上下関係が正義だった時代の強豪校野球部時代の話 vol.2

入部早々に、学校を出てからすでにあっけにとられていた僕は、初日から更なる超強豪校の洗礼を受けていきました。

まずは、グラウンドに移動中のバス車内。

座る配置は、3年生は窓側、2年生は通路側に3年生のカバンを膝に抱え、1年生は補助席は使えずに、立ったままカバンを抱える移動スタイルでした。

そして、バスの中では移動中に1年は会話禁止、
睡眠禁止というルールもありました。

ただ、これは序の口に過ぎません。

グラウンドに到着してからは、初めて見る専用グラウンドの広さ、設備の豊富さ、歴代の先輩方の写真が部室に飾られていたり、さすが伝統校という物が、随所に垣間見ることが出来ました。

そんな余韻に浸る暇も無く、各学年ごとの部室に荷物を置いてからグラウンドに集まるのですが、1年はバスを降りた瞬間から、荷物を置いたらダッシュでグラウンドに行き、練習の準備をするという仕事がありました。

僕は強豪校に入るつもりはなく下調べもせずに入部していたため、入部した初日で様々なことが分かりました。

すでに僕が入部した時点で、入学前から野球特待生や野球推薦の同学年10人程度は練習に参加しており、一般入部者はだいたい10人程度おり、それが各学年同じような人数でいました。

さらに一般入部者は、基本的に3年間補欠組として、特待生や推薦者のようなレギュラー組の練習には参加出来ないというのが、初日で補欠組の教育係の先輩から、話を受けました。

その話を聞いた僕は絶望感に打ちひしがれていましたが、ただまだ入部したばかりで野球を辞めたくなかったため、すぐに辞めるという考えにはなりませんでした。

そして何より最大の洗礼は、先輩方ではなく、野球部の監督・コーチの迫力でした。

監督という呼び方はせず、「先生」という呼び方で呼ぶルールがありましたが、先生は当時50代で県内では名将と呼ばれる勝負師であり、部員内では別のあだ名がありました。

コーチも同様にあだ名がありましたが、このコーチは当時30代、OBで甲子園出場時のキャプテンの方で体格もゴツく迫力が半端なかった記憶が、今でも残っています。

練習が始まると、先生やコーチは顔つきが全く変わり、怒涛の如くゲキが飛び交い、気づけばあっという間に、夕方から始まった練習も夜になっていました。

そしてようやく全員が集合し、先生から一言、
新入部員達への軽い挨拶があり、1日が終わりました。

初日は、一般入部の僕は何も練習することなく、
ただひたすらバッティング練習や守備練習の球拾いだけを行なっていましたが、玉拾いの数もめちゃくちゃ多く、無我夢中で玉拾いだけで終わりました。

そして部室で着替え、またバスで学校へ戻る準備をしました。

疲れたせいもあり、僕だけではなく中学の友達、他の一般入部者、特待生達も会話がなく着替えをしていました。

すると2年の部室から、

「1年、早く着替えてバス乗れや、コラァ!!」

と怒号が聞こえてきました…

帰りのバスでは、行きとはまた違う雰囲気があり、
3年生、2年生から1年への説教タイムとなりました。

不満な顔すんな、疲れても膝に手を置くな、
返事をする時は、「はい?」ではなく「何ですか?」、手抜きすんな、などなど、とにかく盛りだくさんな規制がありました。

説教が終わった後は、今度は3年生から、
「1年、全員自己紹介しろ。面白いこと言わないと分かってるよな?」と恐怖の指令が出ました。

もう僕はこの時の記憶はありません(笑)

こうして、初日からへとへとになりながら、学校に着いてようやく解放された僕は、帰り道の自転車で、中学の友達と今日の出来事を話しながら帰路に着きました。

初日を通じて、高校野球の上下関係は、中学なんかと全く違うことを痛感し、僕は気を引き締めて翌日に臨む決意をしながら、寝床に倒れ込みました。

しかし、こんな初日の出来事など、生ぬるかった日なんだと思うぐらい、翌日からも今では考えられない出来事ばかりが起きていきました…

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