最高の作品『進撃の巨人』最終回の雑感
『進撃の巨人』は面白い。それは北海道の海鮮は旨いと言うのと同じくらい当たり前のことだが、何度言っても言いすぎることはない。
先日、ついにアニメ『進撃の巨人』が最終回を迎えた。漫画の方は2021年に完結していたが、アニメとしても終わる意義は大きい。作画もクオリティも高くて文句なしの堂々たる終わり方で、感動すら覚えた。
賞賛の言葉はディテールが問われない(by 武田砂鉄さん)ので、『進撃の巨人』の素晴らしさを表現しようとしても、ありきたりなものにしかならない。そこから脱却するのなら「批評性」が必要だと思うが、現在の僕には役不足。なので、ここに書いてあることは雑感と捉えてほしい。
※ここから先は『進撃の巨人』を知らない人からすれば、何がなんやらの状態になると思うが、たくさんネタバレを含んでいるのでご注意を!
大きな物語に対するミカサの「愛」
この『進撃の巨人』の終わり方は、暴走したエレンと始祖ユミルを、調査兵団とマーレ軍が協力して打ち倒す、というもの。キーマンはミカサで、キーワードは「愛」だ。ミカサはエレンのことをとても愛している。(エレンも同じくミカサを愛している。あまりそういう描写はないが)。
一方のユミルは、愛の不足に苦しんでいた。ユミルは2000年間、この欠落に苦しんでいてそこから開放してくれる誰かを求めていた。それがミカサだったわけだ。
シーズンが進む度、話がどんどん広がっていくのが『進撃の巨人』の魅力のひとつ。その物語の中で、ミカサの愛はずっと変わらずに存在していた。愛というのは世界の大きさと比べると、小さくて凡庸なもの。ただ、その小さくて凡庸なものが、ときに人を救い、争いの抑止力にもなり得る。
深遠な世界観でありながら、この『進撃の巨人』という物語にケリをつけるのは、一国の正義や個人の自由ではなく、ずっとそばにあった愛。
このマクロとミクロの二項対立がきちんと描かれている点が名作たる所以だ。(もちろん、その終わり方は決してハッピーエンドとは言えないものだけど)。
『進撃の巨人』におけるグリシャが語る「愛」
「愛」が『進撃の巨人』において重要なものである。それを象徴しているシーンがある。アニメシーズン3の58話『進撃の巨人』(ややこしいが58話のタイトル)において、エレンの父・グリシャが、エレン・クルーガーの巨人の能力を継承するシーンだ。
クルーガーが、グリシャに注射を打つ寸前に言う。
さらに「ミカサやアルミン、みんなを救いたいなら使命を全うしろ」と続く。この時代にエレンたちは生まれていないが、進撃の巨人の「未来の継承者の記憶を見ることができる能力」が干渉したのだろう。これはその場のグリシャに宛てられたメッセージであると同時に、エレンに向けられたメッセージでもある。
このグリシャの助言がどう作用したのか分からないが、エレンは愛する仲間たちのため、人類のほとんどを虐殺する道に進んだ。それは、いかなる時代においても自由を求めて進み続ける「進撃の巨人」の使命だったのかもしれない。
大きな物語を閉じ込める小さな貝殻
ただ、最終的にエレンは自らの罪を自覚する。彼は「どこにでもいる馬鹿が力を持ってしまった結果」と振り返った。
このエレンの罪の自覚は、最終章『あの丘の木に向かって』で描かれる。その心情を友人であるアルミンの前で吐露する。それを受けて交わすアルミンとエレンの会話が良い。
エレンは大きくて遠くにある自由を求めすぎて、小さくてそばにある愛を忘れていた。でも、最後には愛に気づく。気づいたからといって、エレンの運命が変わるわけではないが、そこに救いのようなものを感じる。
ふたりが会話している最中に貝殻が現れる。先ほど『進撃の巨人』はマクロとミクロの二項対立が示されていると言ったが、貝殻はそのふたつの架け橋であるかのようだ。この物語で語られた歴史や記憶、そういうものをこの小さな貝殻がギュッと閉じ込め、反響させる。
貝殻を手にしているのが、1話からこの物語の語り手、ナレーターのような役割をしていたアルミンというのは必然的だろう。
また、このエレンとアルミンの語り合うシーンは、ふたりの「友愛」が感じられる。ここにも「愛」がしっかりと示されていた。
と、語ろうと思えばいくらでも語れる。『進撃の巨人』が深遠すぎて、どんな話も関連付けられる気がする。それほど壮大で素晴らしい物語だ。
漫画やアニメの範疇に収まらず、もはや文学や神話の領域に突入している。そんな作品と同時代、同じ国で出会えてよかった。
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