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生きてゆくことと、生きづらさの意識のハザマで感じること。

人間は生まれたら確実に死んでゆきます。
日本人であれば平均80年程の時間が与えられます。
それを短いと考えるか、長いと考えるか それは人それぞれでしょう。

私は長すぎると考える方です


思い付きで言うならば35年程で終わってくれればハッピーエンドだったはずでした。
前提条件として、私の場合は双極性障害Ⅱ型があるからです。
発病したのが確か35歳。サラリーマンとして絶頂の時でした。
それから25年躁と鬱の間でもがきながら生きてきました。
希死念慮に取りつかれたことも1度や2度ではありません。
未だにこうしてPCを叩いていられるのはパートナーのおかげです。
全ては話してもらえていませんが、私の病気のおかげでかなりの苦労を掛けてしまったようです。
彼女自身もフルタイムで働いていますし、彼女が45歳の時ガンに罹病し壮絶な治療も体験しています。
その中で私を支えてくれたことは感謝してもしきれません。
言いたいこともいっぱいあると思いますが、ほんの少ししか私には文句を言いませんでした。
今でもそうです。
決して耐えるタイプの女性ではないと思います。
うぬぼれ覚悟で言うならば私に対して(家族に対して)だけ、特別なのでしょう。
鬱のひどいときは1ヶ月ほど布団から出られず、風呂にも入りませんでした。夏でしたがほとんど汗臭さは感じなかったと思います。
鬱病を経験された方ならお分かりかと思いますが、鬱期は生命力つまりは生きることに対してのエネルギーが落ちています。
汗をかかないどころか、食欲はほぼありません。
それでも彼女は仕事から帰ってくるときちんとした夕食をつくり私を食卓に座らせ食べさせてくれました。
あの苦労は相当だったはずです。
出口が見えない鬱期の中で半ば死体のように常に寝床に転がっている夫に対してよく我慢してアプローチしてくれたものです。

妻が進めてくれた病院に転院し私は鬱病ではなく躁鬱と診断されました。
確かに調子が良いときはあきれるほど散在し、気が大きくなってなんでもできる、なんでも引き受けるといった状態でした。
あの時期に使った飲み代は外車1台分は優に超えています。

無茶苦茶でしたし、今も大して彼女に貢献できていません。
仕事を決めても躁期はそれなりに成果を上げて評価されるのですが鬱期に入った途端会社に行けなくなります。
おかげで履歴書に書ききれないくらい転職を重ねました。
初出社当日に辞めた会社もあります。

未だに希死念慮が起こることはあります。
自傷行為はしていません。

でも、私は生き続ける、何としても天寿を全うすることに決めました。
一番の理由は妻に今までの生き方を理解してほしいから。
急にいなくなることで迷惑をこれ以上かけたくないからです。

妻が私に対して抱いている感情は正直分かりません。
最近特にわからなくなってきました。
でも、私は生き残ります。
子供のためではありません。
私が急にいなくなったら妻が納得しないだろうからです。
せめて彼女が「まあ、仕方ないか」と考えるまではしぶとく、かっこ悪くても、ダメなやつでも生きてゆきます。

人生は無限ではない

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こんなことある程度の年齢に行けば誰でもわかりますよね。
でも、人生が果てしなく続く。
未来が明るい。
どこまでも行ける。何でもできる。
こんなことを考えていた時期は誰にでもあるのではないでしょうか。

私の場合は高校時代がこの時期に当たります。
大げさに言えば世界が自分を中心に回っている。
そんな感覚です。
もちろん高校時代にも嫌なことはたくさんあったはずです。
でもそんな嫌なことも今のどんよりした感じではなく嫌だけど生き生きとそしてキラキラしていました。
過去だから美しいのではなく、事実、人生の主人公として生きていた、そんな感覚があります。
(もちろん、今、学校に対して苦しさを抱いている方々もたくさんいらっしゃると思います。でも、今目の前に見えている現実ははっきりとしたビジュアルとして見えているのではないでしょうか。
今の自分には生きる辛さ、生きづらさはグレーの霞がかかった世界を見ているような感じです。ビビットに色がついて世界が見えない。)
俺はどこまで行けるのだろう。
自分自身に期待もしていました。
お金とか地位とかそんなもんではなく行きたいところまで行ける、突き抜けた感覚です。

そんな感覚が薄れだしたのは大学の4年生くらいからでしょうか。
つまり、働く、これからサラリーマンとしてお金を稼いでいく。
この感覚が芽生えたころでしょうか。
今までは目の前は平原が果てしなく広がっていたのに、急に数本の道が現れた感じです。
「選べ」と強制されている感じですね。

小学生だって中学生だって社会の枠=法律、慣習などは存在します。
ところが社会人になったもしくはなることが決まった瞬間、1方向のみが解放された鉄格子が突然降りてきたような感覚に襲われます。
自由度が極端に下がった感じです。
唯一開いている方向も選べる道が限られています。3,4種類でしょうか。
なんとなく近い感覚はRobert Frostの詩 「The road not taken」でしょうか。ご存じない方のために紹介をさせてください。
アメリカではアメリカンドリームの体現としてこの詩を小学校の時によく習うのだそうです。


Two roads diverged in a yellow wood,
And sorry I could not travel both
And be one traveler, long I stood
And looked down one as far as I could
To where it bent in the undergrowth;

黄色い森の中で、道が二つに分かれていた。
残念ながら、私は両方の道を進む事はできない。
一人で旅をする私はしばらく立ち止まっていた。
片方の道をできるだけ奥まで覗いてみると、
その道は、奥の方で草むらに紛れて見えなくなっていた。


Then took the other, as just as fair,
And having perhaps the better claim,
Because it was grassy and wanted wear;
Though as for that the passing there
Had worn them really about the same,

そして、もう片方の道を覗いてみると、こちらももう一方の道と変わららなかったが、何か良さを感じた。
それは草が生い茂っていて、踏み荒らされていなかったからだと思う。
もっともその道を通ることによって、ほとんど同じようになってしまうのだが。


And both that morning equally lay
In leaves, no step had trodden black.
Oh, I kept the first for another day!
Yet knowing how way leads on to way,
I doubted if I should ever come back.

あの日、どちらの道も同じように、まだ誰にも踏まれずに黒ずんでいない落ち葉に埋もれていた。
よし、最初の道は別の日に取っておこう!そう思った。
しかし、その選んだ道が先へ先へと続いていたから、2度とこの場所へ戻っては来ないことを、私は知っていた。


I shall be telling this with a sigh
Somewhere ages and ages hence:
Two roads diverged in a wood, and I—
I took the one less traveled by,
And that has made all the difference. The road not taken(選ばれざる道)

私はこの先、ため息まじりにこの話を語り続けるつもりだ。
今から何十年先になっても語り続ける。
「ずっと昔に、森の中で道が二つに分かれていてね、私は—
私は、踏みならされていない道を選んだ。そしてそれが、大きな違いを生んだんだ。」ってね。
https://lecturablog.com/%E3%83%AD%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%AD%E3%82%B9%E3%83%88-robert-frost%E3%80%80the-road-not-taken-%E3%80%80%E3%80%80#The_road_not_taken(レクトラの寺子屋より引用)

この詩だけ見れば確かにアメリカンドリームの体現の礼賛ともいえるでしょう。
でも、私にはこれらの道が4方にに広がっているのではく、普通の成功と夢のような成功の2種類しかない気がして少し息苦しいのです。
いずれにせよ私たちは普通の成功か、素晴らしい成功かの道を選び進んでゆくしかない、そんな覚悟が必要なのが社会人になるということなのです。

実際に社会人になってみて

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ここでも私を例に話を進めさせてください。
大学を卒業し何とか一部上場企業に就職したとき目の前にはフロストのように道が見えていました。
サラリーマンとしてできる限り出世する。
いつか独立して社長になる。
道の険しさより今から自分がステップアップしていく変な自信めいた感覚しかありませんでした。
会社員の生活は平凡の繰り返しです。
瞬間瞬間はアップダウンがあるように思えますが、冷静に振り返れば日々の繰り返しの中で年齢を重ねてゆくだけです。
会社に対する不満を同僚と酒の肴にし、少しでも見栄えの良い女性を求めて飲み会に参加したり、納期遅れを起こして商談室で怒鳴り散らされたり、海外出張に行って取引先の不倫の内情を聞かされたり深堀するような出来事はほとんど起こりません。
会社の会議に緊張して資料を用意して臨んだりもしましたが、今にして思えばある種の儀式みたいなもので役員の時間つぶし程度のものでした。

でも、自分の立場や進んでゆく方向に対して疑問を感じたりしませんでした。天気が訪れたのは子供を授かったときです。

別のブログで私は「父性」を否定しています。
つまりは「父性」が発現したのではなく、子供を含め家族に「良い生活」をさせたいと考え始めたのです。
「良い生活」の基準は単純です。
可処分所得をできるだけ増やして、いわゆる贅沢をさせたい、したいということです。
でも、本当にそれだけだったのでしょうか。
実のところ単調な日々に飽きていたというのも事実です。
いつも遊んでいる公園が飽きたから違う場所で野球をしよう、程度のことです。
こうして私は「家族のために」という御旗の元、2度の転職をしました。

2回目の転職はある意味その後の人生を決めました。
名前は伏せますが日本人なら誰でも知っていいる大手企業に転職できたのです。
最高の気分とはこのことです。
目の前に道は1本しかありません。
その道をひたすら歩き続ければ、双六でいう「上がり」を迎えられるわけです。
最近もあるのでしょうか「人生ゲーム」。
私の人生ゲームには勝利の上がりしかない。
実は私は大きな「学歴コンプレックス」を抱えていました。(今でも奥底に眠っています。)
その最大のコンプレックスも新しく決めた「道」は吹き飛ばしてくれました。
高校以来久々に「生きてきて良かった」と思えました。
ここでこの話を終えてしまえば矮小な成功談になってしまいます。
誤解なきように言いますが、私にはこの矮小な話で十分なのです。
この続きはいりません。
人生はなだらかな道で生きやすい。

病にかかる、ある意味不治の

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常に自分を第一に、自分中心で歩んできた人生でした。
生きづらいわけありません。
しかし、この夢の大企業で私は道を踏み外したのです。

詳細は伏せますが、配属された部署は今でいう超ブラックでした。
日中は客先との電話対応に追われ、客が就業してから本格的に自分の作業に取り掛かります。
当然、終わるのは22時過ぎどころか23,24時もあたりまえでした。
給与はそこそこでしたが、エネルギーを使い果たしてしまう日々の中で電車で帰る元気もなく毎晩タクシーで帰宅しました。
そんな日常が3ヶ月程続いたころ私の体に変調が現れ始めました。

まずは、ひどい寝汗です。寝巻がそれこそびちゃびちゃになるほど汗をかいていました。
次に来たのは不眠です。
疲れ切って夕飯を食べ布団に入るのが24時過ぎ。
ところが必ずと言っていいほど3時には目を覚まし寝られなくなったのです。
仕方なしに私は寝ることを諦めネットサーフィンを言えば聞こえがよいのですがひたすらパソコンの画面を眺めながら朝を迎え会社に行くという日々の連続でした。
どう考えてもおかしくならないほうが不思議です。
ですが、私はどうしてもその会社を辞めたくなかったのです。
今までの鬱積を跳ね返してくれるネームバリューから逃げ出すなど考えもしませんでした。何とかその会社でそこそこ出世をして定年を迎えたかったのです。
私の前には広い道が続いていました。いえ、無理にでもそう思い込もうとしていたのです。
確かに道は続いていましたが、周りには何もなく砂漠の中の一本の道。
とにかく最後まで歩かなくてはと必死に毎日会社に行きました。

ですが、ある日当然のごとく限界が来ました。
あまりの辛さに当時の課長に真剣に相談をしました。
このままでは自分がつぶれてしまうこと、今でも体調がおかしいこと。
課長は決して悪い人ではなかったと思います。
それどころか後で聞いた話では私と同じように苦しんでいたご様子でした。
課長から帰ってきた答えは
「申し訳ないが今はただ頑張ってくれとしか言いようがない。」

その一言を聞いた瞬間、私の内部でいろいろなものがガラガラと壊れ自分を支えていた1本の糸がプツリと切れたのです。

いきなり会社に行けなくなったわけではありません。
当時私は地下鉄で通勤をしていたのですが、乗る駅が始発駅だったので毎回座ることができました。
でも座ったきりその後、会社のある駅で降りることはできませんでした。
始発から終点まで何往復もし、時には映画館で映画を見てから自宅に戻るようになりました。
でも、完全に変だと妻は気づいていたようです。

ある日、妻と一緒に会社に行くときにたくさんの人が乗り降りする大きな駅に来た時に気分が悪くなり妻と一緒に電車を降りました。
ベンチに座り呆然としていた私に妻はなんと声をかけたのでしょう。
全く覚えていません。

当時はまだ鬱病というのはそれほど一般的ではなかったので妻もどの病院に連れて行けばよいのか困ったことでしょう。
子供もまだ幼く、家のローンも残っている。
実際に話をしたことはありませんが、妻はいつこの状況と「闘う」決心をしたのでしょうか。
そのあとの記憶は本当にあいまいです。
ひたすら家の布団の上にいたこと。人生が終わったと毎日考えていたこと。
不思議と先のこと、つまり将来のことは考えなかった気がします。

人間はある程度落ち着いた状態でないと将来についてなど考えられないのかもしれませんね。
今となってはあれが鬱だったのかパニック障害だったのか適応障害だったのかはわかりません。
でも、あれ以来病気にかかる前の「自分」に戻ることはありませんでした。
多分これからもないのでしょうね。
病気(双極性障害Ⅱ型)を抱えた自分こそが本当の自分になったわけです。

目の前に広がっていたはずの理想の道。
実は地獄へと通じる道。
いえ、今が地獄というわけではないのでその表現は違いますね。
病気という枷を外すことができず、思い通りに進むことができない道。
妻にだけは地獄が見えていたのかもしれません。
後年、彼女がガンになったのは私のせいに違いない、と変な確信を持ちました。
私さえまともに普通の道を歩けていたら。

本当にごめん。

生きづらさの先に

決して辛い道を選んだわけではありません。
自分にとって、家族にとって最高と思える道を選んだつもりでした。
あれから本当に家族にそして会社に、周りの人間にたくさんの迷惑をかけてきました。
躁期の自分と鬱期の自分はある意味別人です。
双極性というくらいですからある意味極端に自己表現をします。
何度も転職を重ねました。
絶好調、俺はできるんだと思った翌日から会社に行けなくなることもしょっちゅうでした。
そのたびに嘘を重ね、癇癪を起し会社を辞め引きこもってまた新しい会社を探す。今でもそれは続いています。
それどころか、ついにはバイトですら行けなくなりました。
人に会いたくないのです。(鬱期だからでしょうね。)
パソコンの脇には新婚旅行で撮った二人の写真が見えます。
あの頃の輝きは当然ないのですが、こんな状態に置かれるなど全く想像もしていませんでした。
鬱の人が良くいいます。
死にたいわけじゃない、いなくなりたいだけ。
その気持ちはよくわかります。
でも、生きづらさを考えるうえで少し極端かもしれません。

生きづらいとはどういうことでしょうか。
あたりまえですが生きるうえでの辛さのことですよね。

私は生きる上での「自由度」ではないかと考えます。

ただし、自由には平和的なものと粗野で後先を考えないものがあると思うのです。
例えばあなたがむしゃくしゃして衝動的に会社を休む。もしくは辞めるとなったらこれはある意味自由な選択と言えます。ただし、好ましい結果を伴いそうな気はしません。
もしくは戦国末期の傾奇者を考えてみてください。前田慶次などは劇画にもなりましたし有名ですよね。
彼らはある意味命と引き換えに自由を貫いていたともいえます。
これはなかなかに覚悟と勇気が必要です。

 私がいう平和的な自由とはコンビニでアイスを買うのに100円のものにするか150円のものにするか程度、つまりは選ぶ楽しさのようなものです。
政治的な自由を勝ち取るために、未だに世界各地では争いが絶えません。この場合の自由は選ぶ楽しさではなく、勝ち取るべき荒々しいものです。

私が感じる生きづらさは平和的自由度の選択の狭まりのことです。
ご大層に自身の振り返りなどしてしまいましたが、結局私が考える生きる楽しさはこと程度のことです。

気軽に悩み、軽い気持ちで選択をし、そして次の選択肢に向かう。この程度のことを深刻に悩むことなく軽やかに選んで進んでゆきたい。
これが私の欲しい生きやすさです。

この生きやすさを得るために必要なもの。
それは健康とお金ではないでしょうか。
毎日笑顔で過ごせる健康と、贅沢をせずとも食べていけるお金。それらがあれば生きづらさを感じずに、いえ、感じたとしても一晩寝れば忘れるくらいに楽しく生きていけると思うのです。
残念ながら今の私の手の中には2つともありません。

平凡な道を選ぼうが、困難な道を選ぼうが結局それは選んだ本人の主観ですから周りがとやかく言うべきではないのかもしれません。

歩いている本人に気楽に選択する自由さえあれば道の状態や周りの風景も他人が気にするほど重大なことではないのだろうと思います。

私が今欲しいのはこの気楽な選択の自由です。
生きづらさを感じている人たちも選択の自由が狭くて息苦しかったり、周りが見えなかったりしているのでしょう。

教訓めいた話には実は終わりがないのです。終わったと思ったその先が実は重要だったりします。

「選ばれなかった道」を選んでたどり着いた栄光の、その先にまだ道は続いているのです。

そんな皮肉めいたことを考えずに今、目の前にあるささやかな選択の自由を楽しんで生きてゆきたい。そう願っています。

おわり

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