見出し画像

受容・共感・赦し

なんだか仰々しいタイトルをつけてしまった。
とはいえこれが僕の中に起こったことであり、また気づき、今現在手にしていることなので、このまま続けてみたい。

***

最近、メキシコから友人が日本に来た。

かれこれもう10年近い仲なのだが、その半分以上はまともおに話せる関係ではなかったし、まだお互いにしこりがもしかすると残っている関係なのかもしれない。
だけどそれは過去にあったこと間違いなくて、もしかするとどれほどその友人の心を傷つけてきたのかわからない。

今では純粋にもう一度関係を築きたい、最初期のような笑いあえる関係に戻りたいと願う一方で、向こうは一体僕の方をどう思っているのか、ただ単に謝れば許してくれるんだろうか、という考えが頭の中で渦巻く。
とはいえ、相手がどう思っているのかなんて僕の頭の中で考えたって無駄、絶対にわかりっこない。
そして直接どう思っているのかも聞こうとしても果たしてその友人から出てくる言葉だけでわかるものだろうか?

きっとそうじゃない。

だからこそまずは相手を受容することから始めようと、その友人に再会した際、心に決めた。
再会の場では友人の家族もいて、もちろんメキシコにいたときからよく知る人たちで、幾度となくお世話になった人たちだ。
遠く離れた異国の地でさぞ疲労もあるだろうが、満面の笑みを浮かべて顔を合わせられたのは最高のスタートだったかもしれない。
せっかくの機会なので近場を案内し、再会のひとときを爽やかな真っ青の秋空の下、銀杏のほのかな匂いの混じる秋風薫る中、小一時間ほど言葉を交わして過ごす。

友人の母親は度々日本に行ってみたいとこぼしていたこともあり、今回人生初めての海外が日本ということで、感無量の涙が頬をつたい、声を詰まらせているのを見て、こちらも胸が何度も迫るものがあった。
どれだけの思いで今回日本へ来られたのだろう。
本当は2020年4月に来る予定だったらしいが、パンデミックの影響で今年になったと聞く。
まだ数年前までは元気そうではあったが、今では足も少し痛そうで歩く姿からもそれは何度も見て取れた。

その後、日を改めて食事に誘った。

友人は少し困惑したような表情を笑みに込めて、もちろんと言ってくれた。

とはいえそんなことがすんなり運ぶ筈もあろうまいと。
せっかくの日本なので、日本らしい雰囲気と美味しいご飯を味わってもらいたいと敢えて行きつけの定食屋へと車で向かう。

事前に調べなかった自分が悪いが店のシャッターには「本日臨時休業」の張り紙、なんてこった。

近場にお好み焼き屋があることを思い出し、最近夜の営業をしてない日があるのも頭にちらついたが、そちらへと向かう。

あたりは暗く、シャッターには何もない。

さあどうすると言わんばかりのアクシデント。

仕事終わりの妻も遅れて来るところが、結局間に合ってしまった。
結局向かいにある昔ながらの定食屋へと行くことに。

メニューも文字しかないので、一つずつ説明して、またおすすめをして一人ひとりメニューを決めていく。

パンチパーマがかかったようなおばちゃんは、ぽいと紙と鉛筆をおもむろに差し出し、「決まったら書いて持ってきてなあ」と。

その対応にびっくりした表情を見せる友人の母親と初めて来る僕の妻。
そりゃまあ一見さんはびっくりだろうに。
なんせ注文もお冷もお箸も取皿もセルフ、最後にお皿とお盆まで持っていくのが常連の流儀のお店。
ハチャメチャだが親しみやすい大将とおばちゃん、いつの時代の価格設定かと言わんばかりのコスパと美味しさに地元では有名なお店だ。

それぞれにメニューを決めて待っている間に同じスペイン語圏生まれ育ちの妻を紹介し、歓談の時を過ごす。

妻が友人に僕がメキシコにいるときのことを尋ねた。
友人は目のあたりを押さえながら、真っ赤な目で絞り出すように、僕のことをよく思っていなかった、確執があったことを認めつつも、今日こうしてこの場に誘ってくれて、妻まで紹介してくれて、嬉しかった、勘違いしていたと告白した。

妻が咄嗟の機転で、「だよね~、性格意地悪いし、天邪鬼だし〜。」とイジりを入れてくれてみんなの顔から笑みがこぼれる。

あの場では笑って誤魔化すしかなかったが、友人の勇気には心から有り難いと思ったし、申し訳ないという感覚を覚え、また妻にも救われた。

本来だったら、贖罪すべきは僕自身であって、何を言われてもされても何も言う権利すらないのに、たった友人の一言の告白で全て解けた気がした。

去年のいつだったか、ニシトアキコ学校話し方教室の第一講で「あなたにとって好きな人、嫌いな人の特徴を書いてください」というひとときがあった。
好きな人は5,6個しか書けないのに、嫌いな人はわずか1分あまりでその倍以上15個ぐらい書いた。

適当な人、整理整頓ができない、自分で最後までできない、お調子者、人の話を聞かないなどなど。

ただ書いた瞬間に気がついたことがあった。
それは僕自身がそれを自分の近しい人にやっていたこと。

その時から心に決めた。

優しい人になりたいって。

もう自分の言葉、行動で誰も傷つけたくないって。
むしろ他人を庇って自分が矢面に立つぐらいになりたいって。

でも僕はまだまだできてないし、むしろ友人や妻のように、もっと優しい人間に囲まれていることに改めて気づかされた。

敵わないなあ。

どれだけの思いで僕の申し出を受けて、そして僕へのわだかまりをどれだけの勇気を持って伝えてくれたのだろう。

友人の感情や思いを理解しようとすると、まるで自分の心がグサグサと何か刺さるような気持ちで、それでも理解したい、共感したいという思いいっぱいだった。

出てきた言葉はただ一つ「ありがとう、ごめんね」だけだった。

そうこうしている間におばちゃんが、「はーい、唐定のお客さん、あと他のんも取りに来てー。」と僕たちを呼ぶ。
友人は唐定、僕はチャンポン定食を食べるとき、
お互いに「これ食べてみて〜」と。
アッツアツのチャンポンで口は火傷しながらも、甘くて優しい味わいが心に染みる。

食べ終えてからもしばらく話は尽きない。
この日本での出来事やメキシコでの出来事、昔の同僚やこれからしたいことなどいろいろ話はどんどん湧いて来る。

友人とこんなに話をしたのはいつぶりだろうか。
そういえば帰国間際もそんときにしてなかったよな。

そうこうしている間に大将がが玄関に向かい、のれんを立てかけている棒を使って下ろし始める。
僕はおばちゃんのところへ空いたお皿とお盆を持って会計をお願いする。

気づいた友人が自分が払うと言って聞かないが、振り切って会計を済ませる。

せめてもの救いをと思ったが、無論こんな一度の食事で贖罪できるわけもなく、これからの僕の行動がその気持ちが本物か証明することになるだろう。
それでいい。

店を出て友人が一言。

「今日はまさかあんたと一緒にこんな日が来るなんて夢にも思わなかった。本当ありがとう。」
目頭がまた熱くなる。

ありがとうを言いたいのは僕の方だ。

許されないかもしれないことをした人間を受け入れ、その思いを理解し、赦す。
僕がそうしようと思っていたが、傲慢な考えだった。
それは自分がするんじゃなくて、相手にしてもらうこと。

自分にできることはありのままを受け入れようとすること、これに尽きるじゃないか。
むしろそれ以外にはできると思っているのは幻想だ。

自分で気づきを得るんじゃなくて、きっと与えられるものだろうし、今度は僕が今回の友人のような役割を与えられる人間になりたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?