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地下シェルター〜ロシア兵に連行された男の末路〜 歪められたブチャ

ロシアの装甲車から兵士が降りてくると、シェルターで避難生活をしていた男を連れて行った。その後、その男が生きている姿を見た者は誰もいなかった。

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ブチャには光(ロシアに占領された悲しい過去)と光がある。

ブチャの人々は今日も前を向いて歩き続ける、重すぎる過去にも負けずに、、

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前回の記事 

6月初旬、初めてブチャを訪れ、破壊された街並み、未だブチャに残る悲劇の跡に圧倒された。

夕方になり、そろそろキーウに戻ろうかと思った瞬間。

遠くに、青い空の下に白いテントがあるのに気がついた。

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あそこに英語が話せる人がいるかもしれない。

それに、何より微かにテントの中に子供達が遊んでいる様子が見えた。

ハンガリーの難民達やニュースで見てきた、悲劇の街ブチャ、ブチャ虐殺、そのブチャという言葉と子供達が遊ぶ白いテントがあまりにも真逆の光景でそのテントが気になって仕方なくなったのだ。

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それが、ブチャにここまで、、二ヶ月以上も取材することになる、全ての始まりだった。

白いテントはユニセフのテントだった。

ユニセフの支援で傷ついたブチャの子供達が遊んだり、カウンセラーと話したり、心の傷を癒すためのテントだ。

ユニセフの支援によるテントではあったが、働いていたスタッフやボランティアは現地ブチャ近郊の人々だった。

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ガリーナ(32) 写真右の笑顔が素敵な女性

白いテントに初めて訪れた時、笑顔で出迎えてくれたのがガリーナだ。彼女はブチャ近郊のボロンキフカ村で学校の先生をしている。しかし、現在は学校が夏休みで休校なのでユニセフのテントのスタッフとしてユニセフテントの運営やイベントを企画する仕事をしている。

彼女の住むボロンキフカ村もロシアに占領され数々の悲劇が起きた、、。彼女もその犠牲者の一人だった。

”ブチャの人たちはみんな話すためにここに来るの。いや、遠くの町や村からも人は来るわ。ずっと、コロナによる規制でみんな孤独だったの、、それなのに今度はロシアがウクライナに攻めてきた。占領時代のブチャは地獄だったわ、、今も、避難した人や居なくなった人が多くて、みんな孤独を感じている。だからみんな話にこのテントにくるの。子供達はコロナや戦争でみんな遊べなかったから、みんな友達と遊ぶためにここに来る。傷を癒すために。、、子供達に家にいて、辛いことを思い出して欲しくないの、、私自身止まって考えたくない、、だからここで人を助けるために働くのよ。”ガリーナはキラキラした笑顔でそう語っていた。

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彼女は笑顔で子供に触れ合い、彼女と触れ合った子供もキラキラした笑顔をしていた。

彼女達の笑顔を見た瞬間、違うと思った。

報道で流れる悲劇で嘆いているブチャの人々、支援団体が救ってあげているとPRするブチャの人々、その姿は自ら悲劇を乗り越えようとする彼女達の姿とは違う。

ガリーナはフレンドリーでいつも取材のアポ取りを手伝ってくれたり、ボロンキフカ村に招いてくれて、現状や占領時代の悲劇の跡を見せてくれた。

しかし、彼女は英語ができなかった。彼女の英語を訳してくれたり、ユニセフテントでの通訳をたまに手伝ってくれるのが、彼女の生徒のナスチャだ。

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写真右ナスチャ(15)

ナスチャはガリーナの生徒で優等生、ブチャの子供達を代表して、イギリス大使に英語でスピーチを読んだ。スピーチの様子は後に記事にしたい。ナスチャの夢は建築家になり、ウクライナの復興を助けることだ。彼女もボロンキフカの村出身だ。

そして、言葉の壁もあり、会話はしなかったがもう一人子供達の世話をする女性がいた。

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彼女は言葉が分からなくても、明らかに子供達の扱いが一番上手で、子供達が彼女に懐いていたのがわかった。彼女はリーザ、ブチャ出身の19歳だ。誰よりもキラキラした笑顔で子供達と遊び、子供達も彼女といる時は幸せそうだった。

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しかし、それは本来彼女が望んでいた道ではなかった。戦争が彼女の家族に牙を向け、彼女の家族の人生を変えてしまったのだ、、、。誰よりも辛い悲劇に直面し、人生を歪められても、笑顔で前に進み続ける。リーザの姿はまさにブチャの姿そのものだった。

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そんな彼女達の努力の甲斐もあり、ユセフテントに居たブチャの子供達は幸せそうに、楽しそうに遊んでいた。

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そのテントでの子供達と現地の人々のキラキラした姿は、正にブチャの光だった。

しかし、ブチャには深い深い、深淵に続く悲劇の闇が存在する。

そんなテントのある広場の周りは、3月末ロシア軍が撤退するまで、ロシア軍の戦車とウクライナ軍の戦車の砲撃が飛び交う戦場だった。

近くのボグザリーナストリートは破壊された戦車とロシア兵の死体がそこら中に落ちている地獄絵図と化していた。

ボグザリーナストリートで亡くなったロシア兵は400人にも及ぶと言われている。

そして、その激しい戦闘がブチャの悲劇の全ての引き金だったのかも知れない、、。

そんな激しい砲弾の雨から身を守るため、ブチャの人々はブチャ中央に位置する、現在のユニセフテントのある場所の近くの学校の地下シェルターに避難していた。

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ブチャ中央の学校の地下シェルター

そんな地下シェルターをユニセフテントのディレクターと、ロシア侵攻時にシェルターに避難していたという学校のスタッフのおばあさんが案内してくれた。

取材当時6月初頭ウクライナ、キーウ地方のブチャは半袖を着なければ暑かった。しかし、ロシア軍がブチャの街に侵攻してきた2〜3月の時点では地下シェルターはものすごく寒く、地下は0度ほどの寒さだったと案内してくれたおばあさんは語っていた。

2月24日ロシア軍がウクライナへの侵攻を開始すると、約500人ほどの人がこの地下シェルターで生活を始めた。

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生後一ヶ月の赤ん坊もこの場所に避難して生活していた。避難した人たちは地下室に布団や上着を今も残したままにしている。またいつ、ロシアが攻めてきても避難できるようにだ。

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地下室中どの場所でも、トイレの臭いが充満していた。埃っぽく息をするたびに不快な気分になる。そんな場所で電気もガスもない暗闇の中、情報を遮断され訳がわからないまま、ブチャの人々はロシア軍の恐怖に怯えて生活していたのだ。

11歳のスタニスラフ少年もその地下室に避難していた。

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写真右ブチャのスタニスラフ少年(11)

スタニスラフ少年”ロシア兵の戦車はブチャの住民が避難していた学校の近くでウクライナ兵の反撃をわざと待っていたんだ。ウクライナ軍の反撃で学校が壊れて、ウクライナ人が死ねば、ウクライナのせいになるから。お母さんがウクライナ軍に学校に人が避難してるから攻撃しないでって電話したんだ。だから、ウクライナ軍はこの学校を攻撃してこなかったんだ。”

正にこれは、シリアやパレスチナでも行われているとされる、民間人を盾にして相手を牽制する、人間の盾作戦だ。少年をはじめ、学校の地下シェルターに避難した500人のブチャの民間人はロシア兵に人間の盾にされたのだ。

スタニスラフ少年”ロシア軍とウクライナ軍が近くで戦闘をしていたから巻き込まれるんじゃないかと毎日怖かったんだ。ロシア軍は僕たちを殺しにきた。何のために殺そうとしたかはわからないけど。ロシアは街や建物なんて要らないんだ。だから、激しい攻撃で街を破壊したんだ。ロシアが欲しいのは土地だけなんだ。”


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破壊されたブチャ近郊ホストメリ

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破壊されたブチャ近郊イルピン

地下シェルターを案内され、一つ疑問があった。ブチャではロシア兵により沢山の人が処刑されたはずだ。元ソ連の国のウクライナの学校には地下シェルターがあることくらいロシア軍も知っているはずだ。ブチャでは数多くの処刑が行われたはずだ。ロシア兵にここがバレたら、残虐な行為が行われたはずでは?

Q"ロシア兵に占領されてる時、ロシア兵はこのシェルターの来なかったんですか?”そう案内してくれたおばあさんに質問した。

おばあさん”ロシア平は何度かやって来たけど、この汚い地下シェルターに住みたがらなかった。だから、すぐロシア兵達は帰っていった、、代わりに私たちブチャの人間は家を占拠されたわ。”

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地下シェルターの猫のための避難部屋

地下シェルターの一室が猫の避難部屋だと案内された。他の部屋より、獣臭と糞尿の臭いがひどい。猫専用の避難部屋なんてあるのか!!と驚いていたら。

”当たり前だろう”とユニセフのディレクターに言われた。

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ロシア軍占領時、このエリアにはガスも電気も無かった。そのため、避難した住人達はシェルターの在る学校の中庭で、毎日焚き火で調理をしていた。しかし、ある日、この中庭にロシアの装甲車がやって来た。そして、ロシア兵達は避難者の男性をひとり連れて行った。そして、その男性が帰ってくることはなかった。連れて行かれた男性と同じ地下シェルターで避難生活をしていたおばあさんは悲しそうな顔で語っていた。

そして、連れて行かれた男性の遺体は

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150〜300の死体が発見されたあのブチャ中央の聖アンドレ教会の集団墓地から発見された。ブチャでは彼のような罪なき市民がたくさん命を落とした。

沢山の建物や家が破壊され、多くの罪なき命が奪われた。

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ブチャ中央の地下シェルターから外に出ると、どこまでも晴れ渡る青空の下ブチャの子供達が遊びまわっていた。

芝生に水をやるスプリンクラーの周りを走り回ったり、

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欧州最大の歌合戦、ユーロヴィジョンソングコンテストで優勝したウクライナ代表カルーシュ・オーケストラのStefaniaを踊ったり

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悲劇の街ブチャ、青空の下、キラキラした笑顔で遊び回る子供達の姿はとても美しく、幻想的ですらあった。

”将来の夢は家をブチャに持つこと。大きなトランポリンを置いて、友達をいっぱい呼ぶんだ。”あの学校の地下シェルターに避難していたスタニスラフ少年は将来の夢をそう語っていた。

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彼がブチャに家を持ちたいのもわかる気がする、この街はロシア軍さえ攻めてこなければ、緑も多く、長閑で住みやすい街だ。子供達も、キラキラとそこら中駆け回っている。

その光景はブチャに来る前にメディアの報道で見た死体に覆われた街、拷問と処刑の街ブチャとはあまりにかけ離れていた。

ブチャに初めて訪れたあの日から、ずっと違和感を覚えていた。

日本の記者やジャーナリスト、日本の支援団体はこの街の悲劇にしか興味がないとそう感じる。

良い記事を書ける悲劇があればジャーナリストは満足し、資金集めのために同情を集める悲劇の動画、またはかわいそうな人たちを救える動画が撮れれば支援団体は満足する。

だから、彼らはブチャの悲劇、彼らのいう現地の都合の良い”事実”が存在するブチャの闇さえあればそれで良いのだ。

しかし、ブチャの光と闇を見なければブチャの違和感を感じることはできない。

しかし、時に”事実”のさらに先にある”真実”への鍵は

前に進もうとするブチャの人々の中に、ブチャの光の中にこそ、隠されているのかも知れない。

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俺はブチャが好きだ、ブチャの美しくも強い人たちが大好きだ。

だから、都合の良い”事実”ではなく、”真実”が知りたい。

”本当のブチャ”の姿を見て見たいのだ。

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次回、娘をロシア兵に射殺されたおばあさんは一ヶ月娘の死体と共に家で過ごした。

”娘は死んだ、、、でも、私は生きてる、、、、”

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