見出し画像

ACT.9『終戦、そして安堵』

帰ろうよ、そうしようよ

 この時点で、自宅を出てもう何日かという考えの方が自分の脳内を支配している事に気付いた。脳の中に街や細胞たちの居所…のようなものがあれば、きっと彼らは今頃計算機を片手にこの肉体の使用時間と距離を計算しているかもしれない。
 しかしそんな考えとは裏腹に、井原鉄道の金色の車両(確かアート列車だったかな)と、岡山支社の粋な計らいにて湘南塗装のまま残された115系の並びを確認する事が出来た。乗車したかったが、この時の115系湘南色は福塩線運用だった為乗車は叶わなかった。非常に悔しい旅の思い出だ。
 しかし井原鉄道の金色の車両が福山まで乗り入れてくるという発見。そして来る新型車の導入で危ぶまれている115系の進退…を想うと、非常に意義ある記録を残す事が出来たと思っている。しかしこの体内の違和感、さっさと消えてくれないだろうか。未だに腹痛が酷い。
 ちなみに今更となるが、井原鉄道のこの車両は広島で見かけたキハ120形と同設計の車両である。塗装こそ完全に別物になっているが、実際に遭遇して隅々まで観察すると割りかしキハ120形の片鱗が垣間見えるので面白い。

蹴破って、岡山へ

 いよいよ、岡山行きの電車がやって来た。三原方面からの乗客をどれだけ乗せているか…が個人的に気掛かりになってしまったが、なんとか着座できた。
 しかし、こんな時に限って117系だった。なぜこんな時に。体調は万全でなく、しかも仲間だったであろう(コレは想像として)京都の緑色117系を廃車で片道の旅に見送った後に同形式の117系に乗車して岡山を目指すのは何とも歯痒き感覚にさせられるのだった。
 取り敢えず乗車していくが、木の落ち着いた書斎感…やゆったりとした近郊電車の風格は関西での活躍と変わっておらず非常に安心だ。
 岡山の人々には未だに「サンライナー」との呼び声も若干に混ざっているようで、未だに117系の特別さが伺えるとも感じた。117系の活躍は花形としてこう刻まれ、愛称付き快速として晩年の活躍が語り草にされているのは非常に嬉しい話でもある。
 車内は1日を終えた乗客や、同じく長距離電車の旅で帰投していると思われる乗客の姿もあった。近くでは真剣な眼差しで時刻表とタブレットを交互に眺めている男性がいたり、クロスシートをボックスにして子どもと憩いの時間を楽しんでいる家族もいた。そんな中、黄色い117系は鈍いモーターの音を響かせ都心は岡山を目指して夜の帳を突っ走る。
 115系とは違う、2枚扉の電車が創り出す時間。それはいつも通りの生活時間のように見えて、特別な時間のように見えた。電球色の車内照明も美しく光り輝いている。

 自分も最後の「広島気分」にもみじ饅頭を買って車内で食す。
 駅弁を車内で食べていると温かいや冷たいといった食品の温度を忘れてしまうくらいに旅情の良さ…が勝るが、それはこうした一息の甘味でも変わらないものだと思う。117系の下から響くモーターの渋い唸りを聞きながら、甘酸っぱい桜餡のもみじ饅頭を食した。
 非常に旅情の雰囲気というか、「電車内で旅の最中に」という条件で食べるからこそのフィルターが掛かって、何かより一層美味しく感じられた。ほんのりとした甘酸っぱさへの四季の思いが強く感じられる。食感アクセントのゼリーも非常に良かった。
 そして、もう1個はチーズクリーム。コレも日本独特?のカスタード生地に上手く絡んでいて非常に美味しい味だった。「前回も福山でコレを選んだ」の思い出と共に選択した自分の忘れられない味だ。走行していると、水島臨海線の案内が告げられ倉敷に到着した。もうそこまで来ていたのか。

条件は同じなんですよ

 そのまま福山から乗車した117系を下車した。もっと乗車していたかったが、この駅止まりだったようだ。この時間は運が良いと姫路行きの電車を引いて関西への帰投がラクラク…という現象に時々陥るが、今回は残念ながら岡山止まりだった。
 という事で、「岡山サバイバル」執行。そのまま山陽線・赤穂線に乗り換える際には必ず発生するイベントで、青春18きっぷ利用者…または18きっぷ患者の方なら非常にこの状況が細かく文字に表さなくても理解していただけるかもしれない。
 岡山県内でもこの岡山⇄長船・上郡方面というのは非常に老若男女の鉄道利用が盛んだ。そして通学…での鉄道は元より通勤の鉄道利用も盛んである。そんな最中は当然として、休日の移動手段も若者を中心に鉄道を利用して山陽本線の姫路方面に於ける利用者はこの周辺に集中する為、青春18利用者と衝突してしまうと座席の奪い合いが発生してしまうのだ。
 この現象の為、どんな状況でも
「座れたらいいか」
精神で毎回挑むが、今回は顔も顔面蒼白…ではないが紫色になりかけの状態なので何としても座席が欲しい。
 結局、ボックス部をなんとか片面で座る事が出来た。このまま姫路まで帰る事にする。
 結局、福山〜岡山・岡山〜姫路での案内でも同じ様な事しか考えていなかったが1番着目して聞いていた車内放送は
「お手洗いは、◯号車の…」
という部分だった。この放送を聞いてしまう度、自分の判断が正しいかどうだったかを自問自答しながらの帰投になってしまったのである。
 しかし結局、その「御手洗い」の世話にはならなかった。なんだかんだ良かった気がする。

光だ、光だ、光だ!!!

 やっとの事で関西が目に飛び込む。遂にアーバンネットワークの圏内、「姫路」に殴り込んだのだ。ようやくの思いにて到着したこの大地を見て、新大陸に到着した探検家のように目を輝かせて223系の車体を眺めている。遂にこの長い道が終わる。
 今更だが、自分は後に思った。
「きっとあの時、万札と僅かな金さえあったら速攻で新幹線に飛び乗ってかえったかもしれない」
と。その腹痛からは既に10時間近いだろうか、まともに手段すら考え付かずダラダラ歩いていた自分に、ようやく光が見えた。
 結局、この新快速の列車トイレは使ったような記憶がある。流石にもう限界だった。
 そして、アーバンネットワークの駅放送を聞くだけで何か自分を高めるであろうハウツー教材に出会ったかのような謎の元気さえ充填された。本当におかしいくらいのカラ元気を貰ってしまったような気がする。
 ちなみに今更の事になるが、対向の新快速が短編成になっているのは網干方面から客扱いした新快速の編成を併結して12両にする為…の待機である。パッと見の錯覚だった。

 そして姫路を出て、何日何時間ぶりかの明石海峡大橋との再会。そして新長田駅の鉄人28号像や三宮付近にて発生する阪急とのランデブー。また、大阪駅の喧騒などを見ているうちに京都に到着した。
 本当に長すぎる旅であり、胃の中には変なものを宿している。本当なら今すぐにでも出て行っていただきたかったが、そいつの存在はこの時点で分かるはずなどなかった。まだどうして良いかもわからなかったのだから。
 ともかく、何日かぶりに洛中の大地を踏む結果となり。大阪南港からのフェリー乗車からこうして旅を成功させる事が出来たのは非常に良かった。しかし最も見に起きた変化といえば、今現在の顔がミラクルな紫色になっている事だろう。この先の判断をどうするか非常に迷った。

居候ではないようですね

 京都駅山陰線トイレに向かう…と、自分の異変に気付く。(この部分は正直読む時間を選んでください)
 自分の身体から抜け落ちていく、排泄されていく水分の中に僅かながら血が混入しているのが発覚した。どうやらある過程で連れてしまったらしい。非常にこの結果には動揺しかせず、絶句の2文字しか選べなかったのだがこの時点で職務への事が過ぎり始めた。本当に明日大丈夫なんだろうかと。
 しかし、そんな心配を他所に32番ホームには223-2500が入線している。そういえば九州に行っている最中にダイヤ改正を迎えてしまい、その関係で入ってきた新しいお客だっけ。まさかこうして先に見れるとは思わなかった。
 そういえばトイレに駆け込む前に撮り鉄の人を見たが、この編成を狙っていたのだろう。しかしこの運用も「貸出」ではなく「転属」になって今や普通に活躍しているのだから非常に驚きとしか言いようがない。まさかこの展開が正夢になってしまうとは。居候の編成ではなく、本当の新たな生涯を歩み始めた阪和線223系の姿を見届けてなんとか地元路線に乗車し、一先ず帰投が出来た。

その後

 そして、旅が終わった…のは行程上だけの話となる。この時点では未だ、「腹の中の異物」が完治していなかった。結局翌日になってもこの新たな訪問客は退去してくれず、強烈な痛みを残していた為
「すいません、血便が…」
と働き先に一言残し、胃炎・腹痛に効果のあるであろう薬を服用して安静にしていた。しかもこの影響で昼間は全て消えてしまい、起きた後は夕方になるという惨状。非常に悩むしかない状況。
 病院を…と1件動くとしばらくのやり取りのうちに
「検査入院とかの心構えを」
と言われたので断った。そして、近所にあるもう1件の大きな病院に向かった。
「すいません血便が出て」
「何か心当たりは」
「えぇ、前日の朝に半生玉子と山芋が…」
こんなやり取りでの急患に罹り、なんとか間に合った。
 そしてこの写真は、そんな折の病院での検査(血液検査)の写真だ。相当な心配を受けたが、犯人が

「こいつ」
 による細菌性胃腸炎と急患医師から告げられた瞬間は非常に頭を抱えたものだった。
 お陰で現在は「玉子」を加熱状態にして食しており、「生」状態での食事は絶対的に避けているという状態にまで至った。
 本当に自分にとっての大きな分岐点であり、人生の転換点のようなモノを感じてしまったのは言うまでもないだろう。かなり過敏に反応するようになってしまった。
 しかも急患に当たってくださった医師の方は何とも言えず、「若い年齢」の女医(割と自分の中では女性ドクターの表現が近い)であり、非常に複雑な気持ちで診察に挑み半分余計な冷や汗をかいてしまった。
 今となっては緊急の下剤、そして完治までにそこまでの時間を要さなかった事実にはとんでもない感謝でしかないのだけれど…。
 ともかく、この話は「その後」を思い出す方がかなり自分にとって複雑な思いになり、非常に酷な気分になる。急患での応診だった為、治療費の計算が出来ず治療費を払い終えた瞬間
「やっと旅が終わった」
と胸を撫で下ろしたのは気持ち良すぎる感覚だ。あの時は肺の中のため息、そして肺の中に溜まった不安感が全て煙になって青空に消えた瞬間だった。


おわりに

 今回の大分経由長崎〜広島・関西帰投と胃腸治療の話を1〜9まで長く全て読んでくださった皆様には感謝しかない。
 もし仮に、「今さっきこれを開いた」という方がいらっしゃれば是非とも1〜8も頼みます。
 この中に自分としてはこの長々とした過程に全てを詰め込む事になり、「なんとか仕上がった」という達成感の感覚が今非常に大きく支配されている。
 仕事を終えて、時には寝る前に。時にはイベントに向かう電車の中でと急いで書いていたこの記事も、今回でようやく終わりを迎えた。
 この1〜9までの完結連載の成果を踏まえて、自分にも確かなる自信が投じられたと感じる。根気良く継続して、多くの人に愛され認知されるような旅の記録をこれからも綴ってクリエイトしていきたい。

 そして今回の旅で出会った皆様、協力いただいた皆様、九州。中国地方の皆様ありがとうございます。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?