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Vol.55「40年前の大作」

最近は『いつか見ようと思っていた映画』が「デジタルリマスター版での再上映」という形で映画館で観られるケースも増えてまして、先日も映画館で(1984年に劇場公開された)デヴィッド・リンチ監督版『デューン/砂の惑星』を初鑑賞。

なお、ざっとしたあらすじは…
遥かなる未来。アトレイデス公爵一族は転封したばかりの「砂の惑星 ” アラキス(またの名は デューン ) ” 」にて、ハルコンネン男爵と皇帝の共謀による奇襲を受ける。一族は滅亡したかに思われたが、公爵の息子 ” ポール ” は母 ” ジェシカ ” と共に脱出し、砂漠の民 ” フレメン ” の集落に身を寄せ、復讐を開始する』
…というものです。

※下記は1分間の予告編です。

この作品については(フランク・ハーバートによる原作小説は未読ですが)以前より、 ” 公開時の不評 ” と それに反発する様な ” 一部のファンによるカルト的な人気獲得 ” のエピソードをさんざん見聞きした事で興味は湧いていて、ようやく観る機会を得た訳です。
(「どうせ観るのなら、劇場で観たい」というのが人情!?ですよね。)

実際に観てみれば、確かに「内面モノローグの多さ」とか「後半の ” 連続ドラマの総集編 ” を観ている様なジェットコースター的な展開」には面食らうものの、(「酷評を受けた作品」という事前の知識からすると)なかなか楽しい作品でした。

ただし、のちに劇場公開されたドゥニ・ヴィルヌーブ監督版の「デューン 砂の惑星 Part1、Part2」を先に鑑賞したことで、私が違和感を覚えてしまった点がいくつかありまして、それは「主人公ポールの心の軌跡」、「女性キャラクターの扱い」、「フレメン(惑星アラキスの原住民)」の描写です。

ドゥニ・ヴィルヌーブ監督版で描かれる主人公 ” ポール ” は、「復讐」の意思はあっても、多くの犠牲者を生む事にも繋がる「 ” 人ならざる者 ” (救世主)としての覚醒」には逡巡し続けますが、デヴィッド・リンチ監督版では そういった逡巡はなく、むしろ積極的に「 ” 人ならざる者 ” としての覚醒」を目指すので、動機と行動がシンプル過ぎる様な ” 肩透かし感 ” を覚えてしまいました。

また、ドゥニ・ヴィルヌーブ監督版の「Part1」はヒロインである ” チャニ ” の姿から始まり、「Part2」がチャニの姿で終わることからも分かる通り、女性キャラクターの描写にも かなり重心を置いていますが、デヴィッド・リンチ監督版でのチャニは それほどセリフもなく「ポールの予知夢を証明するだけに現れたキャラクター」にすら見えますし、ポールの母 ” ジェシカ ” の描写もドゥニ・ヴィルヌーブ監督版では、終始 芯の強さを保って、時にはポールに立ちはだかる様な存在感を示したのに対して、デヴィッド・リンチ監督版では、中盤以降はポールに導かれるだけの様な存在に見え、女性キャラクターの扱いが終始軽く感じました。
(『救世主としての覚醒』について「女性では到達できない境界がある」と くどい程 触れられていたのも、その一因)

そして、砂漠の民 ” フレメン ” も、ドゥニ・ヴィルヌーブ監督版では独自の文化を持った気高い存在として描かれ、その ” 生き方の知恵 ” をポールが教わる姿が印象的だったのに対して、デヴィッド・リンチ監督版では逆に ” フレメン ” がポールに教わるだけの存在に見えました。

もっとも今挙げた、私が感じた違和感のいくつか(女性キャラクターの描写、原住民の描写)は、 ” ドゥニ・ヴィルヌーブ監督版の描写云々 ” 以前に、 ” 現在の社会通念 ” で感じた違和感かもしれませんし、そう考えた場合『劇場公開された1984年のリアルタイムで観ていれば、ここまでの違和感は覚えなかったのでは?』とも思います。…そうなると、ドゥニ・ヴィルヌーブ監督版の「デューン 砂の惑星」を ” 40年後の社会通念 ” で観たら、さて どんな風に見えるのでしょうか?

では、今週も締めの吃音短歌(注1)

「叩けば 鳴るのよ 昔のラジオは」 「私はどこを 叩けば良いのさ?」

※ ” 機械が動かない時に、機械を叩く ” …今は、こんな光景を見かけなくなりましたね(笑)

【注釈】

注1)吃音短歌

筆者のハンディキャップでもある、吃音{きつおん}(注2)を題材にして詠んだ短歌。
この中では『「吃音」「どもり」の単語は使用しない』という自分ルールを適用中。

注2)吃音(きつおん)

かつては「吃り(どもり)」とも呼ばれた発話障害の一種。症状としては連発、伸発、難発があり、日本国内では人口の1%程度が吃音とのこと。

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