見出し画像

ACT.25『九州グランドスラム 5 おとなになって』

その移動は想定外

 写真は出発日の朝の食事…ではありますがと。中々記事の更新が遅いし、まだ6月の半ばに入ってGWの旅の話書いているのかと思われている方多いかもです。しかし、前回やこれまでの中には…外部的な書籍から資料として情報をお借りしたり、年表を辿ったりと様々に時間が掛かりました事を一旦お詫び申し上げます。ここからはあまりそんな事ないので!
 という訳で翌朝。と昨夜の話。熊本市電に迎えられての夜を明かし、様々な電車を撮影した。そして、エントランス内で開かれた『朝食会場』にてホテル代の分を…と何杯も懲りずに朝の食事を食べる。この時は『ご飯→パン』を何回も繰り返して食事し、朝ドラや九州NHKを眺めつつこの日の行程について考えていた。しかし。この先はかなり無理がある行程だった…に違いない。

 昨夜の話だ。写真は翌朝の宿泊室内。
 旅先にいる…という事だったので、コンビニ飯を食べながらのTwitterスペース配信を試みる。その際に福井でお会いした知人の方が入ってくださり、九州にいるのか…というやり取りが始まった。
「…明日どうすんの?」
「明日…ってかホテルを都城に取ったのでそこに行こうかなぁと」
「都城か…ん?都城!?え?熊本からやろ?どんだけ離れてんねん?」
「え?」
「熊本から都城、行けん事はない距離ではあるんやけど100キロ以上離れとるからコレ辿り着くんかい?」
「うっわ…いけますかね…」
と、自分で計画してはいたものの結果、自分が距離など全く知らず萎縮してしまう結果になってしまい知人を驚かせてしまうように。しかし、この宿泊しているチェーンホテルから翌日の宿泊先、西都城駅前までの距離を測ってみると相当その距離は離れており、知人がそう頷くのもよく分かる話であった。
 この時点では自分は完全に九州の南方面に関しては情報が疎い感覚であり、当初は
「鹿児島に近い場所に宿を置けたら」
の気分で都城市を選択していた。しかし、それが熊本市からだと距離で裏目に出る。
 果たして。本当に成功するのか?
 と、知人の提案ではこのようなものだった。
・豊肥本線に乗車してしまう。出来る限り朝早い列車
・豊肥本線に乗車する。しかし、特急に乗車しての移動になるが。あそぼーい‼︎九州横断特急などとの都合を合わせなければならない
・昼まで滞在して、日豊本線を縦断して佐伯経由
とこのような提案が出てきた。が、さてどれを選択したのか…

決意とターン

 豊肥本線で大分方面に向かう事にした。
 佐伯経由…でも全然アリだったかもしれないが、自分としてはこの方面で行ってみたかった。
 というワケで、朝の寝起きで熊本駅の窓口にいる。この窓口で、何を問い合わせるか…というと、豊肥本線の観光特急『あそぼーい!!」についてだ。
 この特急列車は運転日が規則的に決定されている…また、観光列車としての運転、他に座席の配置を特殊にした結果…と機械にその座席の空席を反映する事が出来ないようになっている。
 そんなワケで、今の自分は曇り空の中を寝起きで熊本駅の窓口に立っているのだ。新幹線関係の対応を終えた駅員の前に、緊張を孕んだ自分が聞き出す。
「すいません。あそぼーい!!って空席あります?」
「待ってくださいね…はいはい…」
「あぁ…」
「申し訳ございません。本日満席でございます。」
「わかりました。ありがとうございます。」
結果、惨敗。そもそも人流が復活したこの時期に観光特急に乗車するのも無理な話、だろうし豊肥本線の観光特急に乗車するのも難易度が高い事と分かりきっていたのに対応が遅すぎた。
 結果として画面を記録だけ。車両はキハ183系が日本最後の車両として充当。北海道の車両として北国を疾走する仲間に混じって製造された九州の仲間…にはあと一歩が届かず乗車ができなかった。車両だけで見れば、往年のジョイフルトレイン『シルフィード』にも近い感覚を持っていた、鉄道の豪華な時代を伝承するデザインをもしている。またの機会に会う事になろうか。

 そのまま、豊肥本線の旅がスタートした。電車にも適当に乗車し、
「こんなもので良いのだろうか」
という感じで長旅が始まろうとしている。
 熊本を出て最初に停車した駅は、『平成』という駅だった。この駅の存在は前回、令和4年の九州訪問時に気になっている存在であったが実際にアナウンスされ、そして停車して扉扱いを受けている様子を見てしまうと
「本当に存在しているのだな」
と思ってしまわざるを得ない。元号を冠した駅…として、関西人だからこその馴染み深い駅として大阪環状線の『大正』が存在しているが、九州の人からすれば。熊本の人からしてみれば、そんな感覚でこの『平成』という駅も地域の顔馴染みの駅になっているのだろう。そんな事を1人思ってしまった。
 乗車時の電車の乗車率は、空席が埋まっているほど。電車の利用率はかなりある感覚で、水前寺方面までだと人は交通機関を利用して移動しているのだろうかと考えた。きっとこの先は別だろうが。

 新水前寺の駅で一旦、途中下車をした。下車印も貰って、少々気持ちを落ち着けた中で最後に熊本市電を撮影する。
 次の豊肥本線が到着するまでの間、とリミットを決めての撮影であったが、熊本市電は本数が多いのでかなりの車両を撮影する事が出来た。バスのような感覚で走り、そして専用的に敷かれた軌道や保守的に厳しい電車と異なってのんびりした時間を過ごしている路面電車。
 上を走っているJRが大自然・阿蘇へ向かう本線だとは思わないくらいの都会的な眺めがそこには広がっていた。

 熊本市電・新水前寺の駅前に関してはこのようになっている。スロープが架けられ、JRとの乗換えを前提にした構造と考えて良さそうだ。
 JRに関しては1面・1線のスルー式構造の駅になっていたが、路面電車に関してはJRとのパイプを意識しているのか構造が非常に頑丈な作りになっている。そして、路面電車が豊肥本線まで接近していると当初知った時には熊本の路面電車ネットワークに驚いたものだった。
 撮影した車両は、9200形。前回に辛島町で遭遇した際には広告のない通常塗装の電車だったが、今回は製菓メーカーの広告を施した電車になっている。そして何より、広告電車になってもパノラミックな運転台周りのデザインインパクトの強さは健在である。

 その横を車体流用電車の8500形が健軍町方面に向かってゆく。車体はグラデーションカラーになっており、通常塗装の白系メインの通常塗装に比較してみるとかなりイメージが変化したように感じる。
 9200形と比較してみるとかなり角張った車体をしている…が、自分にとっては左の8500形の方が乗り物の形状としては好きな感覚がある。ユーモラスというか、存在のインパクトで印象を残してくる9200形も捨て難いと思ってしまうが、やはり自分にとっては『軽快電車』スタイルが好きな手前8200形由来の角張った車体をついつい推してしまうのだ。
 去り際にも考えてしまうが、路面電車の塗装は統一・落成時の塗装も良いがやはり広告・イベントに即してラッピングやイベントの仕様にされたものも非常にその街を象徴している感じがして素晴らしい。そして、輸送力のハンデとして往時は嫌われてしまった…観点となってしまうが、車体の小柄さがまた街によく似合っているのだ。
 そういった魅力を感じ考えながら、自分はこの熊本市街に別れを告げて大分方面に向かっていく事にした。

 熊本市街の果て、という感じでもあろうか。水前寺の駅に列車は到着している。
 この駅で列車が行き違った。豊肥本線は単線で運転されている為、列車の区間毎での行き違いが欠かせない。それは電化区間でも変わらずで、肥後大津まででも同じような光景が繰り返されていた。
 写真としてこのようなモノを記録した背景にはJR九州の古来の駅名標があったという感動から…残したモノだが、やはり現在の主力車両である817系とこの駅名標が共演しているとその年季を考え込んでしまう。
 そういえば、この水前寺に関してはかつて宿泊したゲストハウスのオーナーに
「熊本市を観光しておくなら熊本城と水前寺公園さえ行っておけば大体は終わるから」
と言われ、実際に拍子抜けしてしまった記憶がある。その旅では熊本城しか訪問しなかったが、実際に
「水前寺公園さえ」
と長年の市民の方が仰るその場所とは一体どんな公演なのだろうか。思えば行ってみたくなった。
 そして、この水前寺駅といえばかつては非電化路線であった為に電車の乗り入れが不可能であった。現在では肥後大津まで電車は乗り入れる事が可能になっているが、その昔は豊肥本線に架線が張られておらず熊本県と博多を結ぶ特急・有明が力づくで豊肥本線に入線。熊本駅から水前寺駅までをディーゼル機関車・DE10と車掌車・ヨ8000を改造した特殊な電源車を併結しDE10+ヨ8000+特急有明という現代では考えられない編成でこの水前寺駅まで入線していた事は、鉄道ファンとして記憶しておかねばならない。
 そんな有明も、最後は熊本県すら離れ肩身の狭い列車となり、鉄道史の名門の肩書きは何処へやら…とその使命を閉じて現在は廃止になってしまった。

噴火口へ行くには

 肥後大津に到着した。ここで電車と気動車が分岐し、架線が途絶えてしまう。豊肥本線にとっては系統分離の駅であり、気動車特急か気動車運用の直通列車に乗車する以外…ではこの駅で一旦下車しなければならない。
 とこの駅で下車した。列車はこの駅で折返し、再び熊本市内に向けて走り去っていった。切なく列車の走り去る音が消えてゆく。
 この先の列車について眺めていたが、当分来ないようだ。そして、気動車列車の気配もそこまでない。何をすれば良いやら。
 熊本市内に戻ろうか、と考え、新水前寺で再び路面電車でも撮影しようかと過ぎり始めた。しかし、ここまで来て引くわけにも行かない。

 駅にはこうして、「この駅からカルデラ鉄道・豊肥本線の長旅が始まります」といった感じの宣伝文句も打たれていた。
 この看板は平成28年の熊本県地震にて被災し、それ以降の震災復旧を祝して掲載された看板だ。この肥後大津で熊本市内での鉄道ルートは一旦終了し、この駅からはいよいよ阿蘇カルデラへの鉄道の道が幕を開ける。
 熊本城が少しづつパズルのように完成し、息を吹き返す姿は圧巻の一言として我々県外民は記憶しているところ…だが、この先の阿蘇方面では未だに震災の傷跡が残っているようだ。
 震災からは6年と既に小学生が入学すれば中学校入学を視野に入れた考えを持たねばならない…年月が経過してしまったが、こうして鉄路には未だ癒えない、そして古傷が未だに残っている、その古傷をこれから自分は見る事になっていくのだろうか。
 広大な噴火口の鉄路へ、自分の気持ちが沸々と煮える。

 肥後大津での発車標だ。この時は記念に…と全線開通の記念看板を入れた写真撮影をしている。
 列車の本数は、過疎地帯を走っていく…事を如実に表しているのか極限に列車本数が減少していく。この駅に到着したのは10時過ぎ…だったが、次の列車は昼前にならないとやって来ない。
 何をすれば良いかかなり困ってしまった。そのまま駅構内で時間を浪費し、策を捻っていく。しかし、発車標には昼過ぎに発車していく列車の直前に怪しい列車の名前が掲出されている。『かわせみ・やませみ』。一体何なのか…。

 結局考えているだけの時間を過ごしている、という感覚だったので、列車の撮影をして暇を持て余す。
 やってきたのは『九州横断特急』という列車だ。大分〜熊本を日豊本線・豊肥本線経由で結ぶ特急列車であり、車両は国鉄最後の特急型車両であるキハ185系が用いられている。
 久大本線でもこの車両を使用した『ゆふ』という特急列車を久留米で見かけた事があったが、やはりこの特急車両に九州で出会うという体験は何か関西の人間なので特別な気分がしてしまう。

 車両を拡大してみると、副灯が装着されていたり何故かワンマンの行灯が装着されていたり、かなり土地の事情に配慮した鉄道車両になっている事が判読できる。ここまでの改造度合いだったどうか。
 そして、トレインマークは文字で『九州横断特急』と記されている。気動車特有の汚れも相まって非常に列車愛称が判読できない(し辛い)状態にまでなっているのは気にしてはならないのだろうか。渡り板にかんしても色ハゲで銀色塗装の部分が見えており、車両が歴戦の日々を生きてきた事が何となくわかる。

 この車両は、『国鉄最後の特急型気動車』でもありJR九州にとっては『JR四国からの会社間譲渡車両』でもあるのだ。
 写真に映している台車に関してはそのまま(四国時代と比較して)だが、車体に関してはそのまま四国からの譲受を受けた車両が現在も採用されている。
 キハ185系は製造・ランニングコストを極限まで抑えた気動車特急であり、また曲線区間での速度向上。そして短編成での車両運用にも貢献できるように…と車両スペック面で設計された気動車特急だ。
 そして、優秀な国鉄気動車の設計を反映しその保安機械や運転設備なども極力流用させる事によって、赤字国鉄・そして民営化された際のJR四国地区に備えて短編成での運用も検討された設計になった。

JR四国内でキハ185系の置換えを担った四国2000系。高速道路網、瀬戸大橋開業後の四国鉄道界を変えた。※ 2021年撮影

 キハ185系は四国地区に投入されていた特急気動車…であったが、その役割は非常に短いものであった。四国投入後の活躍として、特急『南風』『しおかぜ』等の本線系統に充当されていたが、キハ185系による充当の歴史は呆気なく終了してしまう。
 瀬戸大橋開業に備えて、JR四国が新型の気動車特急開発を決行したのだ。それが写真に掲載した2000系の投入である。この2000系の投入により、キハ185系で運用されていた特急列車は徳島方面に転籍…していった他、一部の車両が現在のように九州に会社間譲渡されて活躍している。
 現在、九州で活躍しているキハ185系は四国鉄道の高速化。そして高速道路や交通網の整備の影響によるものであり、少し悲運な境遇でもあるのだ。

 そうして、現在のキハ185系。
 九州横断特急は熊本へ走り去って行った。水前寺を抜けて、熊本の市街を走行すれば目的地はもう少しである。最後の力走を見せるべく、自分の前から去って行った。
 四国時代のキハ185系と現在見ているキハ185系では、何か差が大きい…というか「何処かで見たような」といいうリアクションも同時に、コレが離れた兄弟かという気持ちにもなってしまう。
 離れた兄弟も、四国に残った仲間も、現在は元気に互いの大地を走っている。いつまで走るのだろうか。

 817系がやってきた。九州横断特急との行違い運転になるようだ。豊肥本線の路線許容的にも単線の運転は致し方ない事…でもありつつ、電化は肥後大津まで。
 緑の熊本所属を示すステッカーを貼った817系とも、しばらくお別れになるのだろうかと撮影していた。

 列車にはこの距離まで接近しての撮影が可能になっている。非常に長閑な駅で、構内踏切も設定されている普段は静かな駅だ。
 特筆する事…があるとしたら、この駅は空港が近い事、そして読み仮名が難しい事位になるのだろうか。
 先ほどから平然と肥後大津と記しているが、この駅は『ひごおおづ』と読むのである。実際に記事の作成でも『ひごおおづ』で駅名が出力され。
「本当だったんだ」
と改めて感動の思い出がある。九州らしさを見てしまったかもしれない。

 駅周辺はこうして静かになっているが、実の事を告げるとこの駅は『阿蘇くまもと空港』の最寄駅なのである。
 こんな静かな駅からどうやって…と思ったが、どうやら小さなシャトルバスが輸送の任務を負っているようだ。
 そういえば、この空港も降り立った事があったなと自分は思い返して1人、『阿蘇くまもと空港』の副駅名を眺めていた。既に中学の時だったが、あの時に夏休み、書類を出しての志願制で阿蘇山火山の見学に行けるツアーへ行かせてくれた。既に何十年も前だが、鮮明な記憶だ。
 こうして現在、成人して安旅行で再びこの空港の近くに来ていると思うと何か思うものがある。中学の時代は、ここまで成人して広範囲に渡り歩く人間になると到底考えもしなかったろうに。
 余談になるが、シャトルバスに乗車して空港まで向かって時間を潰してから阿蘇方面に向かう事も考えた…が、そういう考えにもならなかった。結局、この後に待ちきれなくなるのである。

凱旋は豪華列車で

 この駅から次に向かう事が出来たのは、『宮地』という駅だった。この『宮地』で一旦の系統分離も実施しているようで、とにかく行ってみるしかないと思わされた。
 とまず、選択肢が2つ。
・11時15分の観光特急『かわせみ、やませみ』に乗車して宮地に
・11時49分まで待機して普通列車で宮地に
どのみちこの2つしか選択はなかったが、
「まぁ正月だ、一杯飲め」
と誘われ断れない気分で気付けば窓口に
「すいません、かわせみやませみの指定席…」
と聞いていた。
 すると、指定席が少し空いているという。かくなる上は乗車してみるしかない。青春18と異なり、乗車券効果も付いてくるなら良い経験にはなるだろう。
 とやって来たのはこの列車。真っ青な車体に副灯・移設された尾灯。そして、鳥の飾りと派手なラッピングだ。一目で「なんか違う」列車のお出ましだとすぐにわかってしまう姿。この列車に乗車して、非電化区間を一旦突き進んでいく事にした。

 乗車してすぐ、こんな風景が目に飛び込む。
「列車ですか?」
と。それもそのはずだろう。
 この列車をデザインした人の本職というのは、『建築デザイナー』なのだ。JR九州では既に馴染みが深すぎて裏で手を回しているのでは、と思ってしまうほどよく見かけ、その車両デザインを担当し監修している、『水戸岡鋭治』氏のデザインによる車内デザインである。
 車両はキハ47形がベースになっているが、そのベースになったキハ47形の面影など何処にあろうか。完全に払拭されてしまっている。ここまでしなくても良いのではないだろうか。

 車両にはカウンターと本棚も設置されている。本棚にはカワセミ・ヤマセミに関する書籍。そして鉄道に関する書籍が陳列されており、誰でも自由に読書できる鉄道図書室のように開放されていた。この本棚から絵本を取り、父母に渡して読み聞かせや共に読書を楽しむ家族層の乗客もこの日は乗車していた。(GW祝日期間中だったので)
 そして、棚には列車に関する工芸品や土地の産物などが。こうしたモノを飾っていくのはもはや、水戸岡鋭治氏のデザインが定番を成していく範囲であり鉄道ファンには「またか」と思わせる何かになっているのだろうか。

 地域の地酒に関するコーナー、そして観光乗客に配慮したインスタ映え狙いのペープサートが用意されている。
 そして見えるは乗客の客席だ。棚と客席の距離感は割と近い印象で、列車内を移動しているとスグに目につく印象があった。狭い空間なので尚更かもしれない…が、列車の動線の中ではかなり煌めきを放っていたと言って良いだろう。
 その展示類も地酒・特産品、沿線に関するモノ、カワセミ・ヤマセミの由来や生物の特徴について…など。非常に多種多様な列車であった。

 列車内にはカウンターが設置されている。この日は営業していなかった…が、観光列車には必須のアイテム。
 こういったモノを配置して接客を行い、輸送している列車に乗車している辺り
「何か違う異質なものに乗車してしまった」
感覚すら残っていたが、こういった感触を覚えておくのも旅の思い出になって良いかもしれない。
 このカウンターは営業していなかったが、写真で撮影した分だけ見ると行灯…というか幻想的な灯籠のように感じ取れて非常に感動する思いになる。組子の中で明かりが光り輝くのが余計にそうさせているのだろうか。

 車内の棚、鉄道図書室のようになっている区画の棚を拡大してみた。
 どうやら列車名の由来になっている、鳥類の『カワセミ』の工芸品が展示されているようだ。
 作品自体は繊細に造形されており、非常に眺めが良かったのだが、残念な事を挙げるとすればこの展示物が鉄道図書と同じ場所にあった事だろうか。同じ場所にあり、書籍を手に取る人々との動線が被ってしまい折角の造形品が壊れてしまう…と恐怖に震撼してしまったのだが、そういったことは乗車中発生しなかったので良かった。
 しかし、あと1歩でそういった事故が発生する手前…な位置にこの工芸作品は展示されており、列車や僅かな振動でも揺れが目立ったように思う。(少し記憶が曖昧になってきた)
 そして、工芸品として撮影したからにはと『カワセミ』の事を熊本県での事象を中心に調べてみる。
 すると、通過した水前寺公園の江津湖付近(そんな名称だったか)に毎年冬に飛来。そして、熊本では八代市付近に生息しているのだとか。日本全国に生息が確認されている野鳥ではあるが、昭和40年代以降の自然開発によってその数は激減し、日本では希少な野鳥としても扱われてきた。
 しかし、現在では回復しているらしくその目撃事例や観察数・生息数も向上しているそうな。そんな影響もあってか、野鳥観察の世界や鳥類の世界では知名度の人気が高い鳥類であり、名を馳せている。
 そんなカワセミだが、青を基調とした美しさから『飛ぶ宝石』とも呼ばれている。その美しさは翡翠にも匹敵し、漢字での宛にも採用されている。
 餌を取る際には渓流域で静かに佇み、水面から獲物を狙っている。その美しい姿は日本の里山の原風景に最近は数えられている印象が個人的にはある。
 カワセミの特徴は、オスの嘴が黒色。メスの嘴が赤基調になっている…ということのようだ。
 こうしてその美貌で全国の野鳥愛好家から人気なカワセミだが、その美しさはこうして工芸品にも留めたくなる美しさがあるのだと思ってしまった。

 コレが列車内の風景だと思うだろうか。コレがあの国鉄時代、セーラー服や学ランの少年少女たちを送り届けた朱色の汽車と同じ車両の車内だと思ってしまうだろうか。そう下らないくらいには変わった車内だと思う。
 地酒がある事によって、ショーケースはワインセラーのようにも感じるし。イスと机の雰囲気で、書斎のようにも感じてしまう。
 何か列車ではない特別な質感のように思ってしまう。…が、乗車していると「ゴォぉぉぉぉぉぉおお」と下から豪快なエンジンサウンドがする。そして、時に鋭い加速も見せてくる。
 そういったモノを五感が享受した瞬間、現実に返されてしまう。自分の居る空間が何か分からなくなってしまう…が、ある程度の金額を支払ってこの体験は非常に良いもの・有意義な体験だったかもしれない。

 気が付けば、こうして列車の旅を楽しんでいる自分の姿が存在している。
 この列車は片運転台の車両を背面連結して『カワセミ』・『ヤマセミ』と呼称しているハズなのにスタンプは別押しなのは一体なんなのか?とこうしておもってしまったのだが、強制的に自分は1枚にロックオン。日付は自分でペン書きしましたとさ。
 そして、『カワセミ』と『ヤマセミ』って何が違うの?というのも同時進行で解決。どうやら『カワセミ』と『ヤマセミ』の違い…というのは、渓流部に住んでいるか山間部に住んでいるかの違いなのだそう。(あっていたかな?)
 余談なオマケ、にはなるが。
 自分はあまり、駅スタンプというのは押さない方だ。しかし。こうして乗車証や乗車記念の無料の記念配布証に関しては持って帰ってしまう性分で、ついつい気持ちが動いてしまう。
 今回もその動きの下…で押してしまったが、なにか下手な気がした。

 自分の乗車した場所にはこうして、組子作品の灯籠があったり…と素直に着席しているだけでも充分に良い座席だった。
 唐草紋様のように見えるこの装飾も、水戸岡鋭治デザインの定番の何かなのだろうか。結構昔の観光列車では…見た記憶が残っており、古い伝統として今も自分の記憶を刺激している。

聖地に挑む

 しばらくすると、列車に乗務するアテンダントが登場した。どうやら、この場所が走行区間としてのn見所のようだ。
 …と登場したのは赤水⇄立野のスイッチバックだった。このスイッチバックに関しては名前を聞いたのがかなり昔の事になる。小学生の時期に読んだ図鑑以来だろうか。本当に昔以来の遭遇に自分は驚き、景色への感動や羨望より
「懐かしい!!」
の再会のようなものが前面に出ていた。
 この豊肥本線赤水⇄立野スイッチバックは古くから鉄道の名所であり、急勾配に鉄道が挑んでいくために昭和古く…から鉄路で組まれた聖なる場所である。何枚も先人や多くの列車が挑む様子を眺めており、自分にとっては感動も混ざっていた。

 まず。列車は立野駅に到着する。この立野駅がスイッチバック区間の始まりの駅だ。
 立野で、肥後大津行きの普通列車と行き違った。向こうも乗車中の『カワセミ』『ヤマセミ』おなじく、多くの乗客を乗せていた。座席は満杯といった感覚だろうか。
 この立野駅で列車の進行方向が逆転する。立野からは助走を付けるための勾配を一気に上昇し、阿蘇に近づく赤水へ向かい走るのだ。
 運転士も進行方向を変える為に反対側へ移動し、準備は万端…といった雰囲気で、列車の空気はテンションが温かくなっている。
 鉄道を知らずに乗車している観光の乗客。家族連れの乗客。そして自分のような若者の旅人。多くの乗客を交え、いざ出発だ。

 立野スイッチバックとは、どのようなものか。
 立野スイッチバックとは、立野から赤水までを結ぶ勾配を攻略するための区間だ。昭和3年に豊肥本線が全通しても、この区間だけはとにかく難所なのである。なにしろ、勾配が33.3‰もあるのだから。
 スイッチバック、といえば構造は単純だ。列車の方向をジグザグに変え、進行方向を変えて山道を登っていく。斜面に対して鉄路を梯子の様にして掛け、山を切り拓き列車を押し上げるというものだ。坂や勾配の区間を走行していく際には列車の方向は進行方向と逆転した方向になっているが、スイッチバック区間が終了すると列車の進行方向は元の向きに戻って走行する。トンネル建設が日本では未発達だった折、このようなスイッチバック建設で山間区間を攻略する…知恵は多く存在していた。現在でも、木次線の出雲坂根に残りしスイッチバックは急勾配に対しての補助の意味が多く残されている。
 しかし。この豊肥本線・立野スイッチバックの恐ろしさと珍しさ。難関はそこにあるのではない。
 単純な折り返しスイッチバックをせず、2回も折返してZの字を描く2回方向転換した2段式のスイッチバックだからである。
 折り返し地点の標高は306メートル。そして、立野から坂を登っていく為に逆方面を向いている距離は何と1キロ近くも存在している。コレだけ長距離の距離を跨いで急勾配に挑む鉄路も中々存在していないだろう。
 しかも、この標高の区間を高森線のC12は勿論の事…として、豊肥本線には9600形にC58形と図体の大きな蒸気機関車の活躍区間でもあった。その為、蒸気機関車の末期、動力近代化が迫る時期には石炭を燃やしたSLもこの勾配へ果敢に挑んでいたのだった。近年では、SL人吉として転身した8620形58654がこの区間をSLあそBOYとして闘っていたが、とんでもない負担が大正生まれの身体を蝕んでしまう勢いとなってしまった。絶景と引き換えに大規模な犠牲までしていたのだった。

かつて立野スイッチバックに挑んだ年齢100歳の58654 ※2022年撮影

 立野スイッチバックに関する解説を一定…とまで投じれたので、ここから先はこの周辺の沿線環境について調査したので掲載していこうと思う。
 周辺の駅、まずは瀬田駅だ。この駅から豊肥本線・阿蘇カルデラの難所は始まっていると言っても良い。この駅の標高は既に170メートル存在している。
 そして、スイッチバックが始まった立野駅。この立野駅の標高は、277メートルだった。この時点でも非常に高いが、この立野の標高からスイッチバックを試みて阿蘇の鉄路は更に上昇をしていくのだから非常に興味深い。
 スイッチバックの終着駅となる赤水駅に関しては、465メートルの標高だった。この標高差を鉄道で乗り越えてゆく。現代の力なら、土木建築や様々な方法での解決策が存在しているだろう…と推察されるが鉄道でここまで挑んだ先人たちの迫力にh改めてして頭が上がらないモノである。

少しづつ見えた何か

 そのまま、阿蘇カルデラを目指して列車は進んでいく。エンジンも唸らせ、気動車らしいサウンドも聴きながら豪華列車の旅路に慣れていった。
 見渡せば、水前寺公園だ空港が近いぞ街にくまモンは居ないか等騒いでいた喧騒は既に大きな原っぱになっており、雄大な自然の中を走行していたのだった。この先、列車は繋いで繋いで大分に向かっていくのだろう。

 車窓を見ていると、思えばココまで来るなんて思わなかったし…自分は今成長できてないなぁと気づけば回想している。
 最近になって(記事を描いている時期)になって知ったのだが、自分は過去の記憶というか、そういった未練について拘束性の記憶として一生涯残っている…大きなものを抱えて生きている様になっているらしい。
「あの時、阿蘇に一緒に行った学校の皆んなは元気だろうか」
とか。そんな事まで気づけば考えている自分がいた。帰りの飛行機に搭乗する前でお土産に悩んだ事とか、発達特性で注意された事なんかも。
 そして。大人になって阿蘇の大地を鉄道で再訪問。全然成長してなくて、変わったのは執念というかこの場所に向かっている交通手段だけなのか…

「車窓をごらんください。」
とのアテンダントの案内で車窓を眺める。
 どうやら、熊本の震災で被災しその復旧が完了した場所が見えくてくる…そうなのだ。
 案内に従って車窓を見つめてみる。
 思えば熊本の震災という件に関しても本州にとっては何か過去の記録のように感じてしまうが、九州。特にこの豊肥本線沿線ではつい最近の事なのかなと思ってしまった。
 時間の流れの無常さ、だろうか。残酷さ、だろうか。そういった何か切ない時間が列車の中に流れてくる。

 車窓に映えたのは、復旧まもない阿蘇国道の1つ…として新阿蘇大橋だった。
 他にも、この付近では新たに阿蘇国道として多くの道が震災からの復旧を遂げており、確実に震災からの脱却を図りつつある。そして、久しぶりに地震関係の単語を聞いた…のでアテンダントに質問を入れてみた。
「この付近というのは、未だに震災の跡は残っているんですか?」
「まだそうですね。残っている部分は多いです。そして、この辺りに軽自動車が震災で転落して犠牲になって…慰霊碑が立っているんですよね。」
「阿蘇の方は被害が大きかったんですね。熊本城址の復旧で熊本の地震は一定の復興を迎えたイメージがありましたが、こうして現在も震災の傷痕を残している場所があるとは…」

 観光列車にて豊肥本線を通過した証拠、にとこうしたアングルからの撮影も行った。
 少し幻想的に仕上がった感覚は残っている…が、弱化の怖さも勝っているかもしれない。
 熊本にとって、震災の傷跡は既に復活したと思っていてもまだ残っている場所が多かったり。そして、自然の多い場所だからこそ感じるその怖さの様なものを感じたり、と自分の中では豪華な列車の乗車以外にも学びのある時間としてこの時間を過ごせたと思っている。

 こうした自然の恐怖も現在しか記録が出来ないモノだろうか。
 次回の豊肥本線乗車時にはどうなっているかn…と考えれば不明だし、この状態でいられても見栄えは良くないだろう。
 震災、事故の怖さ、そしてこの周辺の事故の怖さというのを目に染みて理解してしまった。自分の中で、元々『目にしてその怖さや現実を痛感』する方ではあったが、これは想像以上の傷跡が入っている。
 中学の時にはこうして熊本が被災都市なってしまう事を想定していなかったが、何かこうしたモノも時代の背景か歴史なのかなぁ…と今では思ってしまう。

豪華列車の旅終わる

 気付けば、『カワセミ』・『ヤマセミ』の旅は終了していた。
 乗車区間は肥後大津から宮地までと非常に短い区間ではあったが、特別な列車に乗車できて良い時間が過ごせたのではないかと思っている。
 と、下車して列車撮影。写真は『やませみ』と記された車両だ。車両自体はキハ40形の改造であり、そのままの形式を採用。そして付与番号が改造付番になっている。(9050だったような)
 車両自体はかなりメルヘンな仕上がりになっており、アンテナの位置に風見鶏のような『カワセミ・ヤマセミ』らしき鳥が止まっていたりと面白いデザインだ。
 そして、ワンマン行灯がそのままの件に関して。これは事実です。そして本当にワンマン放送が鳴動するという。更にこのワンマン放送、やたらスペックがハイで、立野スイッチバックの内容も喋ってましたとさ。(ヤバくね?)

 入換開始。
 個人的にこの列車を1番綺麗に撮影できた時間じゃないかなぁと思ってしまうくらいには綺麗…に撮影できており、かなり圧巻の仕上がりに。
 というか宮地って結構駅がスッキリしとるんすね。

 列車の連結面を撮影。こうしたヶ所に関しては、何かこう背面連結だからこその面白さを感じるよなぁ…的な撮影で長め回しておりましたり。
 こうね。例えばトイレタンクとか、台車なんかはこういう時くらいしか眺められないモノでしてね…?
 ロゴマークなども面白く観察したが、それぞれの漢字の難しさが非常に際立っている。というか、カワセミに関してはもうそれ『翡翠』じゃないのか、『ひすい』。

 行先表示はここ完全にキハ40。
 というか、車両に贅を尽くしたタイプの列車でサボ式の行先表示やってる列車…というのを自分は未だ『トワイライトエクスプレス瑞風』しか遭遇の経験がなくて。
 他に経験があれば…なんですが、あ、そうか。『ななつ星in九州』もか。言われたらサボだ。
 でも一部、カウントしていくか迷う…けど、やはりこうやって「カシャン」と差し込みたいですよね。そういうタイプをサボ式行先表示と見做したい気持ちが強すぎて。

 宮地の駅に到着した。
 こうして駅名標を眺めているだけでも、何か中学の頃の阿蘇火山見学の思い出が蘇ってくる思い出だ。
 そしてこの駅名標には、観光要素が多く取り入れられた歓迎のパネルの様になっている。駅名の由来は神々の住まう時代からあり、その時は日本古来の土地の伝統の様なものを感じる。
 今回はこの駅周辺からタクシーやバスに乗車して先に行く事はないのだが、この駅名標を眺めただけでも充分阿蘇の観光気分になってしまう。
 中学時代の観光案内以来。自分は久しぶりに阿蘇帰還を果たしたのだった。

 宮地の駅には、待合室や元は駅カフェであったのだろう区画を改装した豊肥本線災害復旧の道のりを示す復旧資料館が存在していた。
 この資料館に関しては今回訪問出来ずであったが、窓越しに見えたショッキングな鉄路の光景…などは、豊肥本線の鉄路復活に向けて心が折れそうになってしまう光景であった。
 しかし。こうして大正初期からの鉄道生命を繋ごうと。阿蘇の大地に列車の鼓動を呼び戻そうと闘った戦士たちのおかげで、再び熊本と大分は繋がったのだった。
 自分の中で、この鉄路を眺めていた時間はほんの僅かな時間…であったが、今回こうして乗車し。また、幼い時期以来の阿蘇再訪について叶えてくれたこの鉄道には本当に感謝の思いしかない。
 いつまでも、豊肥本線は負ける事なくどんな災害や困難にも打ち勝ってほしいものだ。

 そういえば、の話として。
 先ほど乗車した観光列車・『かわせみ』『やませみ』の車中ではこの栗もなかアイスを食した。
  熊本県のテレビメディアが全国発信のYouTubeで食レポをしていて気になった商品だったのだが、実際に車中で販売していたのを発見し、今回は乗車行程の後半でようやく購入する事にした。
 しかし自分の全く素人な感想になってはしまうのだが、こういった観光列車を朝遅く…に走らせて中途半端に宮地で折り返さすくらいならば、別スジをこの時間帯に敷設して観光列車要素をもう少し高めて豊後竹田くらいまで走っても良いのでは?と思ってしまう。
 そして、宮地まで特急を走らすのならば個人的にはキハ185系で良いと思うのだが。個人的なあくまでもの考えになってしまうが、少し大袈裟すぎだろうか。熊本、水前寺、立野、赤水、阿蘇、と大体の魅力を感じても何か足りない感覚がするのである。それであれば、宮地か阿蘇で長時間の停車時間を造って『かわせみ』『やませみ』は豊後竹田まで向かってもらう方が何かと良いだろう。
 乗車しての自分の勝手な思いになってしまった。

歩んでいこう、思い出離れて

 そして、この駅からは観光特急の数も。特急列車の数も減り。列車は本格的な大分縦断に向けて進行していく。
 丁度、写真はその先の任務を請け負ったキハ125系の入換作業を撮影したところだ。
 自分はというと、宮地の駅では昼頃の到着になっていたが特に食事や土産の観光もしなかった。駅周辺を見ても『ステーキハウス』のようなリゾート型の飲食店が存在していた記憶が残っていて、自分は一先ずこの段階で敬遠したのだった。
 と、自分が買ったのは地元の商店で『肥後菊』と命名されていた醤油の小さなプラボトル。しょうゆを手土産に今回は阿蘇の大地を離れたのだ。中学の小遣いでなんでも土産を買えた時期と比較すると、自分も何か引っ込むようになった気がする。多分これは場所のせいかもしれないが。
 商店は地元の人が利用するような場所で、精肉のカウンターが存在し。そして、鮮魚も新鮮な状態で冷凍。また、ドライな日用食品やお菓子などが狭い場所にキッチリ並んでおり見ているだけで地元らしい店だった。
 そんな中、
「九州の醤油は甘いんだよな」
の文句に誘われてこの駅で買って帰る。
 実際に買って開栓して刺身に付けて食した感想だが、何か醤油というよりは甘ダレに近い感覚すらした。これが九州では普通なのだろうか。
 と、そんな感じで自分の久しぶりの阿蘇訪問は終わろうとしている。何分か後にやってくる、豊後竹田行きの普通列車に乗車すれば自分は大分に向かう。先生、まずは贅沢な豪華列車でこの場所にやってきてすいません。
 でも、阿蘇はあの時と変わらず。おとなになっても壮大で奥深い場所だと思いました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?