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「図書館」の形態と担い手の歴史的変遷【温故知新PJ⑪】

今で言う「公共図書館」が生まれたのは、近代のことです。

では、「図書館」はどう変わっていったのかを、世界史的視点から見ていきたいと思います。


古代西洋世界では、戦闘は起こるものの、奴隷制度などで市民には勉強する時間が多くありました。

その背景により、人口増加に伴い交通などで話の内容を文字に起こす必要性が生じました。

文字の成立は古代バビロニアやメソポタミアで起こったとされています。

この地域では灌漑農業がおこなわれており、物質の受け渡しの記録が必要であったことから文字が誕生したのです。

次第に読み書き能力は独占されていくようになり、文字を覚えさせることができるのは資産家などの固定された階級のみとなりました。

そこで書記という役職が生まれていきます。

古代メソポタミアの新アッシリア王国の黄金期を築いたアッシュールバニパル王(BC7世紀)の図書館なども登場します。


実際「図書館」という機関が作られたのは、アレクサンドリアでした。

アレクサンドリアはアレクサンドロスによって築かれた都であり、後継者のプトレマイオスによって開かれたプトレマイオス朝で「ムセイオン」という学術研究の場が作られました。

このムセイオンの付属施設として大量の書物を集めた図書館がアレクサンドリア図書館です。

形態は学術図書館のようなもので、担い手は学者など知識者がほとんどでした。

クレオパトラ7世の治世にもアレクサンドリア図書館は重要な位置を占めていましたが、3世紀後半頃から次第に破壊され,ローマ皇帝テオドシウス1世治下の 391年にはキリスト教徒の手によって破壊されてしまいました。

(なぜキリスト教徒がアレクサンドリア図書館を破壊したのか、が気になりましたのでまた調べてみたいと思います。おそらく、宗教的に多神教の立場であったり、その知識の蓄積自体が布教の障壁になっていたのでしょう)


ではそのローマではどうだったのでしょうか。

ローマの公共施設の中に図書館が含まれていたとされ、市民の利用に貢献する公共図書館の形態であったとされています。

帝政ローマのころには知識の生産・共有の舞台が整っており、多くの人々が享受できる状況でした。

しかし、5世紀ごろのローマ帝国の東西分裂やフン族の侵入、ゲルマン人の大移動などによりローマ内部で混乱が生じ、知識共有の文化が失われてしまいます。

加えて7世紀のアラブの大征服により地中海の制海権も失いました。
ローマ帝国の勢力が低下していったのですね。

その後ヨーロッパ世界は封建社会に入り、同様な日常が繰り返される中で識字率が低下し、知識共有の営みが一気に衰退したとされます。

しかし、そのような時代でも知識共有を続けていた機関があり、それが修道院なのです。


ここまで読んでくださりありがとうございました!

次回は中世の「図書館」について書きます!

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