【読了記録】 『貧しき人びと』(ドストエフスキー) 感想
前回トルストイの『アンナ・カレーニナ』を読んだのだが、実はその間ずっと僕の心の中にドストエフスキーの成分を欲する気持ちが湧き出ていた。
トルストイがあまりにも素晴らしく偉大な文豪であることは、わざわざ僕が言うことでもないだろう。しかし敢えてトルストイ作品に足りないものを、僭越ながら僕に述べさせてもらうなら、『濃厚で香ばしい人物』の作中での活躍である。
そうだ。トルストイの作品には、自分の思想や理念を十ページぐらい優に改行なしで、滔々と述べ続けるような、あのドストエフスキー作品でお馴染みの濃厚な人物が出てこないのだ。
このドストエフスキーに特有の登場人物には中毒性があるように思う。ドストエフスキーは今も日本で盛んに読まれるのに、トルストイがさほど読まれないことを、あれこれ分析する向きもあるが、実はその理由って何も難しいことはないと思う。
要するにドストエフスキー成分をより一層欲する気質が、僕らのような多くの日本人にあるというだけのことではないか。
そこでドストエフスキー(以下、ドスト氏と略す)の出世作『貧しき人びと』である。
僕は彼の後期の大作群では『白痴』が未読なので、それを読みたい気持ちもあったのだが、さすがに『アンナ・カレーニナ』に続けてヘビー級作品を入れるのも無理があった。
だけどこの『貧しき人びと』でも、かなりの程度ドスト氏の成分を感じ取ることはできた。
意外とクセのある往復書簡
さて、この作品は主人公の善良な中年下級官吏マカール・ジェーヴシキンと、ヒロインである若い繊細な娘さんのワーレンカとの往復書簡だけで成り立っている。
この設定からしてすでにドスト氏成分をひしひしと感じないではいられないのは、僕の気のせいでもないだろう。
だって今の時代でいえば、良い人だけどうだつの上がらない、よくいる卑屈なおじさんが、HSP気質の若い女性と何かのSNSをしているようなものでしょう。
多分色々な意味で非難轟々ですぜこりゃ。
だけどよく考えると、この手のやりとりにはそれだけ大きな普遍性が隠されているのかも知れない。
そう考えると、人間の本質を見抜く洞察力に極めて優れたドスト氏がこのテーマに目をつけ、いきなり一作目からの題材としたと言うことも、しっかりした理由があったが故だという気がしてくるのだ。
往復書簡の形なので、読者は手紙のやり取りを読んでいくだけで足りる。
だけど各手紙の日付、手紙と手紙の間の時期に起こったであろう出来事、手紙を書いた時の二人のそれぞれの心境などを推測して読まなければならない。
このことを勘案してみると、意外にもこの作品をしっかりと読み取るのは難しいことに気付くのだ。
あらすじだけを掴むことは簡単なのだが、この二人やその周辺人物の細やかな変化などを僕がしっかり読み取れたかどうかを考えてみると、いずれ時間を置いての再読が要求されそうなことに気付かされるのだ。
お金と、それにまつわる人間の本質の話
トルストイにはあまり見られないドスト氏の作品の大きな特徴として、お金の話が多いことが挙げられるだろう。この作品もそもそもが『貧しき人びと』と言うタイトルである。
なにしろドスト氏自身が重度のギャンブル依存症で、金銭が底をついて小説を書くぐらいだったため、このようにお金の話が多くなるのもやむを得ないのかも知れない。
僕もこの手の話にはあまり興味が持てず、どちらかと言うと苦手としている。
だけどそこはやはりドスト氏、お金にまつわる人間と人生の本質を、ここでもズバリ見抜いている。
中盤辺りだっただろうか、マカール・ジェーヴシキンの手紙による
「金持ちは貧しい人が貧しさの窮状を訴えるのを嫌う」
「そのため貧しい人は一層、金持ちに対して卑屈になる」
といった描写は、今日でも、というより貧富の差が更に拡大しつつある今日だからこそ、緊迫感をもって我々の前に現れ出てくるもののように、僕には思われる。
終盤の一気呵成の勢いがドスト氏らしい
物語の中盤のあたりまでは、ユーモアとペーソスを交えながら、つまり悲喜交々に、二人の登場人物それぞれの感情の赴くままに書かれた手紙が並んでいる。
しかし読者は終盤に近づくにつれ、何かしら切迫したものを感じてくるだろう。
考えてみればこの作品は、両親を失い仕事もままならないドスト氏が、文字通り背水の陣で書いた、起死回生の一作だったのだ。
作家として世に認められている訳でもない、そういう人物の書く作品は、得てしてどこかしら鬼気迫るものを持つものなのかも知れない。
終盤のその何か尋常でない勢いに駆られてページをめくっていると、いつの間にやら解説文を含む最後まで読み切っていたことに、僕は気づいた。
上のような事情があったとは言え、ここまで読者に呵責なくグイグイ読ませる作家は、僕は今のところドスト氏しか知らない。
確かに、例の後の五大作品群と比べると、ドスト氏成分は控えめだなと僕は思ったし、それは今も変わらない。
それでもここまで夢中に読ませられ、小説の中で二人の登場人物よりもむしろ、文豪ドストエフスキーの存在をがっつり感じさせられると、僕は当初の目標が叶ったようで、充実した気分になるのだった。
濃厚な登場人物がうんぬんと冒頭で書いたが、その濃厚さの源流となっている、『香ばしすぎる』人物は、まさにドストエフスキーその人なのである。
この香ばしさは、あたかも日本酒や味噌の発酵に使う麹のようで、魔性とも言えそうな魅力と中毒性を具えているように、僕には思われるのだ。
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