天上の回廊 第十話
翔太は身体の奥底から言い知れぬ恐怖心が湧き上がって来るのを感じていた。とんでもない相手を敵に回してしまったような気がして、そんなことを考えている自分自身をまた情けなく思った。左手が小刻みに震えているのがよく分かった。相手は所謂堅気ではなく、何をしてくるか分からないのは明白だった。
今までの自分の人生で、いざこざが無かった訳では無い。学生時代は殴り合いの喧嘩もしたし、気が弱い方でも無い。
しかし、今度ばかりは相手が悪い。どんな知り合いや、闇のルートがあるか分からないし、どんな手段を選ぶかも分からないのだ。
顔面が蒼白になる翔太を見兼ねて、はるかは努めて穏やかに声を掛けた。
「翔太君、大丈夫よ。怖いのは分かるわ」
彼はその一言ではっと我に返った。
「あ、うん…」
「ああいう人なのよ。分かってたでしょ?ほとんどヤクザみたいな奴だから。でも、私達は負けてはいられないわよ。ね?」
彼女は翔太の顔を下から覗き込むようにして、優しい声で言った。自分を一生懸命勇気づけてくれているんだと、彼は有り難く思った。そして、心の奥の勇気を目一杯振り絞って、やや大きな声で言った。
「そうだな。オレたちは負けてはいられない」
そう口に出したことで翔太は新たな気力が自分の内面から自身を突き動かしてくるのを感じた。
「負けない。絶対に」
彼は少し語気を強めた。他の客の何人かが彼の方を向いた。
「そうよ。あいつだって刑務所に入ったりするのは嫌なはずだし、あんまり下手なことは出来ないはず。ヤクザだって、利用すれば自分も利用されるわ。放っておけば自滅するような男よ」
「うん、確かに。何をやってきても、警察もいるし、こっちだって色々と手段はあるはずだ」
「そうよ。恐れるに足らずだわ」
はるかはそう言ってにっこりと笑った。翔太はそんなはるかを頼もしい女性だと思った。きっと、長年の不遇の日々が彼女をここまで強くしたのだろう、と一人納得した。
ウエイターが忙しげに行ったり来たりするのが目に入り、店内は次第に活気に溢れてきた。二人はワインを注文して、直ぐにロゼのワインが運ばれて来た。翔太は口元を強く結んだ後、口を開いた。
「今日からオレ達の歴史が始まるんだ。乾杯しよう」
はるかはちょっと、はにかむように笑って言った。
「ふふふ、格好つけちゃって…いいわよ、乾杯しましょう」
二人はロゼを流し込んだ。それは何かの決意のようでもあり、ひとつのけじめでもあった。その後、軽く食事をして、二人は店を出た。
「こんな時間からワインなんか飲んじゃったわね。今日は贅沢だわ」
はるかは楽しそうに微笑んだ。
「そうだな、贅沢だな。何処に行こうか?」
翔太も愉快な気分になっていた。人の感情や思考というものは不思議なもので、常に波打つように変動していて、留まることが無い。さっきまで、あんなに自分を苦しめていた恐怖心と焦燥感が、嘘のように姿を消しているのを翔太は奇妙に、そして嬉しく感じていた。
「デパートでも見ましょうか?私、何処か屋上に行きたい」
「そうか、ちょっと行ってみるか」
二人はデパートに足を運び、服や雑貨などを見て回った。何気ない時間が、彼等にはとても貴重で大切なものだった。互いが互いを所有しているような気がして、天井知らずの満足感を共有していた。
二人は一通り見た後、屋上庭園に行くことにした。空はいつの間にか雲ひとつない晴天になっていた。屋上庭園に続く通路の脇にペットショップがあった。愛らしい仔犬や仔猫が無邪気に跳ね回っていて、多くの人がその様子に見入っていた。二人は足を止め、暫し動物達を眺めた。
「見て、あの猫、可愛い」
はるかは上気した声で言った。そんな彼女を翔太はとても愛しく思った。彼女の肩を優しく引き寄せて彼は答えた。
「ああ、そうだね。すごく可愛い」
「あの子はマンチカンっていうのよ。知ってる?」
彼女は一匹の猫を指差して言った。
「うん、知ってるよ。手足の短いやつね。うちはずっと前、ペルシャを飼ってた」
「あ、そうなの?初めて聞いたわ。可愛かったでしょうね。毛がふさふさで威厳に満ちてるわね」
「そうだな、猫はみんなプライドが高い。自分が一番偉いと思ってるよ」
翔太はそう言って携帯のフォトアルバムから飼っていた猫の写真を見せた。
リビングの黒いソファーにどっしりと座り込む灰色のペルシャ猫が少しふてぶてしい顔で此方を見ている写真だった。はるかは携帯を覗き込んで、
「わあ、可愛いね。とても綺麗な猫だわ。名前はなんて言ったの?」
「ミーファンって言ったんだ。とても利口な猫でね。此方の気持ちをいつも分かってるみたいだったよ」
「へぇ〜、そうなんだ。いろんな思い出があるのね。このとき何歳だったの?」
「8歳だったな。15歳まで生きたよ」
「ふ〜ん、じゃあ大体平均寿命ね。よく懐いてた?」
「うん、すごくね。オレが餌をやらないと他の人のあげたものは食べなかった」
「へぇ〜、可愛いね」
「うん、最初はとっても小さくてさ。色も真っ黒だったんだ。玄関に落ちると上がれなくなってた」
「あはは、可愛い〜。色も変わるのね」
「そう、大人になるに連れて段々色が薄くなっていったよ。静かな猫で、あまり鳴かなかった。ペルシャ猫はあんまり鳴かないからね」
「そうなのね…」
そう言って、はるかは再び仔猫達がいるガラスケースを見やった。仔犬達も仔猫達も、思い思いの格好でそれぞれ遊ぶことに夢中だった。はるかは言った。
「翔太君」
「何?」
「私達もこんな感じなのかな」
翔太は質問の意味が分からず、
「え?」
と聞き返した。はるかは続けて言った。
「私達も旦那に監視されて、ガラスケースの中で遊んでるこの子達みたいな感じかな」
翔太は、彼女の質問に驚いた。気丈に振る舞う彼女の弱い部分を垣間見た感じがした。彼は少し動揺すると同時に、そんな彼女に心からの愛情を感じた。
「オレ達は違う。オレ達は自由だ。何者にも縛られることは無い」
「本当?」
はるかの顔を見ると、涙袋に溜まったものがみるみる溢れていた。彼女は震えた声で言った。
「翔太君…私、翔太君とずっと一緒にいたい…翔太と…」
翔太ははるかを強く抱き締めて言った。
「大丈夫、ずっと離れないよ」
「本当に?ずっとだよ」
「うん、本当だ」
通路を行き交う人々の只中で二人はいつまでも抱き合っていた。屋上庭園の入り口から、穏やかな陽射しが差し込んでいた。
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