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俺とキハ85の話

 今年のダイヤ改正にて、JR東海の特急形気動車であるキハ85形が高山本線「ひだ」運用から引退した。
 キハ85と「高山本線」というのは生まれてから最初に投入された路線であり、またこの形式を語るのに非常に大事な路線でもある。そしてその登場は、日本の気動車特急に於いて「第2の進化」とも思える大いなるインパクトを与えた。
 そんなキハ85形が、永らくの使命を高山本線で終えた。その年数は30年近いものとなり1つの車両が駆け抜けるのには最近では充分と言えるのかもしれない。ましては特急形だ。何なら同じ東海地区では使命をたった15年近くしか果たせずに引退した若すぎる特急形も居たけれど…それを考えると、この形式はかなり運と恵まれた環境下での暮らしをしていたように感じる。

高山本線での最後の活躍を映したのはこの機会が最後だった

 この形式の一路線撤退…というメインイベントには本当に「形式の終末」をそれこそ感じさせるようなムーブがあり、最終日には沿線民や歓迎客に高山の住民たちも巻き込んでの大フィーバーだったのを眺めていた。非常に大きな効果をもたらし、そして同時にJR東海の新型特急車とコレからの世代交代が非常に大きくアピールされた大事な機会だったのだろうかと感じる事ができた。
 高山本線での記録…というのは「あるのはある」状態で沿線に家族や友人知人を持つ訳でもなく、乗車にもそこまで恵まれなかった為「写真」だけでしか印象が残らなかったのが正直だった。
 しかし、12月のクリスマス厳寒の折に岐阜県を通過した際には長大編成(コレでも短い方かも)のキハ85を見かける事ができ、最後のシーズンについて思いを巡らせる事ができた。そして多くの撮りを志すファンたちが高山にこの気動車たちを撮影しに向かっていた理由も、何処かで身をもって感じるところがあった。
 しっかしながらだ。1両単位で編成を自由に変えてしまう事が出来る能力。そして個性を持ち続けた車両の数々。それはもう、世代交代以前の国鉄型気動車に近い何かの要素を持っているような気がする。八面六臂の車両運用は本当に昭和の気動車を細かく振り分けて組成していた時代を彷彿させ、四季折々イベント毎に対して様々な編成を持ち込んでいたのは本当に感嘆の思いであった。

 しかし、四国2000系でもそうだったがこのような時期に登場した気動車でも、「先頭車だけで編成を組ませた」状態というのは非常に何か唆られる物がある。
 この場合は「先頭車で先頭車を封じ込めた」状態となっており、側から見れば「挟み撃ち」状態にされているようにも感じるがコレが「キハ85形」の通常運転だったのだ。繁忙期やシーズンが嵩んで編成が応急組成…となった時にはこんな編成をよく見かけた印象があり、JR東海の特急列車が成す代名詞のような光景にまでいつしかなっていた。非常にこの味わい深い光景にも残り短し期間…が近づいている。時代は進んでしまったのだ。

 個人的には何か…「ひだ」時代。「高山本線」での活躍を偲んでケジメをつける意味でも、「ひだ」時代の話に接して進めておきたいと思った。
 そんな中で、唯一のキハ85形最長乗車区間にして最長編成に乗車した経験がある。
 それは昨年の5月頃だった。新潟を出て長野から北陸新幹線に乗車、富山から下って高山に寄り道した時の話である。
 この時、高山から岐阜方面に向かう列車は普通と特急があり、自分としては「どちらも」選択が可能な状態であった。しかし来てしまったからには…な気持ちが何か動いたのだろう。気付けば「ひだ」の切符を手にしていた。
 写真はその「ひだ」を連結するシーンだ。確か、富山から下ってきた編成だったような気がする。今となっては…というより、引退を控えると撮影者が大挙して撮るのもやっとだったこの記録だったが、22年のこの時期には少ない観光客と僅かなファンだけだった。平和といえば平和…なのかもしれないが、非常に自分の今の捉え方としては「旅情」を感じてしまう。この時点から「特急ひだ」のイベントが始まるんだという。

 多くの乗客は既にスーツケースを携えて自分の乗車位置に待機…だったが、こうして記録を残していたのは自分と残りの僅かな人…だけだったあの頃。
 思えば本当にキハ85という車両が特急らしく、そして車両としての個性を濃く発揮出来ていた時期だったのかもしれないと今になって思ってしまう。この後以降に新型・HC85系が投入され、噂されていた「ハイブリッド特急」の高山本線投入は現実化した。
 昨今の鉄道ファンの過激な行動もなければ、こうして観光の一途的なムービングとゆったり撮影できていたキハ85形の記録は、自分にとってそれだけで何か尊い物に感じた。
 この後、座席に着座する。しかし車内も本当に時代のムーブメントを感じる物だった。
 しばらくのダイヤ改正までの期間…だったりキハ85形の引退ムードが高まっていた時期、懐かしめな書体と共に「メタモルフォーゼ・高山ライン」という宣伝も流れていた。キハ85という車両がまだ初々しかった時期が的確に出ている。

 着陸したのは1番前の座席だった。というか1番前の座席に着陸できると思わず、「まさか」の感情しかなかった。
 この以前に乗車したのが、祖父母宅に戻る際の南紀で松阪〜津での乗車。
 しかしそんな時でもあまり意識しなかった「最前席」をこんな時に座れてしまった。この時は車両の区画が「自由席」だった為にこの座席に着陸できた。というか今考えると贅沢すぎる事をしているような気しかしない。
 ダイヤ改正夜明け前の鉄道ファン達が血眼になり、脳内の毛細血管が切れる勢いで掴み取っていた座席に多少簡単に座っていた…のは今となっては少々不思議な気持ちになっているというか。
 この座席にて、自分は高山から美濃太田までの時間を過ごした。眺望は…として実に良い体験をしていたと感じる。
 この長旅では色々な列車に乗車していて、一部の中には早くも「乗車が叶わない」列車が混ざっていたりするが、キハ85形ひだ…については本当にアトラクションに支払う感覚で乗車して正解だったと今になって思う。いや、そうとしか思えない。

 高山を出て僅かな時間…ではあったが、「ワイドビュー」な車窓からは夕陽が落ちる様子を自分のモノにして眺める事が出来ていた。
 コレも無理矢理…かもしれないが、「ひだ」の記録に加えて何か思い出したくなる。しかし時間は時間としても、本当に素晴らしい眺望を持っている車両だと感心した。
 普段ならば空いている時間に少し…だったりラストの1区間を…な状況を、こうして1人のモノにしている状況は本当に良かった。高くなった肘掛けもそうだが、何よりも外界からの情報量が非常に多くて気持ちの良い列車だった。
 この時はたった一瞬でしかなかったが、JR東海特急形が標準搭載している「ワイドビューチャイム」を一瞬だけ聞く事が出来た。次の下呂でも停車し、発車の際に鳴るかと期待したが結局鳴らず。この高山発車加速時限定の体験になってしまった。
 余談になってしまうが、キハ85形の引退記念列車では「幻の」隠しワイドビューチャイムなるものがあり、それを引退契機に鳴らす事になり披露されたという。素人耳では若干しか判らなかったが、やはりこの東海が心血注いだメタモルフォーゼの潮流を浴びていた時間は自分の人生の刺激だった。

 ちなみにこんな事が出来るくらいの環境。割と広めに感じる…というか、最低限の事は出来る環境と喩えた方が早いかもしれない。(弁当がファンシーポップなのは見逃してください。)
 この時の弁当売りさんも今や懐かしい。
「新型でまた来るから」
と交わした約束はいつ果たす事になるんだろうか。

 自分にとって。
 自分にとっての「本当の」キハ85形の思い出というのは、ここの「南紀」が原点なのではないかと思ってしまう。今でもその気持ちは変わっていないし、「ひだ」再熱の際にはより一層その熱が濃くなったようにも思える。
 南紀…は名古屋から紀伊勝浦・新宮まで走る特急気動車というのは皆様も知っての通りだろう。そしてこの路線にも「気動車特急近代化」のメスが大きく入り、キハ85形を投じてJR化後の潮流に追いつく事にしたのだ。
 写真は今年の帰省時に撮影したものだ。紀勢本線には両数制限が存在している関係もあり、この長さが精一杯だが身近で活躍する非電化役者には知らず知らずに魅了されついて行く自分がいた。

 自分の母方実家というのは三重県は津市にある。そして紀勢本線は生活路線でもあったのだ。
 母も祖母も「汽車」と慕いながら紀勢本線と暮らしており、自分だけが「JR」と呼んで孤立しているのとは裏腹に、何か祖母周辺の家庭環境だけは国鉄時代で停止しているのは非常に味わいがあった。
 そんな紀勢本線…だが、祖母との買い物や自分の用事で出掛けてゆくと踏切待ち等で、「南紀」に遭遇する事がある。そんな時に最初は
「図鑑にあるワイドビューが!!」
という反応だけだったが、少しずつ「南紀」の存在を知って愛着が湧いていく。生活の軸は近鉄でも。伊勢鉄道と接点がある南紀を使わなくても。自分と距離がイチバン近いイメージがこの列車にはあった。

 そして、近鉄に乗車する前によくその姿を見掛けていた事も縁が生まれてゆく一因だったのかもしれない。「津」・「松阪」…と近鉄はライバル会社のように見えてJRと駅の共用をよくしている生活柄がある。
 その影響か、南紀の姿は自分の心を知らずに動かしていった。
 現在は輸送量見直しなど…から編成両数を2両にまで短縮されてしまった南紀だが、その華々しさが残るであろう「ワイド」な全面ガラスの先頭車がギャップある2両で走っているのは非常に面白い。
 それは「撮影」だけの話で。実際の乗車はとんでもない顰蹙を買っているそうなのだが。(こういった減車対応なども南紀の理由が減衰する理由なのか)

 何かこう、特別な思いがある…列車の世代交代を若い時期に迎えるのは初なので少しどう身構えるべきかを悩んでしまう。
 しかし、そんな列車だからこそ「自分が身直に感じた風景」ないし「自分の生活を思わせる記録」で撮影する方が好きになっているのは事実だ。あまりこれといった有名な場所には時間の手前もあって…ではあるが進出経験がなく、津市〜鈴鹿市で回収してしまう事が多々ある。あまりこの列車に対して「雄大な海の風景」を浮かべた経験は自分の中であまりなかった。

 気を抜いたら、南紀の増結もカウントを切り始めた。しかし現状…と頭を捻って脳に頑張って頂いた結果。こんなカットでせいぜいかと出たのがコレだ。
 近鉄との併走が始まる区間付近での撮影。家族は正月再会の歓喜を分かち合っている中、自分だけ「散歩」と誤魔化して家から出て行ってこの記録を撮りに行ったような。
 しかしこの付近の踏切も、キハ40系列が走っていた時期から母の車や祖父の軽トラなんかで何回も待った場所だった。こんなカーブを描く場所とは思わず、最後の足掻きには程良かったかもしれない。
 母の前では
「あ!南紀や!!」
と喜び長い編成だった時には大いに気分が湧き上がっていた記憶が蘇る。

 三重県の鉄道高速化…に貢献?した伊勢鉄道。既に30年以上転換され経過するが、南紀の速度威力を影で保持している重要な鉄道だ。
「そういえば伊勢線の記録も」
と何かサイドメニュー注文感覚で歩き出したのもつい最近だった。滅多に盛り上がらない地域…だったが、自分でもこんなに雄大な場所があったのかと開けた高速向けの線路を再認識した。
 個人的に細かい箇所を挙げて…とするなら、やはり「名所案内」の看板が若干東海と変化していないのが写真を眺めて非常に面白く感じるポイントだ。あくまでも東海からの転換線ではあるが、「東海のアイデンティティ」は「こうして残存」しているのが面白い。

 そして、つい最近には「京都鉄道博物館」にJR東海初の展示車両としてHC85系と共に入線を果たした。
 梅小路の留置線での待機があったという事は、つまりな話をすれば「自分の生活圏を支える電車」と同じ場所に「祖母宅の思い入れを持つ車両が来た」という事になる。こんな形での邂逅になる事を全く想定はしていなかったが、両側非貫通だったため自分的には「反対側が貫通だったら南紀」というイジりまでしていた。非常にそれくらい、距離感を縮めてくれたのが祖父母との生活沿線の中にあった事実なのである。
 この展示には知人たちと参加し、新たな歴史を踏み出した東海の車両たちを歓迎した。この日は晩に醤油騒動があり(コレが理由かは別)寿司ブームだった背景から西院のスシローに向かって全員でたらふく寿司を食べ倒した思い出が残る。
 しかし、この寿司で締めたキハ85形との歩み…は終わってなどいなかった。

 おそらく。今年の鉄道大ニュースの中でも必ず触れられるであろう事件をキハ85形が起こした。
 京都丹後鉄道への譲渡…である。
 この展示機会を終えたキハ85形についてはその後が非常に注視されていたが、まさかの大阪方面に回送され、そして更にその日の夜に塚本を振り切って尼崎へ。尼崎からは何とそのまま福知山線を走り抜け、遂に西舞鶴という新たな寝床に着いたのである。
 この事実については本当に何も知らず、更には全く予知できた出来事でも無かった為に「へ??」の文字しか浮かばなかった。途中の川西池田や武田尾を走ってゆくキハ85の2両編成などこの先あったと語ろうものなら誰が信じるのか。それ位の出来事だ。
 結局、そうして新たに「京都丹後鉄道」に異動した「キハ85形」だったが、ナイトドライブを決行して下さった知人に冗談で
「西舞鶴行ってみます?」
と勧誘した。…の結果、こんな写真を残してしまったという訳だ。
 非常に何が起こっているか分かりづらい。というか画像そのものの解像度が低いのをお許し頂きたい。何せカメラは低スペック機なので。
 自分の祖父母へ会いに行く夏休みの思い出…だった車両が、少し長い列車の旅をしてしかも堂々の日帰り範囲で会いに行けるような場所での活躍をコレからするというのは非常に信じ難い。
 この事は京都新聞でも大きく報じられ、そして東海のメディアも「新天地に高山本線の気動車転職」との記事を打った。

 今回は「自分にとって」のキハ85形の話を長く書いてみた。
 取り敢えずは書き残し…な感じがあるので、後世に見返して
「俺こんなんやったか」
と思えたら良いなくらいの気分で今まで走らせた。
 さて、1つの路線で活躍を閉じし気動車となったキハ85形。個人的な感想…としては何か、自分でも予想外に濃い記憶を閉じ込めていた気動車だったなという事だった。
 やはり、自分の生活圏内(この場合は生活圏内に触れるのか)に該当し、少しでも掠っていたのが大きかった。しかしながら1つの本線での特急運転終了は非常に悲しい…ではなく、自分にとってJRの新時代を予感させる出来事のように感じた。
 東海の技術の粋をを投入した新たな「メタモルフォーゼ」が開化する事を祈って。自分は残りわずかな期間で思い出を残して。
 自分にとって大事な記憶の残る車両にしたいと同時に、京都丹後での活躍も気になる新たな歴史も非常に楽しみな形式だ。

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