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認められなかったので、認められたかった。愛されなかったので、愛されたかったんだと気づいた。

生まれてはいけない存在が生まれてしまった。そう感じていた。

中学生の頃から、20歳になったら死のうと考えていた。漠然と。

夏の日差しと蝉の死骸。


タイトルと冒頭からは伝わりにくいけど「#8月31日の夜に」に投稿した昨日のノートを書くにつれ、そして書き終わった後で、疑念が少しずつ形を持ったものへと変わりつつあるのを感じた。

ああ、自分は、認められなかったので、認められたかったんだって。うまく愛されなかったから、愛されたかったのかもしれないと。

(上のハッシュタグのノートを読ませてもらうと、良い投稿がたくさんあった。一人じゃないって思えた。少し希望を感じた)


一番最初にnoteを書き始めたモチベーションは、怒りと憎しみを表現するためだった。それは遺書であり、食い込むような爪痕でもあった。


それが一段落すると、自分の心のダメージを回復させたいと思った。これは現在進行形。


そしてその次に来たのが、表題の通りのこと。

ただ、それはどんな相手に、どういう形で行われればいいのかまだはっきりとしていない。

不特定多数を相手にすべきなのか、親密な数人を相手にすべきなのか、たった一人とだけ向き合うべきなのか。これらの複合的な形なのか。

自分はどういう行動に出ればいいのか。相手にどういうものを提供すればいいのか。あるいは求めるべきなのか。

このあたりがはっきりしていないということも原因で、他人を傷つけてきたなという自覚もある。

でも余裕がないときって死にもの狂いだし、失敗してみないとわからないこともあった。


こういうのは一方的な自分の都合の押し付けではなく、相手との関係の中で築かれるものだと思う。

そういうのをすっ飛ばし、本心ではなかったり泡のように消えてしまいそうな言葉や態度にはあまり興味が持てない。するのもされるのも。お互いのためにならない。支配と愛のちがい。悪用と活用。

同時に、認めることや愛することも気分が良くなる。受動の形で語られがちだけど、能動も実は楽しいし大事。なんか変に恥ずかしくなってきたけど。知らないけど。


僕には広く世間に認められるタイプの能力適性があまりないけど、それゆえに出来ること・生み出せること・与えられること・受け止められることを引き続き試行錯誤していきたい。ずっとそうしてきたつもりだ。

自分の中では自分をけっこう良い奴だと思ってるし、頑張ってきたつもりなんだけどなw 何でこんなに苦しんでるんだろうw


相変わらず日差しは強い。蝉の死骸がひっくり返って路上に転がっていた。まだ歩くだけ。

頂いたサポートは無駄遣いします。 修学旅行先で買って、以後ほこりをかぶっている木刀くらいのものに使いたい。でもその木刀を3年くらい経ってから夜の公園で素振りしてみたい。そしたらまた詩が生まれそうだ。 ツイッター → https://twitter.com/sdw_konoha