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わたしから見た日本人、どうして日本でコロナウイルスが拡大しなかったのか。

まずはじめに、これはあくまでわたし、という無名の日本人から見た、日本人についての見解であることをご了承頂きたい。

日本人とは日本に暮らし、日本国憲法に定められた、教育・勤労・納税の義務を果たしている者のことを言う。

今回の新型コロナウイルス騒動の一件で、わたしは改めて日本人について考えた。

毎日新規感染者数の情報や、非常事態宣言、休業要請、外出自粛、とどれもうんざりするほど目にしてきた。

わたしは以前にも書いたが、元来インドア派であったので、外出自粛など普段と何も変わらないことであるからして、ストレスも何も感じないはずだった。

ところが、実際毎日のように流れてくるコロナ関連のニュース、そして本業での大幅な受注減や臨時休業の知らせを受け取るたび、どんどん気分は落ち込み、食欲はなくなり、全く眠れず、日中もぼんやりして、今自分は何をしたらいいのか、さえ分からなくなってしまった。

ものの見事な鬱である。さすがにこれはどうにかせねば、とメンタルクリニックにかかり、わたしの病状の診察をしてもらった。まぁたかが知れてるかもしれないが、いくぶんかの薬を処方してもらい、たまに眠れない夜もあるが、改善傾向にある、と自分では思っている。まぁこうやって文章を書くことができているのだから、まだマシな方だと思うしかない。

話が脱線してしまった。元に戻そう。日本人についてだ。

今回の騒動で、正直なところ、日本人とは改めて変な人種なんだな、とわたしは思った。

農耕民族であるからなのか、医療技術が優れているのか、世界やマスメディアの指摘のように大規模な感染爆発は起きず、死者数も世界に比べてかなり低い方だ。都市封鎖など行わなくても、目立った騒ぎを起こすことなく、ほとんどみんな静かに自粛をしていた。マスク騒動なんかも取り沙汰はされたものの、再販規制などが速やかに行われた結果、大量に余った製造元不明のマスクが市中で投げ売りされてる。

わたしは花粉症持ちなので、常にワンシーズン分ぐらいのマスクは持っていたので、何も困ることはなかったが、むしろ先に述べた鬱に対する薬の副作用なのか、今年は目のかゆみもくしゃみも鼻水の一滴すら出なかった。それこそ超快適だった。

ただ一部ではそういった騒動はあったものの、比較的穏やかな自粛生活だったように思う。どうして日本人は大人しく自粛できるのだろう。

わたしが思うに、日本人の素地は江戸時代の長屋からその実あまり変化してないように感じる。隣の隣人は何する人ぞ、な高層マンションが立ち並んでいる現代においても、やはり昭和期の隣組の感覚があるのではないだろうか。

人と人との接触を避けること、これが他国に比べ日本人にはひどく簡単なことだったのだ。残念なことに。先程言った隣組の感覚は、隣人を思いやる一方、相互監視の意味も含まれている。その同調圧力を無意識のうちに日本人はやってのけたのだ。

もちろん新時代を迎え、先般話したように自粛なぞ関係ない、自分は好きに生きるぞ!という人もいただろう。だが、大半の人は大人しく家に巣ごもりしていた。だから今の結果がある。

これは他国からは異様としか思えないんだろう。なぜなら、他国は基本的に自由は勝ち取るもの、奪い取ってでも自由を得るもの、と思っているからだ。日本人にとって自由は与えられるもの、という認識を持っている人が多いようにわたしは思う。

そう、日本人は本質的に自由を欲していないのだ。

それどころか、自由であることに恐怖すら感じている。国や企業や家族に守られ、縛られていることに幸福を感じている。管理され、統制され、指示されると安心するのだ。

ここがまさに日本人的であり、今回わたしが言いたかったことだ。

誰もが自由に情報発信ができる現代で、日本がIT技術全般において世界から遅れをとっているのは確かであるが、世界は日本を真似できるだろうか。

ガラパゴスや鎖国と揶揄されることもあるが、わたしは日本人っていいな、と思う。この独自性こそが日本ならではであり、そこから生まれた特異的なサービスやプロジェクト、もの、ヒト、が今後大いに日本を沸き立たせ、そして世界が驚くような何かを生み出していくに違いない。

わたしもそうなりたいし、この文章を読んでくれた誰かにもそうなってほしい。

以上、わたしからみた日本人について、でした。


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