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「将来のゆめはなんですか。」

「将来のゆめはなんですか」
 幼稚園、小学校の質問でよく書かれていた言葉だ。これを読んでいる貴方は何と答えていただろうか?運転手、花屋さん、スポーツ選手、歌手…。私の周りの子達もこれらのような答えをしていた。

 しかし、それを実現させた人はいない。中学、高校と歳を重ねるに連れて
「現実を見る」
とか言って幼い頃見ていた「夢」を綺麗事だと言う。

人が見る夢だから「儚い」。周りの人達はそんな事を言っていた。

私はそれが気に入らなかった。

始まり

 首都郊外の田舎町に私は生まれた。そこで生まれた私は田んぼに囲まれた小学校へ通っていた。

 全校生徒は100人未満。同級生は20人くらい。勿論クラスはなかった。

 同級生は少なかったが、だからこそ全員の個性が発揮される場があって、一致団結して行事などもできていたと思う。
「学校めんどくさ〜い」
と言いながらも、毎日友達と会えるのが楽しみだった。今もその頃の情景をはっきりと覚えている。

 勉強は大嫌いだったが、小学生らしく遊んで、はしゃいで何事も一生懸命だった。

 小学校6年のある日、卒業アルバムに書く文集の作文。テーマは「将来のじぶんへ」。タイトル、名前、出席番号欄の隣に「将来の夢」と言う欄があった。

そこに私が書いたのは『漫画家』だった。
正直に言うとその頃好きだったものづくりの仕事についての知識がなく、とりあえず知っていた漫画家と言う仕事を書いた。

中学時代

 中学は近辺の小学校5校が固まり、1つになる学校だった。1学年の人数が小学校の全校生徒を上回る数になり、クラスも5つになった。
 その地元の中学の中でも特にスポーツが盛んで、運動部に入る人が殆ど。人もスポーツが盛んなだけあって活気のある子が殆どだった。

 私は美術部に誘われるも、体型にコンプレックスを持っていた為、ダイエット目的でバレー部に入部した。
 入部した後もものづくりは続けていて授業でも技術家庭科、美術だけは得意だった。

 時は進み中学後半、高校進学について考える頃。田舎の中学生は大きく分けて2つの選択肢がある。
・友人、知人が多い近くの高校へ通う
・専門分野を学ぶ、進学校へ通う為少し離れた高校へ通う
普通はこのいづれかを選ぶ事になる。しかし、私はそこにもう一つの選択肢を与えられた。

高校からのスポーツ推薦である。

3年の9月。夏の総合体育大会を終え、部活を引退し、辺りは高校受験へ意識を向け始める頃。強面の顧問の先生から
「昼休みに職員室前の会議室に来るように。」
と言われた。

(何かやらかしたっけ。)
思い当たる節があるような無いような。そんな感じで昼休み、会議室に向かった。

緊張しつつも会議室の扉をノックし、扉を引く。
会議用の長机と椅子が並ぶ中、1番窓際にあるテーブルに顧問が両手を組んで座っていた。
窓から当たる光が逆光になり、顧問の表情がよく見えなかった。
(アニメの黒幕かよ。)
と内心思いつつも、顧問に言われたように座る。

顧問の口から出た言葉は、説教でも成績のことでもなく、私が予想もしなかった言葉だった。

「バレーで推薦が来ている。」
私は
「へ?」
と思わず言ってしまった。

ダイエット目的で入り、2年半ぐらいしか経験していない自分に推薦が来るとは思っていなかった。チームには小学校からバレーを経験していた子、キャプテン、セッターの子など、基礎的技術なら私より上手い人は沢山居た。

 理由を聞く前に顧問が追い打ちをかけるように一言。

「ものづくりが好きな事は俺も十分知っている。だからこそ『スポーツの道』を選ぶか『自分の好きな事を続ける道』を進むか決めた方がいい。」

3日間の猶予を出され、私はその3日間、悩みに悩み続けた。
 この選択が私の将来の方向を決める場になると思ったからだ。

家族、友人色んな人に相談するも結局決めるのは私自身。決めるまでの間、常に頭の中の殆どがこの事でいっぱいだった。

3日後の昼休み。再び職員室前の会議室へ入り、顧問と話す。
私が出した答えは『自分の好きな事を続ける道』だった。

どっちの道を進んでも、必ず切り捨てた方の道は意識してしまうだろう。

どっちを選んでもメリット、デメリットはある。

なぜその道を選んだか、上手く語れる自信はないが、この道に進まなければ、幼い頃から好きだった事を続けなければ、一生後悔すると思ったからである。

親にも、友人にも、教師にも「もったいない」と言われていた。今もその話をするとそう言われることが多い。

しかし私は後悔はしていない。その時の選択が間違っていないと証明する為に行動すると心に決めて行動をし始めた。

高校時代

私が選んだ高校は、地元から90km、片道約2時間半かかる工業高校へ通った。

地元の周囲は普通科が殆どで、ものづくりを学べる学校は学区内には殆ど無かった。そこで、学区外からの入学が許可されている東京の真隣にある高校へ通った。

3年間の生活は周りからストイックと呼ばれるくらいの生活だった。
毎朝5時に起き、6時に家を出て、夕方の6時に帰宅。その後に課題をこなし、7時間睡眠を徹底していた。

課題は必ず期限内に出し、遅刻は一回もせず、時間厳守を徹底していた。

最初で最後の反抗

高校2年後半。進路について意識し始める頃。
本来なら私は高校卒業後は就職をする予定だと、家族間で話ていた。

しかし私は、物足りなさを感じていた。
このまま就職して、自分の満足いく人生を送れるだろうか。ものづくりができるだろうか。
そもそも、私のものづくりとはなんなのだろうか。

そう考えた私は親に
「進学させて欲しい」
と無理を言った。

私の一つ上に姉がいる。姉は大学に行っており、普通の家庭が姉弟で大学進学する事はかなりの負担をかける事を知っていた。

奨学金の手もあるが、結局は借金。返せると言う保証がない限り、大学進学は家族、血縁者達に負担をかける事を知っていた。

親にも始めは勿論反対された。姉の学費でもかなりキツキツだと言っていた。

それでも私は諦めれなかった。そこで諦めたら、中学の決意、決心を無駄にしてしまう。
何より、一生後悔する。

「それでも、進学させて欲しい。ものづくりをさせて欲しい」
私はそう言った。

今まで親の言う事は絶対に聞いていた。そんな私の最初で最後の反抗だった。

両親はそれを受け入れてくれた。
専門学校ではなく大学のみの進学を前提として。

それでも私はよかった。
これで、ものづくりをもっと知れる。

私は設立して10年ほどしか立たない美術大学に通う事に決めた。

大学に行くと、より広いところ、様々な境遇で育った人々とで合うようになった。

その中で一つギャップがあった事に気づく。

私が思っていたよりデジタル技術は進歩していて、中学、高校から自分のパソコンを持って創作している人が多かった。

井の中の蛙が大海を知った時だった。

田舎の当たり前が通用しなかったのは高校から薄々気づいていたが、ここまで成長段階で与えられていたものの差があるとは思わなかった。

これを読んでいる方に問いたいのだが、
幼少期に稲刈った田んぼで野球したり、牧場で餌やりしたり、秘密基地を作ったことはあるだろうか。

もしそうでないのであれば、その頃の私達にとって貴方は都会っ子、お金持ちに見えているだろう。


生徒の課題を見てみても、東京育ち、パソコンを早いうちから持っていたと言う学生はデジタル能力は高かった。

若干の劣等感はある。
だが私には負けていないものがある。
私には私しか持っていない経験があり、それを元にした無数のアイデアがある。それを形に表すことができる。

それを知る機会が遅くとも、その後の行動次第で十分巻き返せる。

実際、私は入学当時より技術面、思考面共に急成長していると思う。
自分から国内外のアーティストと関わり、幅広い知識を身につけ、応用する。

それを大学で繰り返し、学んできている。

これから

正直言うと私はまだ満足できる技術を身につけていない。まだまだ学び足りない事があるが、もう進学はするつもりはない。

歳はもう20歳を越した。
親の脛を齧るのも終わりにしなければならない。

私にとって働くと言うことは今まで「提供されてきた側」から「提供する側」に変わる時だと思う。

家族、友人、関わってきた人から多くのものを提供されてきた。次は私が提供する側にならなければ。

勿論、好きなものづくりを通じて。

「将来のゆめは何ですか」
本当はまだ「漫画家」の夢はある。そのためのストーリーネタ、キャラクター案も部屋の棚一杯に詰まっている。
だが、あともう少し「何か」が必要だ。
それがわかるまで私は漫画は描かなだろう。

それまでは勉強し、考え続けるつもりだ。
幼い頃から好きだったものづくりを続けて。


「将来のゆめはなんですか。」
これを読んでいる貴方は何て答えますか?

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