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”娘は死んで、私はまだ生きている”〜娘をロシア兵に殺されたお婆さん 歪められたブチャ

”娘は死んで、、私はまだ生きている。”76歳のアントニーナは光のない瞳でそう語った。

アントニーナはロシア占領下のブチャで40日間娘の亡骸を埋葬できず、40日間娘の亡骸と同じ家で過ごした。

2週間にわたるハルキウ取材からキーウに戻り、再びブチャを取材していた。

7月末から、8月頭にかけて、毎日の様にロシア兵による虐殺の話を聞いていた。

近所の人が、友達が、親戚が、父が、母が、娘、息子がロシア兵に射殺された。

ブチャの住民から、当たり前の様に出てくるそんな話に最初はショックを受けたりしたが、次第にそんな話が日本で言う気温が暑いやら、寒いやら、そんな話の様に当たり前の日常会話のようになっていった。

感覚が麻痺してきたのだ。

ハルキウにいた頃、ミサイルが爆発する音やミサイルの爆発で建物が崩れる音、取材地の周りでバンバンババババとロシア軍とウクライナ軍の戦闘音がするのに次第に慣れていったのと同じ感覚だ。

きっと、ブチャやハルキウの方も同じように戦争に慣れていったのだろう。

おばあさんの話を聞いている頃は、まだロシア兵による虐殺に心と頭が慣れきっていなかったのだ。

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2022年7月末、夕方。

”バイバイ”

”バイバイ”

ブチャの美しい森の隙間から木漏れ日が溢れ出る、神秘的な夕暮れ時。

次のインタビューに向かうため、先ほどインタビューした占領下のブチャから避難した親子の息子、ゴール(11歳)と別れた。

ゴール少年は占領下のブチャで沢山のロシア兵、装甲車、戦車、ヘリ、ロシア兵による爆撃など恐ろしい光景をたくさん目にして来た。避難直前3月11日には隣の家の庭にロシア兵により砲弾を撃ち込まれている。

避難先からブチャに戻ったばかりの頃は飛行機の音がするたびに恐怖でうずくまっていた。

取材当時も大きな音が怖いとは言っていたものの、自転車で緑豊かなブチャの街を駆け回っていた。

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”将来はブチャの市長になりたい。僕は市民を裏切らない、逃げない市長になる。それで、ブチャにスケート場をたくさん作るんだ。ブチャには小さなスケート場が一つあるだけなんだ。一つじゃ足りないよ。大きなスケート場がたくさん必要なんだ。”少年の明るい夢はブチャ取材で残酷な話を聞く合間の束の間の癒しになってくれた。

そして、明るいゴール少年に別れを告げて、次の家に向かった。

ゴールのお母さん、オクサーナ(45)が案内してくれたのは、娘が射殺されたお婆さん、アントニーナのいる家だった。

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”あなたはテレビ局じゃないでしょうね。”

小さな門を潜り抜けると、小柄なおばあさんがそう言って来た。

彼女はアントニーナ、76歳のおばあさんだ。

”残念ながら自分は地位も名誉もない、フリージャーナリストですよ。”

テレビ局のスタッフでないことが分かると彼女は腰をかける場所のある表の庭へ案内してくれた。

日が沈みかけ、か細い夕陽に照らされた美しい庭。

緑に包まれ、綺麗な花が咲いている。

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その美しい、静寂に包まれた庭。

アントニーナは無表情で、いや瞳には光はない、真っ暗な瞳で語り始めた。

2月27日 午前9時

外から道路を装甲車が走る爆音が聞こえて来た。

ターニャはその音を聞き、外へと走っていった。

装甲車がロシア軍のものか、ウクライナ軍のものかわからなかったので何が起きているか様子を見るためにターニャは外に走ったのだ。


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ターニャは庭の門のところに走り、門の上から外を見た。

その瞬間、門の裏を通過していたロシア兵に射殺された。

家のドアの覗き穴からアントニーナはその瞬間を見ていた。

ターニャを射殺した後も、ロシア兵はマシンガンで隣のガレージと畑を撃った。

そして、ロシア兵は家をマシンガンで何発も撃った。

家の窓ガラスは割れ、壁に穴が空き、アントニーナの目の前の家のドアを3発もの銃弾が貫通し、家の内部を破壊した。

幸いにも、アントニーナは銃弾に当たらなかった。

いや、幸いなはずがない、何しろ最愛の娘の命を目の前で奪われたのだから。

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門の上から見える家の前の景色、ターニャが最後に見た光景。この道をロシア兵は走行車で走っていた。

ロシア兵が去ると、アントニーナは娘の死体に布を被せた。

その後、雨や雪が娘の死体に降り注いだ。

それまで、感情を失った表情で話していたアントニーナだが、その瞬間彼女の表情が歪んだ。

そして、顔をくしゃくしゃに大粒の涙を流して泣き出した。

大粒の涙を流しながらも、彼女は話し続けた。

アントニーナは日が暮れるのを待ち、娘の死体を門の前から引きずり移動させ、庭の花畑に一時的に娘の墓穴を掘った。

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ターニャが一時的に埋葬された場所は、先ほど美しい花が咲いていると思った、あの花畑だった。

昼間に穴を掘っていたら、ロシア兵に見つかり、娘のように射殺される可能性がある。

だから、夜、日が暮れてから墓穴を掘った。

家の敷地から外に出るのは、ロシア兵に出会う可能性があり危険だ。

それに、近所の人は誰も娘を埋葬するために手を貸してくれなかった。

アントニーナは2月27日から40日間、家の庭に娘の死体を埋めておくしかなかった。

ちゃんとしたお墓に、最愛の娘を埋葬することすらできなかったのだ。

そして、ブチャからロシア軍が撤退し、ターニャが射殺されてから40日後やっと彼女の死体は庭から掘り出されて、お墓に埋葬された。

庭からターニャの死体が掘り出される動画はウクライナのテレビ局により中継され、世界中に晒された。

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アントニーナが持って来てくれた、ロシア兵に射殺されたターニャ(56)の写真。左の写真がターニャ

Q"ターニャさんはどんな人でしたか?”

アントニーナの代わりに質問に答えてくれたのは近所に住むオクサーナ(45)だった。彼女も涙を流しながら語ってくれた。

”ターニャは親切で、優しくて、本当に綺麗な人だった、、。本当にみんなに親切な人で、子供が居なかったから、きっとみんなの事を自分の子供のように思っていたのかも知れないわね、、。”

オクサーナが泣きながら話すのを見て、アントニーナもハンカチで目頭を押さえながら涙を流していた。

通訳をしてくれたロシア人のアンナも涙を流していた。

アントニーナの涙はジャーナリストとして写真を撮影して日本に伝えなければならない。

そう思ったが、カメラを持つことができなかった。

それどころか、自分自身も涙を流していたのだ。

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次回 ブチャの代表の少女からイギリス大使とボリスジョンソン首相へのスピーチ

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