二人ははるかスペシャルをこころゆくまで堪能した。意外と味付けがしっかりしていて、とても美味だった。はるかは上機嫌で翔太の顔を覗き込み、
「翔太、また記念日が増えたね」
と微笑んだ。
「うん。ずっとこうしていたい」
彼は穏やかに目を瞑った。木々の枝が風に騒ぐ音がざわざわと脳内を巡っているようだった。
「はるか、こないだテレビで見たんだけど」
「うん」
「最近、残酷な殺人事件多いだろ」
「うん、そうだね」
「オレは犯罪者の心理を知りたい」
「なんで?」
はるかは怪訝そうに少し眉をひそめて言った。

「そうねえ…」
彼は更に遠くを見詰めて言った。
「オレは最近思う」
「うん」
「何のために生きているのか」

彼女は聡明な女性だったので、翔太がある程度生きづらい感覚を味わっていることを敏感に察知した。
「悩んでるのね」
「うん、ひとにはそれぞれ天命ってものがある」
「うん」
「天から与えられた自分だけの使命」
「うん」
「オレの天命とは一体何なんだろう、と思ってね」

はるかは暫く考えた。そしてゆっくりと口を開いた。
「それは自分で見付けるものよ。自分の運命に逆らわなければ、いつか見付かるわ」
「そうか。運命に逆らわない、って、具体的にどうすれば?」

はるかは優しい母のような眼になって諭すように言った。
「流されて生きてもいいのよ。自然に毎日、自分のやるべきことをやっていればいいわ。今、自分に出来ることよ」
「なるほど」
「肩肘張らないことね。リラックスよ。それで、大人になること」
「ふふ、大人か」
「うん、私達は子供じゃないでしょ?」
「そうだな」
翔太はこの女性の思慮深さと広く寛容なこころに尊敬の念すら抱いた。
どこか懐かしいその面影は、彼の琴線に触れ、燃えるような情熱と激しい衝動を呼び起こさせた。
「はるか」
「なに?」
「はるかがいて良かった」
翔太は彼女の深い瞳の底を貫くような視線を送り、彼女もそれを抗うことなく受け入れた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?