見出し画像

無人駅の駅長

  無人駅の駅長

 初冬の寒い夜。

 仕事を終えた私は田舎の小さな無人駅に着いた。
 すぐに乗れれば良いが、と思いつつ時間表を見上げると、あいにく数分前に出たばかり。30分ほど待たなければならなかった。

 駅前は雨戸を閉めた元煙草屋兼雑貨店が一軒あるのみ。古く痛んだ駅舎の木の壁のスプレー書きの落書きの文字が薄れ消えかけていた。
 そこに中に人間はいなかったが、茶トラの猫が一匹ちょこんと長椅子の上に座っていた。ぽつんと次の電車を待つしかないから、私は猫の横に座った。

 すると猫が
「ニャー」
と挨拶してから(礼儀正しい猫だ)、私の膝の上に乗ってきて、丸くなってスヤスヤと眠ってしまった。
 ひとと猫、天地に二人きり。
 体を動かせないので尻が痛くなったが、おかげで半時間を暖かく過ごせた。
 別れ際に、
「きみが駅長なのか?」
と尋ねたら、
「みゃ」
と彼は応えた。

  空蝉

 人の一生とは育った環境に左右されるものらしい。現代社会に生まれれば自動的に現代人になるものではないらしい。
 テレビがない家で育ったので今でもテレビが苦手だ。テレビ番組はニュースのようにお固いのも、バラエティも、総じて暴力的で刺激が強すぎる。テレビを見るとぐったりする。心身ともに疲労する。だから現在もテレビ受像機を持っていない。無い方が快適なのだ。街のお店に入ったときテレビが流されていたら、神経が苦痛なのですぐ出てしまう。
 電話機がない家で育ったので今でも電話が苦手だ。電話を受けたりかけたりする練習をしないで大人になってしまったせいだ。電話をするという行為が「非日常」の行為なのだ。そのせいで緊張する。
 家族がいない環境で育ったせいで今だに家族とか家庭ということがわからない。
 母親が病身で生まれた時からよその家を転々として育った。親戚の家や、親の友達の家や、親戚の親戚の家とかだ。どの家もまったく知らない人ばかりの家だった。そしてここからは想像だが、幼児を預かった家々は世間の義理で仕方なく預かったのでこの「お荷物」を約束した日数だけ預かり、次の家にさっさと回した。
 こうして自分の養育者が誰なのかわからぬまま大きくなった。時たま親の家にいることもあった。そこにいる人が親というものだということを理屈では理解できた。しかしいつも通り、知らない家のおじさんおばさんに見えた。自分にとっての親または養育者のイメージとは、ある日なんの前触れもなく、すうっと消えてしまう人のことだ。
 映画を見る。映画の中で家族が死ぬ。配偶者が死ぬ。生き残った家族役の役者さんが悲しみのあまり泣く。嗚咽する。この感情が分からない。こういうシーンになると途端にしらけてしまう。悲しいものなのかしら? 家族を喪失するって。
 家庭を経験せずに育つと家族の感情というものがわからない。
 家庭を知らずに育つと自分の居場所がわからない。どこに居ても、職場にいても自宅にいてさえも、自分はここにいていいのだろうか。自分はいてはいけない存在なのだ。そう思ってしまう。何事につけても人はOKな人で自分はNGな人だとつい思ってしまう。世の中に百パーセントOKな人や、百パーセントNGな人など昼はずがないと理屈ではわかっているつもりなのだけれども、この感情をどうすることもできない。

『西方指南抄』と『嘆異抄』

 親鸞はその最晩年八十歳代後半を費やして、師法然の言行録「西方指南抄」を書写した。この書物は法然伝記の最古のもののひとつだ。この書物が親鸞によって編集されたのか、それとも誰かが編集したものを親鸞が書き写したものか、わからない。それは親鸞なる人物が同時代の記録に乏しい人物であるだけでなく、浄土宗と浄土真宗教団の確執も関わる。浄土宗は親鸞の存在を無視したがる。法然の弟子たちの一人に親鸞がいたと名前を出す程度で、親鸞を黙殺する。それに対して浄土真宗側も「西方指南抄」を大変軽視する。それはこの本の内容が親鸞の自著の内容と齟齬するため、教学的説明が困難だからである。実際に読んでみると「顕浄土真実教行証文類」などにみえる親鸞の主張と小さくない隔たりがあるのである。そのため真宗の学僧たちは「西方指南抄」の扱いに苦慮してしまう。
 それはそうとして、九〇歳近くなり目も耳が不自由になった親鸞が人生最後の精魂をふりしぼって書写したこの本である。犯罪人扱いされる師法然の言行をなんとしてでも後世に伝えておきたかったのだろう。そんな意味で「西方指南抄」は「嘆異抄」と立ち位置が似ている。死が近い事を悟った老境の著者が書き残した本である。
 この二書はそれぞれ著者名(編者名)不明なことが共通する。「西方指南抄」について親鸞は自分が写したと記すのみである。自分が編集したとも、他の誰々が編集したとも書かない。「嘆異抄」が著者不明であることは有名である。
 そのことについて私はこの二書が「お経」である故だろうと思う。
 お経に著者名はない。数千あるお経はすべて「私はこのようにブッダから聞いた」という出だしで始まる。お経はブッダ自身が筆を持って書いた本でないのだ。すべてブッダの説法を聞いて感激した誰かが、私はこのように聞いた、と感動を伴ってこしらえたのである。それだから「仏説なになに経」という外見の体裁がなくても、その人に仏道を伝えてくれた方の言行録はお経だと言えないだろうか。
 仏道を伝えてくださったありがい方は如からこの私のためにわざわざやってきてくださった方である。もしもあの方に遇うことがなかったならば、私は生涯虚しく過ごし、虚しく死んでいったことだろう。なんと遇信のありがたいことか。師の恩のなんとありがたいことであろうか。そう思うものである。師はこの私にとって如から来てくださったのだから私にとって「如来」である。如から来てくださった方の言行録はお経である。
 ここで私は「西方指南抄」と「嘆異抄」の二書に署名が無いゆえんを思う。親鸞と、一般に嘆異抄の著者とされる唯円はお経に著者名がないことを熟知していたに違いないからである。

くるっと回る時間の感覚

 太陽暦、より正確に言うとグレゴリウス暦。それにもうひとつ、干支。十二支ともいう。月の動きを基本とする太陰太陽暦。人々が昔から使っていた暦だ。今年は己亥である。新月に始まり次に新月の前日に一ヶ月が終わるこれを使っていると時間が回る感覚がしだいに身につく。おもしろい。
 やせっぽちな月が太っていき、毎月十五日前後に最大に肥満する。すると翌日から痩せ始め、おおむね二十九日ごろ痩せきった月が不可視になり、その一ヶ月が終わる。月が出る位置沈む位置も毎日移動する。太陰太陽暦の月末(これが本当の月の末だ)には決まって「一まわり終わったな」と思う。明日から新しい一回転の開始だと。
 太陽暦は一直線暦だ。グレゴリオ暦だけ使っていると時間が回転する感覚がない。太陽暦の時間感覚は、果てしない過去から続く時間が、現今という一瞬を経て、これまた無限に続くであろう永遠の未来へ真っ直ぐ駆けていく、そんな感じだ。
 くるっと回るカレンダーと、無限の直線を進むカレンダー。おもしろい対比。
 使用する暦によりその社会や時代が重要な影響を受けるだろう。

断われない契約は法的効力を持つか

 断れない契約は合法なのだろうか。
 法的には契約形式でありながら、現実には命令と受諾である法律行為が世の中にある。たくさんある。契約する両者に力の違いがありすぎると契約の名の下の命令が行われる。
 例を挙げればきりがない。
 昔は奉公というのがあった。貧しい家庭に生まれた子供が何年契約という条件の賃金前払いで、商店などに住み込んで働いた。奉公の条件は雇う商家の方が一方的に決めた。貧しい家のほうは口を挟めなかった。わが祖父も尋常小学校一年生中退して奉公に出された。今でも同様の低賃銀労働の強制が行われている。さすがに奉公などという古めかしい言葉は使わず、いっけん華やかなカタカナ言葉に置き換えているが、していることは昔の奉公同様である。
 それから学校の入学試験手数料。受験料。
 高校でも大学でも現実的に義務教育または準義務教育となっているから、受験料を支払わざるを得ない。私事で恐縮であるが、貧しい家庭に生まれたため受験料三万円の支払いにわたしは苦慮した。日常の生活費のやりくりでせいいっぱいな暮らしであったから、食費を削って受験料をなんとか工面した。結果的に入学できなっかたので、ただ腹をすかしてその学校にお金をプレゼントしただけのことになった。
 受験料とは、学校と受験者との契約ではある。契約だから契約条件にノーと言うことはできる。双方とも。ただしそれが単なる建前なことを誰でも知っている。
「受験料金をいったん払い込んだらいかなる理由であろうと返還しない」との契約条件を受験生側は拒否できない。拒否したら進学できないだけだ。
 契約の形式を採った命令である。
 もう一例。
 スマートフォンは現代の必需品だ。これを持たない人の就職は難しい。
 誰でも知っているように、スマートフォンはアップル社のものと、グーグル社のアンドロイド、二種類だけ。どちらかを選ぶしかない。どちらにしたところで、アップルかグーグルの規約画面が出た時「同意します」をタップしなければならないわけだ。就職のために、生活費用を稼ぐために、二社のうちどちらかの規約に「同意」しなければならない。
 同意しない、を選んだら使用できないのだから。ここでも私たちにはスマートフォン利用規約(契約条件)の一部変更を交渉する自由がない。丸呑みするしかないわけだ。
 ほとんどの人が規約の内容なんか読まないで「同意」しているだろうけど、仔細を読んでみると、利用者としてはびっくりするようなすごいことも書いてある。世界中のスマート電話使用者がそれに同意したことになっている。
 当事者の片方だけが選ぶ自由をもたない法行為は契約としての法的効力を持つか。
 当事者の片方に選択の自由がない契約は法的に合法なのだろうか?

浮雲

 作文が苦手だ。原稿用紙何千枚か書いてきた物書き稼業をしているのに作文が苦手だ。
 文章が書けない。何を書いていいのかわからない。
 子供のじぶんからずっとそうだった。国語の授業は好きだった。勉強しなかったがいつも試験では高得点だった。古文漢文と文法が特に好きだった。だが作文だけはどうにも苦手で書けなかった。先生が題を出す課題作文、黒板に書かれた先生の字を何べん見ても何のことやら、何を書けばいいのか、さっぱりわからなかった。
 それから夏休みの自由作文、あれはもっと書けなかった。
 課題作文とは、大人の言葉に強引に置き換えると受注生産だ。注文に応じて書く作業は、一般の多くの人の想像に反し、細かな注文条件をつけてもらえるほど楽である。縛ってもらえると楽なのだ。対して自由作文とは自主生産である。創りたいものがあるならば自主生産とは愉しい作業だが、そんなものがない者にとって、何でも自由に書きなさいと言われても困る。作詞と詩人の詩を比喩したらいいだろう。注文主の注文に応じて作詞する作詞家と、自分の書きたい詩を創る詩人と。後者は、インスピレーションが湧くか降ってきたら書けるけれども、湧かない時は書けない。何も書けない。自由とは辛いものだ。だから人は自由から逃走するのだ。自由を奪ってくれる人を求めるのだ。
 すこしく話題がそれてしまった。
 ぼくは課題作文も自由作文も書けなかったのだ。学校の作文時間は、一文字も書けないから時間を持てあまし、教室の窓の外にぽっかり浮かぶ白く大きな雲がゆうくり動くさまを眺めていた。
 学校を出ると就職面接だとか、公務員採用試験に作文があった。これまた書けなかった。試験監督員が黒板に課題文を書く。もしくは課題が書かれた髪を黒板に貼る。それから数分間後、規定の時刻なるとに厳かに
「始め」
という。
 周りの人はその声がした瞬間に鉛筆を持って一斉に紙に書き出した。数十人の受験者が走らせるサラサラという鉛筆の音が鳴る部屋で、ぼく一人何も書けないで悶々としていた。何を書けばいいのか全然わからないのであった。紙に書き付けるべき文字が一文字も浮かばなかった。ぼく以外の全員が天才に見えた。どうして競馬馬みたいにラッパが鳴ったら一斉に書けるのだろう?
 作文の成績かどうかわからないが、ぼくの公務員試験受験成績は一四戦全敗。〇勝一四敗。一四回受けてすべて落ちた。もっとも、数学と理科の成績も最低に近かったから作文だけの祟りかどうかは分からぬ。
 そんな人間がなんの因果であるか物書きをしている。著書も何冊か出させてもらった。しかし今でも作文苦手は変わらぬ性分だ。相変わらず書けない書けないでうんうん言っている。

  夏木立

年老いて忘却力がついた。淋しくもあるが、助かっている。
 うまれつき記憶力がずば抜けて優れていた。見たもの聞いたもの、すべてを記憶してしまって辛かった。
 おもうに、人の脳とは、忘れたいことを実際に忘れる機能を備えている。おかげで精神衛生が保たれるのだ。なんでも憶えてしまい、忘れる能力がないと、その人の脳の中の本人が意識できる部分の記憶が増える一方。辛いことも苦しい記憶も、脳の無意識部分に格納することができないとなると、人格は人生の経過とともに増え続ける記憶によって圧迫される。ありすぎる記憶は心理的脳腫瘍だ。あまりに耐えがたさに人格が異常をきたすだろう。
 ぼくは勉強経験がない。
 中学校を出て世の中へ出たから高校受験や大学受験と無縁だった。それで今でも難しいことを知っているくせに、初歩的なことを知らない。
 中学二年生のとき、学校の定期テストで学年一位を二度とった。勉強ができて一位だったのではなかった。教科の内容なんか理解していなかった。勉強したことがなかったし、ぼくが育った家庭は教育に無関心だった。いちどたりとも「勉強しなさい」と言われなった。
 テスト前に先生がテスト範囲を、教科書何ページから何ページまでと生徒全員に教えてくれた。中学の勉強だから分厚い教科書ではない。薄い本の一部のページだけが出題されるのだ。
なんだ簡単なことじゃないか。全部憶えてしまえばいい。中学生のぼくは簡単な方法を見つけた。若かったぼくの記憶力は恐ろしほど優秀だったのだ。どんな本でも、それを見れば(熟読すれば、ではない)すべて憶えてしまえた。人の話やラジオ放送の話も聴いた途端に記憶してしまえた。だからわずか数ページの教科書を、カメラが写真を撮るようにして脳の中に写した。脳のメモリに入れて、試験日にメモリから出した。それだけだ。ぼくは人間コピー機だった。ぼくにとってなんでもない作業だった。うまれつきそうなのだから。
 その結果学年首位の成績となったのである。中身の理解などしていなかったのだ。
 一位になった瞬間は嬉しく誇らしかったけれど、じかに飽きてしまった。
ぼくにとっては至極簡単なことで、首位にたってもおもしろくもない。ぼくはなにか創ること、表現することがたまらなく好きだった。今も好きだ。テストで良い点をとることはクリエイティヴな作業でない。好きなことに沈潜したときの集中力の深さならばおそらく誰にも負けない。文字通り寝食を忘れるから。しかしなにごとについても、じぶんが興味を持てない作業には本腰をいれられない困った性格なのである。 強いて努めるという意味での勉強ができない性格なのだ。ゆえに会社や官庁等の宮仕えはなにより苦手だ。
ところで、聴いたことと見たものすべて記憶してしまい、忘れる能力がないとは実に苦しいのである。それは苦しい人生の連続なのである。人生経験のほとんどすべてが意識上に可視化されてあるということなのだ。思い出したくない記憶を無意識の領域へ押しやれないということなのだ。いつでも過去記憶と対面し続けなければならないということなのだ。この苦痛を軽減するために、なるべく情報に接しない方法をぼくはとってきた。テレビを見て一切見ないとか、ニュースをきかない読まないなどだ。
 このごろはその記憶力が急速に衰え、忘却力が増している。老化による人の脳の能力低下がこんなに坂を落ちるように急速なことを知って驚いている。寂しいことだ。ふつうにできたことが一つ一つできなる。死に向かう階段をいそいで降りつつある。
 でもそのおかげで物ごとを適度に忘れられるようになった。楽になった。
現在のところ、老化のかなしさよりも、その嬉しさがぼくには大きい。

巴里

 祖父が商売をしていたため、幼少のころ私の苗字入りのカレンダーがトイレにかけられていた。小学校へ上げる前のことである。まいにちそれをみるうち、自分の苗字の漢字が読めるようにいつのまにか成っていた。
 その字を訓読みではカナイと発音する。音読みなら「キンセイ」であろうか。私は音読みの方だけ読めたのである。訓は読めなかった。ましてやひらがなカタカナは読めなかった。
 それには理由がある。漢字の発音の規則性を発見したのである。
 私の苗字の上の字は「金」である。この字はキンとかコンとかゴンと発音する。みっつともよく似た音だ。そこから出発して、金が左側につく漢字はすべて非常に似た発音をすることに気づいた。金偏漢字はたいてい画数が多くて難しい字だが、発音に関しては難しくない。どれもこれも、キンまたはゴンなどにちかい音なのである。
 漢字というのは基本的に絵文字だ。アイコンだ。だから未知の漢字でもみればその発音と意味が直感的に推察できるものである。そんなことから未就学児童であった私はあらゆる漢字をかたっぱしから発音していた。言うまでもないが発音できただけで意味をわかってはいなかった。
 けれども、漢字の訓読みとカナはぜんぜん読めなかった。それらは規則性が希薄なのである。ゆえに大人から教えてもらわなくては読めるようになれない。まだ小学校にも入ってなくて誰からも教育を受けていない児童だったから読めないことは当然だった。
 十年ほど前だったか、みすず書房が出しているレヴィ・ストロースの幼い日々の回想記を読んで「あっ」といってしまった。説明するまでもないが彼は二十世紀人類学の巨星である。
 乳母車に乗せられた幼少のストロースがパリの街の看板等に書かれたフランス語のアルファベを片っ端から読んで大人たちを驚嘆させたそうだ。
私が驚いたのは、その理由の解説である。
 乳母車から、丸かったり角ばっていたりする奇妙な形の模様(アルファベのこと)を毎日見続けるうちに、幼児のかれはその中にあるフランス語の発音の規則を発見したというのだ。いちど見つけてしまえば、どの看板のフランス語も苦労なく読めたそうだ。この説明を読んで、私は膝を打ち「あっ」と言った。私の経験とそっくりだ。
 だからレヴィ・ストロースの回想が嘘や誇張でないことがすんなりとわかった。こうした経験をしなかった人は理解してくれないだろう。だが複雑でいっけんなんらの関係もないかのような物ごとたちから、その中にある規則性を見出す才能に恵まれた人が地球上に実在するのである。ほかのひとにみえないものがみえるのである。それは努力して見つけ出すのでなく、しぜんに見えてしまうのだ。
 この資質の上にレヴィ・ストロースあの立派な人類学研究が花開いた。交差イトコ婚など常人に見えない規則性が見えたのだ。
ところでこういう能力をもって生まれてしまった少数者は、まず同類にめぐりあえない。この話を誰かにしても話が通じない。向こうは意味を理解できないから、自慢話はじめやがったとおもわれるのがせいぜいだ。そんな孤独の中でレヴィ・ストロースという同類の人を知って私は嬉しかった。かれは割と最近まで生きていたが、およそ百歳で死んでしまった。
 彼に死なれて私はたった一人の同類を失った。また一人になった。

あたりまえのことを言う

 産経新聞社の宣伝コピー
「当たり前のことを言う!」
 私は言い返す。
「当たり前のことを言っていたら、当たり前にしかなれない」
と。
「規範から逸脱しなければ進歩はありえない。」
 フランク・ザッパー
 (ミュージシャン、一九七一年頃)
「はみ出し者、逆らう者、やっかい者、変わり者。
 ものごとが世間の人々と違ってみえる人。ルールなどわずらわしいだけの人。現状など気にもしない人。
 かれらを引きあいに出すことはできる。否定することもできる。讃えることも、けなすこともできる。
 できないのは、おそらくただ一つ。かれらを無視すること。
 なぜなら、かれらはものごとを変える人だから。創意工夫して発明をする人だから。想像する人だから。癒す人だから。探索する人だから。周りの人を鼓舞する人だから。人類を前へ進める人だから。」
 スティーヴ・ジョブズ
  (起業家、一九九七年頃)
 私は再び反論をしよう。これこそあたりまえの道理だから。
「あたりまえのことを言っていたら、あたりまえにしかなれない。」

猫の夢

 生命科学があきらかにした知識によると、細胞は絶えず死に、絶えず新生している。
 僕らは数十兆個の細胞から成りたっている。垢は古い皮膚細胞の死骸である。個体の死までの五十年なり、一百年なりを、おなじ細胞が働き続ける。そうみると、僕らが生きるということは、たえず死に、一瞬の休息なく、生死を繰り返しているということである。
 僕らは、休むことなく、たえず生まれている。さらに、分子レベルで考えると、また様子がかわってくる。僕らの体の各細胞は、酸素分子だとか窒素分子・炭素分子などで構成されている。計算によると、約三カ月ですべて新しい分子に入れ代わるという話である。これには神経細胞などの例外はない。つまり、赤ん坊の時の私を構成していた分子は、たった一個さえ今の私にはない。ということは「私」を純粋に物質としてみれば、恒常性も同一性もないことになる。
 私どもの腸内にはたくさんの大腸菌が棲みついている。一部を除いて僕らの生体に悪さをしない。それどころか、もしも大腸菌等がいなくなれば、僕らは死んでしまう。その他の菌も無数にいる。
 バクテリアは胃にもいる。口腔内にもいる。皮膚にもいる。どこにでもいる。そのほかウィルスが入りこんだ細胞もあれば、ウイルスが入ったバクテリアが腸にいるという複雑関係もある。いずれも基本的に健康に害をしない。
 ところで、免疫の考えからするとバクテリアと「私」を区別できるのだろうか?
 通常私たちは「善玉菌」にしろ「悪玉菌」にしろ『私』に寄棲する別の生物と考えちだが、実際はその境界はあいまいで、互恵共存に近いのではないか。少なくとも免疫系はバクテリアなどを異物と認識していないか、非自己ではあるけれどもトレランスしてるか、いづれかである。
 免疫とは自己と非自己を峻別する働きである。非自己の物質を有害とみなして排除する。けれども非自己であっても必要なもの、食物や、母体にとっての胎児などを免疫は寛やかに認容する。
 別の先生の研究によると、私どもの個体の細胞数より、皮膚や身体内部に棲み着いてい細菌数のほうが多いという。「私」を主としバクテリアを「從」とできるか?
  算数上ではそう云えない。もしかしたら「私」が大腸菌に寄棲しているのかもしれない。バクテリアに「私」が寄棲しているのか?  あるいは僕がバクテリアなのか?
 現代天文学のビッグバン理論は聖書の記述とよく似ている。アリストテレスの「不動の神」の思想とも似ている。ギリシアの哲人によると、事物は動きである.。いま運動する物体αを措定する。運動以外に、αに動きを与えたβなる「なにか」があるはずだ。それをかぎなく遡れば、みずからは動くことなく、事物に動きを与えた「神」がある。これは時間因果論である。ただしヘブライの創造神と違い「神」は最初の一突きをくれるだけ。その後自然法則に則って運動する。最初の一突き以前は無である。なにもない。存在は動きである。
 量子論ともよく似ている。ビッグバン理論を学者から聞くと
「じゃあその前は?」
と尋ねたくなる。でもそれは愚問だそうだ。
「宇宙の果ての向こうはどうなってるいの?」
と尋ねたくなる。宇宙の始まり以前は「無」なのだそうだ。
 それは擱くとして、物理学の説く物質生成の理論はヘンにインド世界の輪廻説と似ているところがあるアビダルマクシャ論」の宇宙説など壮大で聞いてて面白い。
 宇宙生成後しばらくの間、この世は光だけの世界だった。それがいつの時か、原子ができ、第一世代の星が出現した。この星々はみな軽い水素原子で出来ている、星の中心部の融合反応によって水素からヘリウムが出来、ヘリウムから炭素が出来、炭素から酸素ができる。重い星の中心部ではこの反応がさらに進んで、鉄が出来たところで止まる。やがてそれら星々は超新星爆発を起こして、多量の中性子を周囲の宇宙空間にまき散らし、それが星の中心部の鉄などと化合して、核融合反応だけでは作られない鉄より重いウランまでのすべての重元素をつくる。その元素が星間雲を汚染し,その中から第二第三世代の星々が誕まれる。
 古い星々は重い元素を残して死んでいき、新しい星が生まれる。そうして宇宙生成後五十億年位したところで私たちの太陽系が生まれ、生物が誕生したという。そんな話だ。
 僕らの体は炭素や酸素その他多数の元素から出来ている。それらはすべて遙かな太古に星々の生まれかわりの中でできたものなのだ。だから私が死亡すれば私の体は元来の元素に戻って、やがて数十億年後、太陽が死滅する時に宇宙空間に放出され、想像もつかないような遠い未来には、見知らぬ星の生物の体を構成するかも知れない。不可思議である。
 人間の思議の及ばぬ世界である。インド人の考えとなんと似ていることか。
 死とはそういうものかもしれない。何十億あるか分からぬ中の一個ずつの卵子と精子がたまたま結合して私のからだができた。そうして私が死ねばまた元素に戻っていく。それだけのこと。精神は死なないと考える人がいるが、そんなことはない。志賀直哉の晩年に『ナイルの水の一滴』という一文がある。
「人間が出来て何千万年になるか知らないが、その間に数えきれない人間が生れ、生き死んでいった。私もその一人として生れ、今生きているのだが、例えて云えば、悠々流れるナイルの水の一滴のようなもので、その一滴は後にも前にもこの私だけで、何万年遡っても私はいず、何万年経っても再び生まれては来ないのだ。しかも尚その私は依然として大河の水の一滴に過ぎない。それで差支えないのだ。」
 私の死後、体を構成していた元素は、気の遠くなるような長い時間をかけて、やがて何かに転生するだろう。しかし、いま私の身体を構成している物質が、もう一度同じメンバーとして全部集まり、私という一個の固有の人物として再生されることはない。過去にも無かったはずである。
『荘子』に「荘周之夢」の寓話がある。荘周が夢に胡蝶となり、ヒラヒラと舞い飛び、栩栩然としてうれしかった。しかし俄然として目覚めると、荘周は荘周でしかない。長い長い年月で見れば、荘周が夢を見て胡蝶となったか、胡蝶が夢を見て荘周になっているのか。それはわからない。
 漱石の『吾輩は猫であろ』では猫が夢みる。
「ある日の午後,吾輩は例の如く縁側へ出て午睡をして虎になった夢を見ていた。主人に鶏肉を持って来いと云うと、主人がへえと恐る恐る鶏肉を持って出る。迷亭が来たから、迷亭に雁が食いたい、雁鍋へ行って誂えて来いと云うと、蕪の香の物と、塩煎餅と一所に召し上がりますと雁の味が致しますと例の如く茶羅ッ鉾を云うから、大きな口をあいて、うーと唸って嚇かしてやったら、迷亭は蒼くなって山下の雁鍋は廃業致しましたが如何取り計らいましょうかと云った。それなら牛肉で勘弁するから早く西川へ行ってロースを一斤取って来い、早くせんと貴様から食い殺すぞと云ったら、迷亭は尻を端折って駆け出した。吾輩は急に体が大きくなったので、縁側一杯に寝そべって、迷亭の帰るのを待ち受けていると、忽ち家中に響く大きな声がして折角の牛も食わぬ間に夢がさめて吾に帰った。すると今まで恐る恐る吾輩の前に平伏していたと思いの外の主人が、いきなり後架から飛び出して来て、吾輩の横腹をいやと云う程蹴たから、吾輩は虎から急に猫と収縮したのだから、何となく極まりが悪くもあり、可笑しくもあったが、」
 (新潮文庫版二七三頁)
 吾輩氏の夢に猫が虎となる哉。虎の夢に猫となる哉。豈誰か能く知らむ。

硝子のジェネレイション

 流行が素早く変化する現代。年齢が十才違うと話が通じにくい。十代のときの共通経験がずれるのだ。
 話自体は通じるけれど、肌があう感じがない。「周波数」がずれる。隔靴掻痒の感。
 たった十歳上の人と話しても、なにかがずれる。むこうもおなじもどかしさを感じているはず。
 たった十歳若い人と話しても、ときに話がわからない。表面上の意味はわかっても、彼が言おうとしているニュアンスがこちらに伝わらない。
 わたしより一世代若い人はポケベル世代。かれらが高校生の時ポケットベルが大流行して、それで連絡を取り合った。その次が携帯電話世代。ふたつ折りケータイが眩しく見えた世代。そそしてスマートフォン世代が続く。
 わたしが十代のとき、そのどれもなかった。電話は重厚なダイヤルを回すもの。持ち歩く電話なんか想像もしなかった。だからたった十歳若い人たちのポケベル懐旧談がわからない。かれらもケータイ世代がわからないそうだ。ましてやスマートフォン世代の人たちとは話ができないくらいわからない。彼らだけが共有している(らしい)その感覚がわからない。
 商業的流行だけではない。
 わたしが中学生の時、男子は家庭科を習わなかった。しかし十歳若い友人は習ったそうだ。コンピューター教育も受けたそうだ。わたしのときはそんなものはなかった。だいたい世の中にパソコンが普及していなかったのだ。パースナル・コンピューターという物体はあった。アップル・コンピューター発売はわたしの小学生時代だったから。だが値段が高すぎて、一般人はもとより企業だってパソコンなど導入していなかった。先端的企業がようやくワープロ専用機を使い始めた時代だ。学校で情報教育なんか教えるわけがなかった。だからわたしのパソコン技術はぜんぶ我流。当事の年上の人たちはワープロやパソコンを恐怖していたから、誰も教えてくれなかった。
 いまの若い人はタイピングの指の動きからして無駄なく、美しい。わたしのタイピングはまったくの我流で、ひどいものである。誤字脱字だらけに打っている。左利きなのに右利き用キーボードにむりやり合わせたからか、無駄だらけのひどいタイピングが身についてしまった。
 わたしは黒く大きなアナログレコード盤で音楽を聴いたもっとも若い世代だ。あの野暮ったらしい感じ。三〇センチの広さがあるから可能だった表紙ジャケット芸術。盤を取り出した時のわくわくする匂い。針を落としたスクラッチ音から始まる音楽。レコード盤の傷つきやすさと壊れやすさ。この懐かしい経験をたった一〇歳だけ若い友人に語れない。「レコードですか」「見たことはあります」「親が持ってました」なんて言われてしまう。
 世代は言葉だって違う。
 使う語彙が違う。抑揚が違う。アクセントの付け方が違う。イントネーションが違う。若い世代(と年上世代)と話をすると、これが実にストレスだ。いらいらする。ラジオを聞いていても何歳くらいの人かわかるものである。離れた世代の人の話はその内容以前に、言葉使いにいらだつ。同世代の人の声はすぐわかる。ラジオだから顔も名前もわからないのだが数分間聞いていれば同世代だとわかる。使う語彙と話し方でわかる。同世代の人の話はほっとする。聞いていてたのしい。それは海の波の音に身を浸すような安心感だ。
 八〇年代にラジオから流れていたヒット曲の半数くらいが松本隆作詞だった。かっこいいと思っていた。その詞の世界は時代の尖端、二十一世紀の未来世界みたいに眩しかった。けれどもいま聴いてみると、古めかしい言葉や言い回しの多さに気づく。二世代上の人のこ言葉だ。やや違和感がある。ましてや今の一〇代の子たちが聞けば化石時代の音楽なの?と思うかもしれない。ちょうど幼かったわたしたちが昭和二〇年代の流行歌を感覚的に受けつけられなかったように。
 同世代の人とは、自分を中心に上下三歳くらいまでだろうか。
 ずっと昔、九〇年代に同棲したひとはわたしより二歳若かった。学んでいた通信制学校の同級生だった。彼女とは違和感を感じなかった。三歳以上離れると、若いときの共有経験がずれてしまって、なんとなく波長があいにくいのかもしれない。
 こまった時代に生まれたものだ。

流れる

 私は故郷を複数もっている。千葉県をのぞく関東のすべての都県と静岡県伊豆で育ったからだ。
 小学校低学年の夏休み、東京下町の誰だかわからぬ人の家に預けられた。小さかったから正確な地名を記憶していない。ただ、大人に連れられて乗った地下鉄の電車が地上を走りおおきな河を渡ったところの駅で降りた。地下鉄なのに外を走ってる、と不審に思ったことを記憶している。おそらくその大きな河は荒川放水路で、私は江戸川区葛西あたりに預けられたのだろう。
狭い家だった。水道の水が薬品臭かった。七〇年代の下町の水は汚くて浄化するため大量の薬品を使っていたからだろう。江戸川も隅田川も現在よりよほど汚かった。
 子供だけで河へ行ってはいけないと言い聞かされたが、他に行くところがなかった私は河の高い擁壁のところへ行った。
 それから月日が流れ八〇年代になり一七歳の私は大川べりの墨田区本所でアパート暮らしをした。両国国技館の裏のほうだった。部屋の窓の前は首都高速六号線でその向こうの向こう側が蔵前と柳橋だ。都心ではなく郊外でもない中途半端な立地で、日常品を商うお店が少なかった。
 景気が良い時代だったから仕事はいくらでもあった。ただし中学校卒業で一八歳未満の私を面接してくれる会社は少なくて転職が困難だった。そこで高卒資格をとるために通信制高校へいこうかと考えた。現在の事情は知らないが、三〇年前の当時、台東区の上野高校と新宿区山吹の二つの都立高校が通信制を開設していた。両方を見学してみた。場所は上野が便利だった。本所から歩いても通える近さだ。でもなんとなく山吹のほうがハイカラな感じがしてそちらにしようかと漠然と思った。けれども仕事が忙しく、朝九時から夜九時まで働く状況で、疲れてしまって通信制高校のことをいつのまにか忘れてしまった。
 その後世田谷区へ越した。ハイセンスな山の手に住んでみたかったから。
下北沢のちょいと先の小田急沿線だった。
 住んでみて生活に便利な町ではあった。活気があり、店がたくさんあり、不便だった本所とは大違い。でもなんとなく違和感を覚えた。なんかちがうと感じた。住みやすいのに住んでいておもしろくなかった。この違和感は何なんだろうと我ながら不審だった。
今はその理由がわかる。河がなかったからだ。東京の西部近郊には江戸川や隅田川に相当する河がない。ぜんたいに乾いていて砂っぽい。潤いに欠ける。渋谷新宿池袋より西方の住宅地はどこもそうだ。冬は砂埃を上げる乾燥した季節風ばかりが強く吹く。一言で表現すると田舎っぽいのだ。
 私は水が好きだ。住むならば河がある街がいい。

誘惑

 飛行機からたった一人で見知らぬ国に降ろされてしまった、としよう。そこは日本人が一人もいない国だ。言葉と習俗習慣がわからない国でその人が生き抜くためにはまずは周囲の人々の様子を懸命に観察し見様見真似に真似するしかないだろう。
 機能不全家族で育った子供はこれと似ている。
 親がアルコール依存だったり、極度の貧困だったり、機能不全家族にはいくつかのバリエーションがある。しかしそういう環境で育つしかない子供は子供なりに周囲の大人たちを観察し真似して育つ。やがて若者になったとき、かれらは滅茶苦茶な性格破綻者(ジェームズ・ディーン、マリリン・モンロー、尾崎豊のような)になるか、過度にしっかりし過ぎている青年(小さな大人として親のケアをせざるをえなかった子)になる。どちらかの両極端になる。非常にしっかりしているように見えてもその内面は脆い。
 そのどちらのタイプも心の奥に深い傷と激しい怒りを抱いてアウトローとして生涯をいきてゆく。
 かれらは結婚したがらない。こどもを欲しがらない。結果的に妊娠してしまうことは非常に多いけれど、それを「おめでた」ととらえることはない。明るいこと楽しいことがなにもなかった子供時代を経験してしまったからだ。家庭は嫌悪すべきところでしかないからだ。
 かなしみをひとひら
 噛じるごとに子供は
 かなしいと言えない
 大人に育つ
  「誘惑」(中島みゆき)より

鰯雲

 チャップリンの小説「フットライト」を読んだ。あの多芸なチャップリンが小説まで書いていたのかと驚いたが、実のところは映画「ライムライト」の台本の下書きのような作品で、本人は廃棄した原稿のようだ。しかしながら周囲の人が廃棄されたノート等をゴミ箱から収集し保管していたらしい。そのうちの一つが今回読んだもの。本人はおそらく世に出す意図がなかった原稿がこうして読まれているわけで、遺体を「誘拐」されたことといい、人気者は死んでも忙しいようだ。
 才能豊かな人だけにさすがによくかけている。でも小説とよぶほどでもない。一読後の印象は「素晴らしい下書き」であった。
 小説「フットライト」により、「ライムライト」を見ただけでは不可解であった描き方が三つほど理解できた。一つは主人公カルヴェロの年齢設定が五十歳過ぎであるということ。これは驚いた。そんなに若い設定であったとは。六五歳前後かと思っていた。
 次にライムライト劇中歌「イワシの歌」。ぴりりと苦味が効いたコミカルな歌をカルヴェロが歌う場面。映画版でかなり短縮されている歌詞が「フットライト」では長々と解説されている。おかげで歌の内容が今回はじめて全体的にわかった。そうして「ライムライト」では歌われない前半部分の歌詞が金子みすゞの詩「大漁」と似ていることを見つけた。偶然の一致だろう。面白いことだ。金子の詩のほうが時代的に先だが、完全に無名であった日本の詩人の作品を、日本語を理解できないチャップリンが知っていたとは思えない。
 三つめ。「ライムライト」終盤のバスター・キートンとチャップリンによる劇中喜劇。あのシーンは「フットライト」に存在しない。撮影に入り、キートン出演が決まってから、二人がほとんど即興芝居で撮ったシーンのようである。
 有名な場面だが以前から私はあそこが不可解だった。二人のコントはどう見ても可笑しくない。しかるに観客達は涙を流し身をよじるほど笑っている。もしかしたら観客全員、テリーが依頼したサクラなのかと勘ぐったりしていた。しかし「フットライト」を読んで、嘘笑いでなく、二人の芸がほんとうに観客に受けているシーンであることがわかった。少数のサクラを雇い観客席に紛れ込ませたことは「フットライト」にも書かれている。だが観客はサクラたちの行動を乗り越え本当に笑っていたのだ。落ちぶれ喜劇役者カルヴェロは憐れんでもらったことを知らずに死んだのではなく、生涯最後に大成功を収め、その中で死んだのだった。
 カルヴェロのモデルはチャップリン本人と彼の若くして死んだ父親だろう。カルヴェロもチャップリン・シニアも舞台に上がる前に強い酒を煽る。素面で観客の前に出られない。受けないことが怖くて。チャップリン本人だって映画であれほど人気者になってからは舞台に立たなかった。カメラを間に挟む間接芝居で観客に接した。おそらく舞台恐怖があったのだ。
 カルヴェロはブランデーをあおって舞台に立てば霊感が湧き、「面白い人」に変身できると言う。
 ところで私は酒が飲めない。下戸にとって酒は単なる毒入り水である。だからカルヴェロの述懐が理解しにくいのだが、創作が湧く湧かないの問題に取り替えれば非常によくわかる。
 私は十冊ほど本を上梓させていただいた。しかしその中に私の作文は一行もない。子供時分から作文が苦手で文章を書けないのだ。世の中には読書が趣味で、読むのも書くのも好きという方がいる。私も読書好きだ。この頃は視力が衰えてペースが落ちたが一年に百冊は読む。けれど読むのが好きだが書くのは嫌いだ。趣味を仕事にしてしまうとつまらなくなる。趣味が趣味でなくなり義務に変化する。私は読むことは好きでも書くことが嫌いなので、ある意味で助かっている。
 ではどうやって本を書くのか。
 文章が湧いたら書き写すのだ。私が作文するのではない。自分の中で文章が湧き出したらそれを書き留めるだけなのだ。書き留めたものの集積が本となる。湧いた時はいくらでも書ける。湧かない時は一行も書けない。これが私の本の書き方だ。
 物書きの中には文章が天から降ってくると表現される方もいる。私の場合は上からではなく、自分の下腹のあたりから文が湧く。いつ湧くか当人にもぜんぜんわからない。本を読んでいる時、ラジオを聞いている時、掃除している最中などいつでも湧くときは湧く。傾向としては、歩いているときと、寝ているときに湧くことが多い。歩行のリズミカルな運動が良いのだろうか、歩いている時ふと湧き出す。すると私は歩きながら、頭の中で、湧き出した断片的な言葉たちを論理的につなげて形ある文章に組み上げる。そのままでは確実に忘れるので、その場でメモをする。そのために私は常にペンと紙を持ち歩くことにしている。もしその場の近くに喫茶店でもあれば飛び込んで、頭の中で完成させた文章を紙に書き写す。
 睡眠中に湧くこともよくある。睡眠といっても明け方起きる直前に文が湧くのだ。夢でない半覚醒状態であることは自分で意識している。眠ったまま湧く。湧くままに文やアイディアに身を委ねる。そうしてすっかり覚醒したら真っ先にそれをノートに書き留める。奔流のごとく文章が湧き上がるため手の動きが追いつかない。殴り書き状態になって数ヶ月もすると私自身解読に苦しむひどい字で書き留め、判読できるうちにノートを見ながらタイプする。
 つぎにその文章を何日か「寝かせる」。翌朝目覚める前にほぼ確実に新しい文章が湧くからだ。湧いた文章を足したり不要と判断した文章を消す。これを数日続ける。この作業を私は「発酵」と呼んでいる。食べ物が微生物の作用によりより良いものに変化するように、湧いた文章を寝かせると洗練されたものに「発酵」する。これが私の創作方法である。
 ついでながらこの文章もまた昨日街を歩いているとき湧き出たものをメモ用紙に書き写し、帰宅後にタイプし一週間ほど発酵させたものである。

偶像

 中国語への翻訳語の中に時折「うまい」とおもわされるものがいくつかある。口可口楽(コカ・コーラ)などその代表であろう。漢字の本場の人はさすがにセンスがいいと思わずうなってしまう。
 偶像、という翻訳語も素晴らしいものの一つだ。アイドルの翻訳語であるが語感からすると、もともとの英語からの直接翻訳でなく、日本語としての「アイドル」を訳したのではなかろうか。日本のアイドルを現代中国語は「日本偶像」というのだ。
 アイドルは疑似恋愛の対象だ。人はアイドルに夢中になる。不幸な人ほど夢中になる。これは客観的にその人が不幸な状況に置かれているか否かに関係ない。本人が主観的に自分は不遇だと感じているほとほどアイドルにのめりこみ易い。
 テレビなど何らかのメディアを中間に挟んだ安全な恋愛対象。直接に異性と相対するとき人は非常にしばしば傷つけあう。傷つけあう言葉なら海の波よりおおい。それは人格の奥深くを張り倒す(張り倒される)危険な恋愛だ。アイドルへの疑似恋愛ならその危険を回避できる。その意味でアイドルはまさしく偶像である。
 疑似恋愛対象となるアイドルとアイドル志願者はカメラのレンズを恋人と仮定して優しく見つめる練習を日々繰り返す。その人は、自分の戸籍名から切り離された芸名としての架空の人物を演ずるのだ。自宅にいる時は本名としての自分でいる。あるいはテレビ局内や撮影スタジオ内など内輪の者だけの場所ではある程度までアイドルでない自分のままでいる。著者は昭和の終わり頃芸能界の片隅で営業の仕事をした。テレビ局内で見かけた時のアイドルたちはみんなどこにでもいるふつうの人だった。テレビ画面で見たときと別の表情をしていた。そうしてアイドルの仮面をつけていない時の彼または彼女たちはあまり魅力を感じない人ばかりだった。
 しかしカメラの前に立った時、公の道路を歩く時、彼または彼女は、疑似恋愛被対象としてのアイドルという仮面の別人格を演じる。昔の女優を例に挙げて恐縮だが、マリリン・モンローはマリリンを演じていたのである。出生証明書に記載されたノーマ・ジーンを生きていたのではない。そしてまたファンはマリリン・モンローを愛していた。ノーマ・ジーンに興味はなかった。
 アイドルもしくは元アイドルはときに自殺してしまう。モンローは自殺に近い不可解な死に方をした。仮面人格を演じつづけることに疲れるのだろうか。
 スクリーンを中間に挟んだアイドルはいつも「自分だけ」に微笑んでくれる。自分を不遇だと信じている人々はそこに理想の恋人を見る。自分が異性と社会に求めて得られない理想の全部をそこに投影する。スタンダールの結晶作用である。
 正に偶像である。
 もしスタンダールがテレビがある世界に生きていたら、かれの著書「恋愛論」の一章としてアイドル論を語ったことだろう。
 アイドルへの「愛」は憎悪へ逆転することがある。というより愛着と憎しみはコインの表裏のように切り離せないことなのだろう。自分がこんなに胸を熱くしているアイドルの彼女または彼は芸能界という華やかな世界で光っている。それなのに社会の底辺を這うように生きているこの自分は何なのだ。なぜこんなに違う境遇なのか。疎外感不遇感に苦しめられている人ほど偶像への愛着と憎悪の炎を熱く燃やす。
 そしてあるときその感情を実行に移してしまう。
 筆者はミュージシャンのジョン・レノンが熱心なファンに射殺されたときのニュースを微かに記憶している。これが最悪のケースだろう。塩酸溶液をかけられた芸能人もいた。握手会で切りつけられたアイドルがいた。いずれも熱心なファンの犯行であった。 アイドルへのつきまといの件数は数えるのも難しいほど多い。
 アイドル耽溺者は年齢を問わず存在する。三〇歳代にも五〇歳代の人にもにもアイドルはいるのだ。それはアイドルが肉体と体温を有する実在存在ではないからだ。アイドルに熱中する人の胸の中に存在する観念であるからだ。不遇感と疎外感と孤独に苛まれている人は何歳であってもアイドルに依存する。
 アイドルは江戸時代にはすでに存在した。それは芸者と歌舞伎役者という名称で呼ばれていた。レコードとパソコンがなかったから、アイドルの歌と映画がでまわることはあり得なかったが、読み物と浮世絵の形式で出現するアイドルに江戸の人たちは耽溺していた。
芸者は各々芸者置き場に所属していてそこから求められた先へ派遣された。現代のアイドルたちも芸能プロダクションと呼ばれる芸者置場に属している。
 時代が移ってもそれらの人びとのお金を狙ったアイドルビジネスが消えることはないのであろう。

ことん

 他人と他国を攻撃したくてたまらない人たちは世界中のたれもが自分と同じく差別と虐待愛好者だと信じてしまう。自分の欲望を投影して「外国が攻めてくる」「日本を軍事侵掠する」と言う。
 平和を愛する人々は世界中のたれもが自分と同じく自由と平和と信義を愛すると思う。外国が攻めてくるなんてありえない妄想だとそれを嘲う。
 ラジオを聞いていたらこんな投書が読まれた。
「私は高校生です。私は高校を卒業したら好きな夢を目指すために専門学校に行きたいと思っています。でも学校の先生は、大学くらい行かなくちゃ人生の落ちこぼれだ。大学進学しろと言います。私はどうしたらいいでしょう?」
 それに対し六〇歳代のディスクジョッキーがおおよそこんなふうに応えた。
 そんな考えが時代遅れなんだよ。大学へ行ってもろくなものにならなかったやつもいたし、行かなくても立派な人もいる。要はその人の努力だ。先生の言うことなんか気にするな。君の人生だ。きみの道を行くんだ。
 わたしもその老ディスクジョッキーと同意見である。それが正しい意見だ。
 ただ聞きながら、もしかしたら私たちのほうが時代遅れなのかも、と思った。
 私はディスクジョッキーより一世代若い。しかし今の高校生と対比したらほぼ同世代といって構わないだろう。私たちが若い頃、二〇世紀後半だが、その頃は社会の階級変動が激しかった。本人の努力次第で社会階層を上昇できた。
 学歴についてはもっとそれが顕著だった。私たちの世代は大半の人が両親より高い学歴を所持している。親が中学校卒業、子供は大学卒業。あるいは親は高等小学校卒業で子供は高校卒業。そんなのがあたりまえだった。現実状況を置いておくとして、努力次第でいくらでもえらくなれると私たちは思っていた。または思わされていた。
 しかし現在の状況はどうだろう。今の親の半数は大学卒業生である。子供は努力しても学歴で親を超えられない。そうして今は社会階層が固定してしまった時代だ。どんな環境に生まれたか、より具体的に言えば、どんな家庭に生まれたかで生涯が決まってしまう時代である。一部の例外的ケースを除いて、前世紀後半のようなジャンプアップの夢の期待をもてない。上がることは至難だが落ちるのは一瞬。
 身分が固まった今の日本社会だが、下への落下は簡単である。
 こうした状況下では、大学進学は身分転落を防ぐための綱なのかもしれない。それは脆弱な保障でしかないが、ほかに階級落下を防ぐ手段が見当たらないなかでは、その高校の先生の指導のほうが現代的で、時代遅れは昭和世代の私たちのほうかもしれない。
 そう思った。

 わたしは言語障害をもっている。
 もっとも英語日本語中国語といった人間言語の「読み書き]についてならば問題ない。むしろ一般人より優秀だ。ただし話す聞く能力が劣る。
 わたしは会話が下手である。言いたいことを言えない。話し方は鈍いし時にどもる。相手の言っていることを理解しにくい。話し相手が私に期待している(であろう)ことがわからない。世間のいわゆる「ノーマルな人たち」は、生まれつき、相手が冗談を言ったときはこう返す、といった能力を持っているらしい。わたしはわたし以外の人が天才に見える。わたしはこの能力がない。ゼロである。ジョークを言われても能面のように表情一つ変えなかったりする。適切なリアクションをとれない。だから相手はわたしをつまらないと人とみなして去る。
 言語は人間の自然言語だけとは限らない。数学の言葉やコンピューターのプログラミング言語がある。これも立派な言葉だ。これらは厳密な論理と人間言語よりはるかに少数の文法規則からできていて、人の言葉にある微妙なニュアンスや複雑な文法、逆説表現、アフォリズム等が入る余地がない。したがって人の言葉よりはるかに簡単に習得できる「はず」である。
 それなのにわたしは壊滅的なほどに数学の言語を理解できないのである。
 中学二年生まで私の数学の成績は良かった。私の記憶力が抜群に優秀だったので、カメラが写真を撮影するように、テスト前に数学の教科書を完璧に暗記したからだった。内容の理解はしていなかった。ちょうど近視の人が視力検査を受ける前に、こっそり検査ボードの字を暗記して、見えていないのに見えているふりをするようなものだ。けれども中学三年になり、試験が解の証明だとか、勉強内容の理解力を問う方向に変化したとき、右の方法が効力を失った。
 どんなに数学の勉強に励んでも数学の言葉は、単なる紙の上の模様にしか見えなかった。意味ある言葉として把握できなかった。数学言語は文字通り私の中を右から左へ抜けていった。わたしの数学成績は急降下し、なんと0点になった。ゼロ点である。試験問題の意味を読解することすらできなかったので解答できなかった。そこで零点になった。前年の好成績からの急降下に担任の先生が驚いていた。
 もちろん数字は読めた。アルファベット記号も読めた。しかしそれを意味を持つ言葉として変換できないのである。現在でもわたしの数学力は初歩的な四則演算止まりだ。もしも世の中に計算機(コンピューター)がなかったらわたしは社会生活を営むことも困難に違いない。
 言葉は動物にもある。植物にもある。鳥にもある。かれらとならわたしはコミュニケーションをとることができる。猫や犬との会話は人間とよりもずっと易しい。人間との会話は難しい。ことに日本人同士の会話は困難だ(私にとって)。相手との上下関係、親疎関係、その場の状況などなど言語以外に配慮を要求される事柄がおおすぎる。そうしてそれに失敗すると社会的落伍者の烙印を捺され「日本社会永遠追放処分」を受けてしまう。韓国人・中国人との会話は日本人相手よりやや楽である。配慮より言葉の論理の比重が大きくなるから。けれども私たちは儒教だか仏教だかわからないが東洋の文化を共通してもっているから基本的には日本人相手に会話するときと同様の「配慮」を求められてしまう。メンツを汚したりしたら大変なことになるのだ。私の経験で、いちばん楽に話ができる相手は西洋人、アラブ人、インド人である。湿った配慮など不要で、こちらの主張をクリアにドライに述べると尊敬してもらえる。日本人相手よりはるかに緊張しなくて済む。
 ところでこうした、字は読めるけれど意味を理解できない学習障碍を英語でディスレクシアというそうだ。日本語では読字障碍とか読書障碍と呼んでいる。わたしは数学言語におけるディスレクシアである。
 読書障碍者は人数として少ななからず存在するらしい。有名な人ではアメリカの映画俳優トム・クルーズがそうだ。台本を読めないので若いころは人に読んでもらい耳で台詞を覚えたそうだ。かれは一九八〇年代「レインマン」をダスティン・ホフマンとともに主演した。自閉症患者を主人公とした映画だ。わたしは今年の春「レインマン」の台本をもとにした小説「レインマン」を読んだ。映画よりやや長く、映画にない場面もいくつか書かれていた。それらは撮影はしたものの最終的にカットしたシーンかもしれない。もしフィルムが残されているならみてみたい。
「レインマン」は自閉症として生まれた人の存在を世に知らしめる社会派ヒューマンドラマとしてみることができるし、コメディーとしてみても、自閉症患者の兄を演じるホフマンと、エゴイスティックな弟クルーズのズレ具合が可笑しい。大笑いしてしまう。自閉症者になりきったダスティン・ホフマンの尋常でない演技力が光る作品。その陰に隠れがちだが若いトム・クルーズの名演技も素晴らしい。
 以前何かで読んだ。この作品の企画段階で、クルーズが自閉症者を、その自分勝手な兄をホフマンが演じる案があったらしい。あの名人のダスティンがエゴイスティックで年齢の離れた兄を演じたらそれはそれで素晴らしかっただろう。
 それにトム・クルーズはディスレクシアだ。読字障碍は自閉症に近い障碍である。そうなれば障碍を抱える本人が自閉症者を演じることになったはずだ。しかし制作者側の意向で現在の配役に落ち着いたとのこと。役者が自閉症患者を演じるという史上初の難しい役柄であるから、安全策ををとり、経験豊かで演技力に定評あるダスティンをレイモンド役に起用したのだろう。
 わたしも数学言語のディスレクシアだ。人間相手の音声会話に障碍を抱えている。ということはわたしも自閉症者なのだろう。

彼岸花

 十代の頃印刷所兼出版社に勤務していた。外回りのしごとだった。「営業部営業第一課」といかめしい文字が刷られた名刺を持っていたが、営業課は上司二人とわたしのたった三人だけだった。当然ながら営業は一課だけで二課も三課もなかった。昔の商家ふうの言葉で言えば使いっ走りの丁稚、小僧さんだ。名刺の肩書なんて自称だし税金もかからないから何でも構わないと会社はかんがえたのだろう。おまけに印刷会社だ。好きなように名刺を印刷できる。
 出版といっても特殊な業務であって市販しない本ばかり作った。得意先はテレビ局、テレビ番組製作会社、映画スタジオ等だった。それらを毎日まわって納品したり受注したりが私の仕事だった。一般人が入れない場所ばかり訪問したのでそれなりに面白い仕事であった。しかしわたしはテレビがない家庭で育ち、芸能界に興味がなかったので格別に面白いとも感じなかった。未成年者でも採用してくれて給料が高い会社を新聞で捜したらその会社にあたったというだけであった。
 未成年で免許がなかったわたしはほとんどを電車で移動した。原付バイク免許はあったから世田谷区成城の東宝スタジオなどへはバイクで走った。数珠つなぎ状態で止まっている世田谷通りの渋滞の車列横を涼しい顔で抜いて走った。これは快かった。
 徒歩または自転車も使った。会社の自転車はずいぶん古いもので、しかも何十年も誰も乗らなかったのか、ペダルを踏むとギーコギーコと変な音がした。走行中に空中分解しそうなひどい自転車だった。とても芸能界の外面的華やかさと似合わなかった。正反対だった。日本テレビとフジテレビの二社は歩いて十分程度の近さだったので、いつしか私はその二社の担当のようになった。へんてこな自転車に本を積んでフジテレビに通っていた。
 同局は現在と所在地が違い、とても小さななビルだった。一五分ほどですべての部屋を回れるほど小さく感じた。当時の民法テレビ局はどこもフレンドリーで警戒は無に等しかった。殊に毎日通っている出入り業者のわたしはすっかり顔を憶えてもらっていた。
 まず外で警備員の方に挨拶する。つづいて受付のお姉さんにおはようございますという。そしてエレベーターに乗る。受付でのノート記入は原則としてなかった。三十年前のフジテレビの受付係は二人くらいしかいなかったようだ。しばしば受付カウンターが無人であった。係の方の休憩時間、あるいはちょっとトイレに行っているときは無人だったようだ。受付の人はたぶん二十五歳くらいだったのだろう。ずいぶん年上のお姉さんに見えたものだ。
 このころすでに携帯電話という物体はあった。たまに国電のなかで非常に大きな声で、あたかも誰かと会話するように独り言を言う人がいた。なんだろうと近くで観察したらそれは「無線機」であった。巨大で重そうな機械を肩にかけ受話器を耳に押し当てて話していた。まるで自動車電話を外して担いでいるようで、重労働そうに見えた。それが昭和末期の携帯電話。
 わたしが勤務した会社はそれを使用していなかった。代わりにポケットベルを渡された。外回りのときに着用しベルが鳴ったら会社へ電話せよと言われた。ベルトに付けさせられたとき、犬の首輪みたいでほんとうに嫌やな気持ちがした。
 ただそのころのポケットベルは、ビル影に入ると電波が届かない。地下鉄では完全に着信不能という、従業員にとってコンビニエントなものではあった。会社に応答しなくても、言い訳はいくらであったわけだ。わたしは小心者でやらなかったけど、先輩の一人に、地下鉄に乗っていたことにして、半日パチンコ店にいた勇ましい人がいた。地下鉄に半日も乗り続けるのは難しいことだとおもう。
 毎日の仕事は目が回るほど忙しかったからポケットベル鳴動は迷惑であった。鳴ったときは仕事の追加に決まっている。今どこにいる? それならついでにNHKに回ってくれ、そんな内容に決まっている。だからわたしもときにポケットベルを無視した。
 朝九時に出社する。朝は比較的暇である。そんなとき社長から「東京駅八重洲南へ行け」と指示されると嬉しかった。二時間位楽ができるから。当時の脚本家は手書き原稿であったから、原稿受け取りのしごとがあった。都内の先生の場合はお宅へ直接伺って原稿を預かった。大阪の先生は国鉄の夜行列車で原稿を送ってくれた。九州発東京行き夜汽車が午前零時台に大阪駅を出る。書き上げた原稿を列車の荷物室に預けてキタの飲み屋に繰り出す。大阪の脚本家にとって便利な列車だったというわけである。そして夜が明けて朝九時台に東京駅に到着する夜行列車から原稿を受け取るため、八重洲南口へわたしが行った。国鉄担当者へ受け取り申請してから実際に原稿が出てくるまで時間がかかった。その間わたしはただぼけーと街を眺めて待っていればよかった。通勤列車が着くたび溢れ出て八重洲ブックセンターの方向へ奔流する人の波をわたしは眺めていた。
 名前を忘れてしまったが、世田谷区内のある人気ある町のコンドミニアムに三〇歳代くらいの女性の脚本家が住んでいた。この先生のお宅へよく通った。わたしはこの先生が大好きだった。半日は楽ができたからだ。彼女は遅筆なたちだったのか、締切日当日になっても書き上がらず必死に書いていた。わたしが訪問するといつも、あと三時間待って、通りの向かい側の喫茶店で待ってて、出来上がったらお店に電話するから、と言った。
 わたしは指定された喫茶店の椅子に座りコーヒーを飲む。会社の費用で。そして公衆電話から会社に電話をかける。社長が出る。そのままそこで待て、何時間でも待て、と社長が言う。きみが待つことで暗黙の圧力をかけろ、ということだ。くだんの先輩の場合と違い、こうして会社命令によって何時間でも冷房が効いた喫茶店で楽ができる。ああなんていい先生なんだろう。あの先生は原稿受け取りのたびに何時間もわたしを休ませてくれのだ。
 半日待った末にようやく原稿をもらい、ふと多摩川べりを歩いたら彼岸花が咲いていた。その夏は暑かった。汗まみれになって東京じゅうを駆けた夏がようやく終わったとわたしはおもった。

胡蝶

 奇抜をてらっているようにおもわれるかもしれないが、現代は変化が停滞した時代である。時代の本質の変化が緩慢でなかなか動かない。
 激しく変化するように見えているものはじつはうわべだけである。その中の本質は変化しない。固着している。私が子供だった一九七〇年代も現在も時代と社会の本質的なことは変わっていない。ただより精妙に進化しただけである。
 それに対して二〇世紀後半、一九五〇年台からの二〇年間ほどは時代の本質が激しく変わった。ものが溢れ、生活様式が変わり、人々の価値観が動揺した。どれだけかわったか。
 私が子供だった前世紀の七〇年台から八〇年台にかけての頃、現在私たちが利用しているものの大半がすでに存在していた。コンビニエンスストア、ファミリーレストラン、鉄筋コンクリートのビル、高速道路、新幹線、飛行機旅行。携帯電話だって有った。もっともものすごく高価だったから大企業のトップくらいしか使っていなかったが。
 これらのものは一九四〇年台以前には影も形もなかった。近代的交通機関は火と煙を吐く蒸気機関車だ。自動車を持っていたのは軍隊ぐらいだ。市井の人びとは井戸で水を汲み、かまどと七輪で調理し、薪でお風呂をたてていたのだ。冷房などあるはずもなく、うちわと風鈴と打ち水で涼を取った。冬の暖房はなんと火鉢だけで、木と紙で造った家に住んでいた。洋服はあまり着ていなかった。着物だった。
 私は親世代の子供時代の話を聞いて、まったく信じられなかったものだ。あまりに現実離れしていた。私にとっては昭和二〇年ころも大化の改新の時代もほぼ同じに思えた。
なんという変わり方かとおもう。たった二〇年か三〇年台でこうまで激しく変わってしまった。
 その煽りをくって私の世代は親世代、祖父母世代と話が合わなかった。絶望的に価値観が通じないので話ができなかったのだ。なにしろ上の世代の人たちは「江戸時代育ち」だ。提灯や行灯で暮らしていた時代の古い価値観を保持していた。聞く音楽だって向こうは浪曲だ。ポップスだのロックだのそんな音楽は親世代にとっては「騒音」でしかなかった。祖父母世代は私たちを宇宙人ように感じたのでないか。ともかく親世代の常識は私たちの非常識で、私たちの常識は親世代に通じなかった。
 だから「騒音」で育った私たちの世代が好むものごとはことごとく親世代に通じなかった。拒否された。親子で会話が成立しなかった。私たちの世代の耳にも、子供時分に一九六〇年台以前の日本歌謡曲が自然に聞こえてきた。親が聞いていたから聞こえた。だがそれらは私たちの琴線にまったく触れなかった。それらはたった二〇年ほどむかしの歌だったのだが、ひらひらと舞い飛ぶ異国のちょうちょのようにエキゾティックに聞こえた。私たちの世代の音楽と本質が違っていた。
 これにたいして、現代の青年が聞くポピュラー音楽の本質は私たちが一九八〇年頃に聞いていた曲と同じである。延長線上にある音楽である。本質の表面に浮かぶ流行のうたかたが変化しているだけだ。だから現代の親子は会話ができる。話が通じる。
 いまの若者中に昭和歌謡好きな人がいる。だがその人たちが好む昭和歌謡というのはせいぜいが松田聖子あたりまでだ。その前の時代の歌謡曲まで大好きと言う人はいないようだ。ディック・ミネいいねとか、ブルースは淡谷のり子に限るとか、若いときの美空ひばりがいいと言う青年にお目にかかったことがない。村田英雄の無法松の一生だとか、春日八郎の別れの一本杉とかを熱唱する若者はちょっと想像できない。
 一九七〇年あたりを境として音楽が決定的に変わったのだ。時代の思潮が変化し、その後は変化の延長線上で固まっているのだ

P2P と現金取引の類似性

 インターネット世界の情報のやり取りの方法の多くがサーバー・クライアント型と言われるものだ。ウェブサイトとか電子メールとかは大抵の場合、どこかのサーバ・コンピューターに所蔵されている。その世界に「公有地」は存在しないから、すべて「私有地」だから、サーバ・コンピューターは必ずどこかの誰か(または会社か政府)が所有している。
 ぼくたちがなにかのサイトを見たいと思ったら、URLを入力するだろう。または検索して提示された、URLをクリックするだろう。どちらも同じことだ。クリックすると、そのオーダー(命令)が世界中のコンピューターを経由して、目的のサイトを持っているサーバ・コンピューターに到達する。そこで、コンピュータ語でコンコンとノックして「ぼくは A というサイトを見たい。見せてくれ」と伝える。すると親切なサーバ・コンピューターが「あいよ」と扉をあけて、そのサイトをぼくたちのコンピュータに見せてくれるわけだ。インターネットの仕組みを大雑把に端折って説明するとこういうことになる。
 レストランに例えるとわかりやすいだろう。来店した客が、私は和食、妻にフランス料理、子どもたちはお子様ランチ、それにビールを一本など伝える(オーダー)する。しばらく待つと店の奥から注文どおりの料理が運ばれる(サーヴされる)。お客たちが世界中のクライエント(客という意味)コンピュータで、サーバ・コンピューターがお店の役割をするわけだ。
 それなのでサーバー・クライアント型の場合、サーバーを運営する会社(または個人)は自分にアクセスしてきたコンピュータの情報をすべて入手している。ちょうどレストランがお客のオーダーを記憶しているように。何月何日の何時何分何秒にどこの国のなんというコンピュータが何というサイトを閲覧したのか、ぜんぶサーバー・クライアント型記録している。
 サーバー・クライアント型においては情報の非対称が生じる。サーバ管理者が情報勝者となる。蒐めた情報をいろいろな用途に活用できるわけだ。良いことにも悪いことにも。
 ところで、インターネット世界がすべてサーバー・クライアント型かというとそうでなく、サーバを通過しないで直接に個人と個人が情報をやり取りするシステムもある。誤解しないでほしいのだが通常の電子メールとかラインとかはサーバー・クライアントシステムであって、全部の情報がサーバー運営会社を通過している。だから巨額の利益を生むのである。いまここで述べるのはそういった通常のメイルとかではない。純粋にサーバ不要な情報のやり取りである。
 そういうのを P2P と呼ぶ。 P はピアという英語の頭文字だ。パーソン(人)の頭文字と理解してもいいだろう。P からP へと直接に情報を伝達するので P2P という。直感的にわかりやすいサーバー・クライアント型と比較してちょっとわかりにくい。技術的にも難しい。すくなくとも現時点では難しい。一般人はなかなか使えない。でも P2P はだんだんと拡まっている。ビットコインなどの仮想通貨。ファイル交換ソフト、セキュアなチャットなどがこれだ。その世界にサーバーは存在しない。サーヴィスを提供する人と受け取る人という非対称関係が存在しないのである。サーバがないから、特定の人または会社に個人情報が集中蓄積する現象が起きない。
 突飛かもしれないが P2P は現実世界の現金取引と似ている。お店で、または友達とお金のやり取りをする。これにはコンピュータ世界のサーバに相当する組織が存在しない。紙幣や硬貨は、サーバーのような中央管理組織なしに個人間を自由に流通して経済を滑らかに動かしている。
 これに対して、クレジットカード、銀行、交通系IC カード、なんとかペイ を利用する買い物をサーバー・クライアント型に比喩できるだろう。いづれにもそのお金のやりとり体型を集中的に管理する中央統制型組織の会社が存在する。クレジットカード会社やなんとかペイの運営会社である。このシステムでは情報の顕著な非対称がうまれる。運営会社は顧客の情報のすべてを知っている。顧客はなんにも知らない。この非対称が運営会社へ巨額の利潤をもたらすのである。
 IT 系の経済雑誌の記事は現金取引を時代遅れだとか口を極めて散々に貶す。ふつうのひとびとに現金取引をやめさせたいからだろう。一人でも多くの人が現金取引からサーバー・クライアント型取引に移行してくれたら儲けが増えるのだから。ただし一般人は少々の便利さと引き換えに自由と独立を自ら捨てている事実を認識せずばなるまい。

薬食

 興味深い経験をした。食品と健康についてのことで。
 必要だが人体に必須でない重要なアミノ酸を含む市販の健康食品について私はひらめいた。必須でない、とはそのアミノ酸は人体の中で作れるので、必ずしも食事から摂取する必要はないという意味である。その物質自体は人が生きていゆくために絶対必要だ。しかし仮に外からまったく摂取しなくても人体内部で生産できるのでなんとかなるという意味である。
 その物質とはグルタミン酸のことである。単純でありふれたアミノ酸である。多くの食品が含んでいる。例えば昆布の旨味成分とか納豆のネバネバ成分とかだ。
 グルタミン酸は興奮性神経伝達物質である。平たく言えばそれは脳神経の活動を活発にする。
 ただし何でも多く摂りすぎては害があるもので、グルタミン酸を過剰に摂取すると神経過敏になる。アメリカでむかし、東洋系以外のアメリカ人たちが中華料理を食べたあと、そこに含まれる大量のグルタミン酸のせいで泡を吹いて倒れたりした。中華料理シンドロームなどと言われた。興奮性神経伝達物資であるからドーパミンやノルエピネフリンと似た作用をするのだ。そこへいくと私たち東洋人の伝統的食事はグルタミン酸の含有量が多いので、私たちは幼少時からグルタミン酸に慣れていて、ほかの文化の人たちよりグルタミン酸の害に耐えられる。
 しかしそれにも限度がある。体内で生成するほかに、多くの食品と調味料と、食品添加物から、私たちはグルタミン酸を摂取している。ラーメンには大量に入っている。お店で加工食品の成分表シールを読むと「アミノ酸等」と書かれてある商品が多いだろう。それはたいがいグルタミン酸のことである。グルタミン酸を添加すると旨味が出て美味しいのである。グルタミン酸以外のアミノ酸も少々使っているから「アミノ酸等」と表示してある。これは合法である。
 このように私たちは必要以上にグルタミン酸を摂っている。そのうえに健康食品サプリメントからグルタミン酸を摂ったらどうなるだろう。平気な人は平気だろう。グルタミン酸は栄養素なのだから。代謝されて、例えば心を穏やかにさせる作用があるギャバという物質に変化する。不要なグルタミン酸は排泄される。だが世の中には体内に入れたグルタミン酸を上手に代謝できない人もいるのだ。その人がそれを知らずにグルタミン酸が大量に入っているサプリメントをのんだら体内にグルタミン酸がどんどん貯留してしまう。興奮性物質が貯まる。すると神経がたかぶってイライラして眠れなくなったり怒りっぽくなったりするはずだ。
 せんだって雑談の中で友人の医者にこのことを話した。かれは優秀な医師で、患者の話の聞き上手。さらに思考が柔軟である。医師に珍しいタイプだ。わたしはてっきりかれがこの話に肯定的反応をすると思った。
 ところが懐疑的反応だった。「たかがサプリメントでねえ? そんな作用をするかなあ。」と。かれとは価値観が合うつもりだった。
 憮然として私は帰宅した。でも数日して「ああそうか」「そういうことか」と気づいた。かれは六年間も西洋医学をしっかりと学んだ人だからなんだ。彼としたらあたりまえの反応なのだ。
 西洋医学の根底にはクリスト教がある。

 クリスト教は知恵ある人間と知恵なき生物(並びに無生物)を厳格に峻別する。絶対者にして創造主である神が自分に似せて人間を創り、人間にために人以外の生物と無生物を創造したとクリスト教は語る。人と人以外の間には質を異にする上下関係があるのである。その影響下に発達した西洋医学は知恵ある人間が製造した医薬品と、知恵なき生物である生薬等を峻別するのだ。当然のことながら、医薬品が上位で、自然物が下位である。こういう厳格な秩序を西洋医学は基礎としている。まじめに医学部で学んできたかれはその価値観を常識として身につけた。かれは本人も知らぬ間にクリスト教を身につけたと言ってもいいだろう。
 東洋流の薬食同源思想を身体化している私の思考法はかれとかなり違うわけだ。
 それに私は仏教徒である。佛教の縁起説、一切衆生悉有平等を身体に信知している。佛教に創造思想はなく創造主もいない。人も馬も虎も植物も魚も昆虫も、数え切れないほど多数の因と縁がこの一瞬たまたま集合して現れているだけ。一切の命は等しいと佛教はとらえる。
 ゆえに私は厚生労働省認可の西洋薬も、漢方薬も、薬草も、日々の食事内容も同列に視るのだ。どれも平等な命だからだ。わたしから視ればそれらに区別はない。体に影響を与える(であろう)物質は同一視点で効能や善悪を判断する。だから食品やサプリメントからグルタミン酸を過剰摂取した場合の悪影響についてかんがえたのだ。
 しかしこうした非クリスト教発想は西洋医学を真剣に学んだかれに通じにくかった。どちらが優れているとか劣っているとかではない。通じにくいということなのである

壜のなかで

ぼくがすきなことを世の中の人はみんな嫌う。
世の中の人が好きなことにぼくは興味をもてない。
 幼い時から自分の嗜好がずれているらしいことに気づいてはいた。ぼくが好きなことに人は興味を示さない。そして人が好きなことにぼくは興味がない。
 小学生のとき図書室の本を読むのが大好きになった。三年生くらいのとき世界地理のシリーズに魅かれ全册読了した。アフリカと南米の巻がとくに好きで何回か読み返した。今もアフリカの本が好きだ。つぎに歴史の本が好きになり日本歴史シリーズをこれまた全巻読み通した。その次は古文(日本語古典)が好きになった。六年のときだったかとおもう。平家物語の出だしの有名なところをすっかり暗記してしまった。今でも暗誦できる。
 おなじころインヴェーダーゲイムが流行した。家庭用ヴィデオゲイム機も世の中に出た。同級生はこれに夢中だった。だがどんなに努力してもぼくは興味をもてなかった。やらなければ仲間はずれだから一所懸命努力はした。同級生のを借りてやってみたけれどただただ苦痛だった。私はいまだにコムピュータ・ゲイムの類が苦手だ。家でも外でもいっさいしない。またパチンコ店とゲイムセンターに入ることもない。音と匂いと煙と。刺激が強すぎて苦しい。私にとって快楽は一切ない。ただ苦しい場所。難行苦行なのである。新宿渋谷にも用がない限りは行かない。やはり刺激が強すぎる。あそこでは息ができない。
 こどものころぼくはテレビがない環境で育った。それでも学校に行って友達の話題がわからないこと以外に辛いと思ったことがなかった。がんらいテレビ番組に興味がなかったからだ。そんなわけで現在もテレビを持っていない。旅先の宿屋でたまにテレビをつけるととても疲れる。テレビ視聴とは案外に体力を使う仕事なのだなとおもう。
 味覚の嗜好だってぼくは孤独なようだ。コンビニエンスストアの食べ物のほとんどが苦手。とくに弁当を食べるときまって食後に気分が悪くなる。吐瀉しそうになる。でもごく稀なのだが、美味しいと感じるジュースが棚に並ぶことがあって、珍しいことだから嬉しくなって日に二度も三度もそれを買って飲む。ところが半月もしないうちにその商品が棚から消えてしまう。いつもそうだ。おそらく売れなかったのだろう。シビアな業界だから売れない商品はたちまち棚から消える。そういうことがあるたびに、ぼくが好きな食べ物は世の中の人には人気がないのだと、いやでも気づかされる。
 そもそもぼくは肉が嫌いなのだ。世の中の人は肉が好きらしい。ぼくのばあい菜食主義のような主義思想でなくて単純に美味しいと思えないから食べないのである。そのせいでぼくは若い頃から深刻なタンパク質不足だったらしい。中学生の時から白髪があった。二七歳で急に増え三〇歳のころに頭髪が真っ白になった。三三歳のときにはバスの中で親切な女子高生に席を譲られた。なんと若い老人だろう。げんざいは健康のためにクスリだと思って肉を食べるように気をつけている。だがどうしても不味いから、辛抱してエイっと呑み干すように嚥下するのだ。ぼくにとっては芋と野菜のほうがはるかに美味しいのだ。だが世の中の人は芋を嫌い肉を食す。
 このごろ電車のなかの化粧が減った気がする。ちょっと前の時代、若い女性がさかんに電車内でメイクするのをみて、じぶんの顔をみて怖くないのかな、とぼくは感心したものだ。皮肉や毒舌のつもりではない。ぼくが鏡恐怖症で鏡のなかの自分をみることができないのでそうおもったのだ。ぼくは鏡と写真が恐い。写真に撮影されるのがこわい。カメラを向けられるのは、ぼくにとってピストルの銃口を突きつけられるのと同じだ。死にそうなほど恐いのだ。呼吸が止まり体が硬直して冷や汗が出てしまう。ぼくのスナップ写真のなかでいちばん最近のものは二〇世紀に撮影したものである。そのとき交際していた女性が写真好き鏡好きで、ぼくに鏡を突きつけたりふたりのスナップ写真をしきりに撮りたがった。苦手だからやめてほしいと頼んだつもりだが聞いてもらえなかった。もし結婚していたらぼくにとってホラー映画のような恐怖が続いただろう。そうして彼女はつまらない男と一緒になったと後悔しただろう。二一世紀に入ってからは一度も写真を撮影されたことがない、警察の運転免許証を例外として。
 デパートはなぜ店内を鏡だらけにしたがるのだろう。あれのせいでぼくはデパートに入れない。せっぱ詰まった買い物のため入るしか選択肢が無いときは常にデパートの床を見て歩く。真っ直ぐ前を向いて歩いたりしたらどこに鏡が出現するかわからない。危ない危ない。不意の鏡出現とはぼくにとって通り魔に襲われることなのだ。息が止まり身体がフリーズしてしまう。それから何日もつづく心理トラウマに苦しめられる。
 それなのに世の中に人は鏡と写真が大好きらしい。なんとしても理解できないことである。自撮りはぼくにとって自殺と同義語である。自閉症者はいっぱんに身体接触を恐怖する。握手するとか肩をたたかれるだけでも息がつまり、死にそうになるそうだ。ぼくのばあい触られるのは何でもない。平気である。しかしその恐怖はぼくにとっての鏡と写真に相当するのだろう。そう考えると自閉症者の恐怖心がわかる気がする。ただし少数ながらも写真に撮られることを恐怖に感じる同類の人はいるようだ。何年か前、ほのぼの系ソーシャルネットワーキングサイトを覗いたら、写真被撮影嫌いな人のグループがあった。女性が多いようだった。
 そのほか例を挙げればきりがない。第一にぼくは左利きだ。いつのまにか右手も使えるようになってしまったが左利きだ。ぼくはクルマに乗らない。歩いて移動するほうが便利だから。
 幼少の時「右手で箸を使え、右手で字を書け」と矯正されて以来、僕は正常と違うと直されつづけた。多くの親切な人がぼくの前に現れては、「普通の人は」テレビが好きなものだ、「普通は」アニメとマンガが好きな物だお前は正常でない、「普通の人は」バイクとクルマに夢中になるものだ、とぼくを「ノーマル」にしようとした。そのどれにも感化されなかったぼくはとうとう十代にして「狂っている」ことにされてしまった。精神障害の初期ということにされてしまった。ぼくは.ぼくがぼくであることを否定されて育った。もしも世の中の多数者の趣味と嗜好が正しいとすれば、あらゆる少数者はみんな狂人にされてしまうだろうとぼくは感じた。
 人の災難構わずカネ儲けに狂奔するkとが「正常」ならば、私は一生涯「狂っていよう」。
 おとなになってからわたしはそう決めた。
 本を出した時ぼくは一冊も売れないだろうとおもった。
 こういう人間、嗜好が世の中の人とさかさまの人間が書いた本である。売れるはずがない。だから海に流す瓶のつもりだった。ガラス瓶に封入した消息を大洋に流す。いつかだれかがひろって読んでくれるかもしれない。読まれないまま消えるかもしれない。それもいいとおもっていた。

  東へ西へ

 うまれつき地理に強い。初めての土地でも東西南北の方角がだいたいわかる。星月がない夜ですら直感的にわかる。幼児の時からそうだった。
 その代わり小学校三年生になっても右左がわからなかった。右も左もわからない、という表現があるが本当に右も左もわからない子だった。東西南北は絶対基準であるから幼児でもわかりやすかったのだ。誰にとっても、だれがどちらを向いても東は東である。しかるに左右という相対基準はわかりにくかった。私の「右」が私と向かい合う人にとっては「左」。私がくるっと回れ右するとそれまで「右」だった方向があっという間に「左」に変わってしまう。実に理解し難かった。
 だが三年生のとき地下鉄車内でふとわかったのだ。そのときなぜか右手に腕時計をしていた。私がどの方向を向いても時計をしている手の方向が右なのだ。同じように他人にとってもその人がどこをむこうともその人の右の手の方向が右なのだ。一〇歳間近にして私はようやく右と左を理解できた。
 ところで方向感覚が鋭いとは裏を返せば地理環境の変化に弱いということである。かつて新潟県に住んだときこのことを身にしみて知った。私は太平洋側育ちである。山と太陽は相い対するのが当たり前の世界で育った。そこでは山が北側に存在し、太陽は南側の空に浮かぶ。川はあたかも太陽を慕うかのように、北から南へ流れる。それが私にとって当たり前の世界であった。しかし越後の国では基本的に山と太陽が同じ方角に存在する。自分より南に山があり、太陽が山越しに登り沈むのである。そして川が太陽の方から流れ出て太陽方向から離れるように流れ下る。まさにあべこべの世界で、数ヶ月住んだものの最後まで慣れることができなかった。
 おなじ理由で私は城下町の地理に弱い。あれは男の兵隊の地理感覚を狂わすよう町割りしてあるのだろう。街区全体を真北よりややずらして設計し、細かい道路をやたらにくねくね曲がらせる。城下町を歩くと、何度も体を曲がらされて方向感覚がわからなくなる。
 私はあたかも鳥になったかのように空高い視点から地理を把握するのだ。そして例えば目的地が北東方角だから、あっちへ行けば良い、と判断して進む。しかし城下町の狭い道路は私の身体を何度も何度も曲がらせる。やがて私は方向感覚を失い、どちらへ行けば良いかわからなく、途方に暮れる。
 むかし交際していた女性が極端な方向音痴であった。彼女を観察して、私と根本的に違う地理把握をしていることがわかった。結論を言うと彼女は徹底的に具体的事物を基準に世界を把握していた。何という名前のお店がある交差点を左の手の方へ曲がる、という具合だ。「左」という抽象観念は彼女の中になく、左の手の方向へ曲がる、とあくまで具体的事物を記憶して判断していた。彼女は城下町に強かった。そもそも方向音痴なので方角を狂わされることがないのだ。いつも道案内役の私が城下町では案内してもらった。また地理環境の変化にも強かった。けれどもこの方法にも欠点があった。よく知っている土地しか一人で行けないことと、目印にしている店舗が閉店し建物ごと消えたりしたら彼女は困るのであった。
 私は道路付近の具体的事物を見ない。目には入っているが意識に上がらないのである。その代わり脳だけが空中にひらひらと舞い上がり、あたりをヴァーチャルに俯瞰して地理を把握する。私がとくに強いのは京都と札幌と古代条里制の名残がある各地の碁盤の目状の小都市である。北へ二本上がり東へ一本入る、というふうに論理的に明解だからだ。
 かように方向感覚に強いのだが、具体的なモノが意識内に存在しないため、城下町で迷うように、いったん方向感覚を喪失するとどうしうようもなくなるのである。

ひねもす

 しばらく前のことだが中国人労働者と一緒に働いたときの休憩時間に「あなたの名前はとても良い。大金持ちの名前だ」とたいそう褒められた。それまで自分で気づいたことがまったくなかったのだが、かんがえてみると、姓が「金が湧く井」戸であって、名は隆だかと久しく、だ。なるほど金の井戸が隆々とし久しければ大金持ちだろう。そのときは、「そんな偉い人がどうしてこんなに給料が安い仕事をしているんだい?」と私が返答して大笑いになった。わが苗字は金が湧くのでなくて、カネが吸い込まれるほうの井戸なのだろう。
 笑い話はそれとして、わたしの名は祖父と曽祖父の名から一字とって繋げただけの安直なものだ。苗字は当然ながら先祖代々である。私の世代とその上の世代には「たか」とか「たかし」名が多い。私の恩師のお名前もそうだった。また「隆」を使う名前の人も比較的に多い。二世代年上の人だが作詞家の松本隆とか。
 そういうところからとらえると私の名前は平凡である。平凡な名を漢字の本家本元の人が虚心坦懐に見るときっと大富豪になるラッキーな文字ということらしかった。
 わたしは中国語会話ができない。習ったこともない。しかし読み書きはかなりわかる。生来漢字好きで子供自分から漢籍に親しんだことと、成人後に仏典を読み込んだからである。黴が生えた大昔の言葉のようにおもわれがちだが仏典に頻出する言葉が意外と現代中国語でも使われることがあるのだ。言葉はよく変わると同時になかなか変化しないものでもある。
 ところで中国語を正式に学習した経験がない私が外国語である中国語を読み書きできることは考えてみると驚天動地のことだろう。漢字文化圏以外の世界中の人がこの事実を理解しないに違いない。
 民族と文化を超えた共通言語としてはほかにアラビア語とラテン語がある。だが学習せずにいつのまにかラテン語ができるようになった人はおるまい。漢字文化の驚くべきところは、会話ができなくても文章語がわかる点である。ふつうは逆だ。どの言語においても会話はできるが読み書きはできない人がいっぱいいる。そのほうが言語の常識なのである。
 かようにすぐれた文化だとおもうのだが、いつしか漢字文化圏は縮小してしまった。朝鮮半島の国々とベトナムが離脱していまや日中二カ国だけである。もっともその両国で面積人口とも世界のかなりおおきな位置を占めるが、このごろは筆談をする機会もめっきり減った。日本人はいうまでもないが、中国人自身も古典中国語教養が薄くなったようだ。それに外見がほとんど同じ私たち東アジア人が英語で話すことが増えてしまった。道を尋ねられるのも英語だったりする。
 この夏あまりに暑かったから外へ出るのがためらわれて、地下鉄日比谷駅構内で休んでいたら若い男性が近づいてきた。日本人だろうとおもった。しかし彼は英語で日比谷線のホームへの行き方を質問した。教えたら礼儀正しく英語で挨拶して彼は去った。秋になって麻布の大きなお寺の境内にあるトイレを借用した。用を済ませて出たところで、三〇歳くらいな女性に「その奥はトイレですか?どちらの方向がトイレですか?」と英語で訊かれた。私は単簡に「イエス、ライト」と応えた。
 この人はトイレに入る前に境内で見かけた人だ。その時は日本人か中国人かなと感じていた。すこしくさびしい気持ちもした。秋のはじめの暑い日だった。

冬扇

 人が自分と会うとぎこちなくなったり緊張しているふうだったりあわてたり、ともかく自分以外の人と会っている違う様子に接するこことは子ども自分からの常であり慣れているつもりではあるが、どんなにたくさん経験しても、その度にひとの目に自分がモンスターとして映じているらしいことを思い知らされ孤愁がいっそう深くなる。
 ときに自分を、皮も肉もなく骨で直接に世間と接しているかのように感じる。刺激が鋭敏すぎて痛い。世の中のいわゆる「ノーマル」な人たち(世間の多数派のひとたち)の野の獣のような猛々しいまでの鈍感さと図太さがうらやましい。厚かましい強欲さがうらやましい。
 会った瞬間とまでは言わないが、会ってから遅くとも数分以内にその人の好悪の感情がわかってしまう。しかもこちらの存在によって相手の中に嫌いという感情が起こったと解釈してしまうのだ。周りの人を不快な気分にしてしまったと。責任を感じて胸が苦しい。一言も言葉を交わさなくともわかる。感じる。感じてしまう。それで人と会うことが怖い。
 孤児育ちのせいで他人の感情の動きに敏感なのかと思ってきた。孤児とは自分の存在が許されているか不安なものだ。自己肯定感に確信を持てない。どうしてももてない。人を愛すると人から嫌われる。嫌われるとは幼い孤児にとって「死」を意味する。
 肉親でない養育者の「愛」は醒め安く、いったん冷えたら元に戻ることはない。浮世の義理もしくは仕事で幼児のやっかいな世話をしてやっているだけなのだからその子が自分に向けがちな個人的好意は迷惑なだけ。義務または給料と引き換えに養育する人たちは幼児の愛着を無視するか拒否する。子どもたちは養育者を愛してはいけないのだ自分は愛されないし人を愛することを禁じられる人間なのだと学習する。養育者への愛着心を内面に抑圧し表面では無関心を装えば嫌われずに済むと学んでしまう。愛されることもない代わりに。
 こうして孤児育ちは感情を表面に現さない無表情な外見を身につけた大人になってしまう。その内面は愛を渇望しているのに。人を愛さなければ人から嫌われることはない、しかしパーソナルな好意感情をある特定の人に伝えたらその人はくるりと背を向け去ってしまう。その思い込みが心身を離れることは決してない。死ぬまでない。川端康成はいつも取りつく島もないような表情をしていて編集者を困惑させた。その痩身とともに鳥を思わせる表情であった。孤児育ちの哀しみが川端にそういう性格を作った。
 それでこうなのかと思っていた。だがもしかしたらそれはちがうのかもしれない。生まれつき、先天的に、言葉抜きに感じる能力を持っているのかもしれない。
 内面にとても豊穣な世界があるひとは、世間の浮薄な歓楽に興味を示さないものである。夜の街での飲み歩きも、コムピューターゲイムも、なにもかも内面世界の豊かさと比較にならない色褪せたつまらないものである。そういう人はその内面の悦びを増すことがなによりも楽しい。それは例えば本を読むことであったり、本を書くことであったり、絵や音楽をみることであったり、詩うことであったり、街や山を歩くことである。
 山を歩く。森の木樹が踊っている。川の水が喜びのあまり跳ねている。風を感じる。空を感じる。すべてがクリアだ。鳥たちと歌い、馬と話す。犬と遊び、猫に遊んでもらう。雲たちに語りかけ、星たちのかそけきささやきを聞く。刈られる草たちの痛みを感じる。それらがみな内面の豊穣世界をより豊かにしてくれる愉しい愉しい行為なのだ。
大地のうた
 人は大地の塵に似ていると思う
 風が吹き塵が踊る
 それらは休息なしで誕まれ
 やがて死にゆく
 人生は短い
 それは花が咲く春の夜の夢のようだ
 それは枯葉舞う秋の夕べの悲しみのようだ
 ゆえに生あるものは素晴らしい
 地球は永久に「塵」たちの生の舞台でありつづけるだろう
 世界は美しく生きることは楽しい

 だが困ったことに豊かな内面世界は生きてゆくためのお金を産んではくれない。むしろ現実生活のあしかせになる。
 事物から距離をとって遠くから眺めてみる思考法。それは混沌としたカオス状態の世界から規則性を発見する能力に富んでいる。意識的の努力して発見するのでなくしぜんに見えてしまうからである。うまれつきの能力なのである。この天才的能力を反対側から見れば、「森を見て木を見ない」ことであり、人間集団から自分自身を離脱させる癖がうまれつきあるために、常なる孤立傾向を生じる。全体を大つかみできる代わりに個々の事物と人物が見えない。いわゆる「浮世離れした人間」「夢見る人」になりがちだ。このタイプの人であった故ジョン・レノンは、ぼくを夢見る人と言ってもいいよ、でもぼくはひとりぼっちじゃないんだ。」と歌っていた。彼は寂しがりだった。
 創意工夫と独学に適いており、人から教わることができない。自分のやり方を通そうとする。じっさい教わるより、自分なりにこしらえた方法でするほうがえてして能率がいいのだ。しかしそれを社会と会社は許可してくれない。宮仕えは牢獄労働に等しいのだ。
 太宰の『人間失格』ではないが、苦悩の塊を十個ほども背負っていて、その一つでも隣人が背負ったらその人の命取りになるのではなかろうかとおもうことさえある。
 ゆえにどんな仕事も長続きせず、ゆえに貧乏つづきである。家が欲しいとかクルマと宝石が欲しいとか海外旅行と美食がしたいとか、名誉と名声と威信と権力が欲しいとか、人並みの欲望があればつらい「苦行」に耐えることも可能かもしれない。
 あいにく欲しいものがないのである。家もクルマもいらない。なにも欲しいと思わない。人を踏みつける権力は最も要らないものだ。それよりずっと裕かで寛やかな世界をしっているからだ。政府と産業界が休むことなく人びとの欲望を煽りたてる。あれはこうした人物にとっては強迫以外の何でもない。拷問に近い。
 食事さえ面倒なやっかい事とおもう。腹が減って辛いから仕方なく食べるだけである。こんな肉体が付着しているから、食べさせたり排泄させたりさまざまなケアをしてやらなければならない。なんてめんどうな物があるのだろう、体さえなければごはんを食べなくても済むのに。何遍嘆いたことか。
 世の中には需要供給の経済法則がぜんぜんあてはまらない人物も実在するのである。それは社会の多数者でないけれども極端な少数者でもない。各人の欲望伸長が市場という「見えざる手」の自動調節機能を経て最善の世界をもたらすと説く俗耳に入りやすい「自称経済学」のまやかしを人は認識しなければいけない。もしそれをしなかったら人類は滅亡するだろう。地球環境を破滅させて滅びるであろう。
 拙著『ドンキホーテたち』の主題がこれである。『モダンタイムズ』『教育と称するもの』『抑制装置としての宗教』もこのテーマをめぐる本である。
 世間というのは生き馬の眼を抜く世界ともいうが、了解不可能な暗黙の約束事で成り立っているものらしい。世の中とは天才の集まりなのだろうか。
 六法全書のように明らかなルールであれば理解できる。文字化されない暗黙のルールがわからない。ところが世の中のいわゆる「ノーマル」な人たちというのは、暗黙のルールならばそれはわかりきった常識だからわかるが、六法全書などという「非常識なもの」はわからないし大嫌いなのだそうだ。信じがたいことなのだが、世の中の自分を健康だと胸り、自分たちと違う人を異常だと決める人びとはその内面に豊かな世界をもっていないらしい。それではいったい何がたのしくて生きているのだろう?
 宇宙船からたったひとりぽつんと未知の惑星に降ろされた人のように自分を感じる。
 その惑星の生物の外見は地球人と同じで言葉も同じだ。言葉の上っ面の意味は分かる。だがその星の社会でのほんとうのルールがわからない。永遠にわからない。それでも生まれてしまったからには、命尽きるまで懸命に人を観察してはそのものまねをせざるを得ない。内面の豊かさを押し殺して演技せざるを得ない。それが地球という名のこの星で生きのびるための唯一の方法だから。
 自分はどこか違う。人と違う。そんな本能的な違和感を抱えつつ。
 冬の扇、 役たたず、要らないもの

淡雪

 自宅のインターネット接続環境を撤去した。いまのわが家に光回線もワイファイもない。そのまえにスマートフォンをインターネットに接続できないよう改造しておいた。電話をかけることと受けることしかできないようにしておいた。だからぼくの電話機は外見はスマートフォンだが実体はフィーチャーフォンである。
 そのうえで今回接続設備を撤去したから完全にインターネットなしの家になった。
 からだが軽くなった。こころが前より自由になった。
 ぼくは長いことコンピューターとインターネットを使わない生活をつづけていた。それが数年前に使う暮らしに変更したのは書き溜めてあった原稿を出版したいからだった。そうしてインターネットに浸かる生活を数年暮らしたら視力が危険な水準まで低下した。ぼくは視力を弱くした。この連載エッセイに誤字脱字が少なからずあるのはそのせいである。スクリーンとキーボードと原稿がぼんやりとしてしかみえなくなったのだ。いまや出版作業は一旦終了した。所期の目的を達成したのだからインターネットを離れようと決めた。視力を完全に喪失することが怖かったのだ。
 インターネットを使い始めてから視力の他に変化がたくさんあった。
 腰と股関節を中心に体全体が痛くなった。これはおそらく必要のないブラウジングを日に何時間もつづけたためだ。視力が弱いぼくは前かがみの不健康な姿勢を長時間とった。それで自分の上半身体重を支える腰と股関節に負担をかけすぎたのだ。インターネット接続設備を撤去した今春の淡雪のように身体の痛みが消えた。
 インターネットを使っていた頃ぼくは金使いが荒くなっていた。いまから考えればなぜあんな物を欲しがったのだろうと訝しむものを買っていた。
 インターネットを使い始めてからぼくは独善的な性格になり、しらずしらず他者を裁く人になっていた。じぶんはいつもすべて正しく他人は邪悪で狂っていると思いこんでいた。
 インターネットを使い始めてからぼくは怒りっぽくなった。よくいらいらしていた。不安感が増えていた。いつのまにかインターネットを使うのではなく、インターネットに使われていた。自分を失っていた。
 インターネットをやめたらこういう自分の姿がみえるようになった。インターネットは軽い麻薬のようだとぼくは思った。耽溺させる魅力と依存性をもっている。辞めておこりっぽさとイライラと不安が減った。やめてよかったとおもっている。
 ただしぼくはインターネット使用を止める意思はない。それは素晴らしい技術だ。たぶん死ぬまで使うだろう。
インターネットに使われることをやめたかったのである。殊にインターネット企業に使嗾されたくなかったのである。
もしぼくに強い意志力があれば、ネット接続環境を保持したままそれをすることができただろう。だが残念ながらぼくは意志が弱い人間。ネットに簡単に接続できるかぎり、インターネット企業の餌食に成ってしまうだろう。かれらに使われて自分を喪失する暮らしを抜けられないだろう。
 そこで接続設備をぜんぶ捨てた。
 家にネットがなければ喫茶店などに移動して接続するしか無い。それは面倒だし制約もあるから、ときどきしかネット接続しないだろう。短時間しか画面を見つめることもないだろうから視力をこれ以上衰えさせることもあるまい。そう考えた。現在のところそのとおりになっている。コンピューターをワープロ専用機として使用し、書き溜めた原稿を喫茶店のワイファイにつないだラップトップでネット上に公開するのだ。
 かなり多くの人が気づいているようにスマートフォンやインターネットには麻薬に似た依存性がある。止めるとしばらく離脱症状に苦しめられるのだ。ぼくもときどきインターネット環境を再導入したい欲望に駆られる。春のなごり雪が降るように。だがあらかじめ想像したほどその欲求は強くない。インターネットがなくなってさっぱりしたすがすがしさのほうがずっと大きい。この爽やかさを手放したくないからインターネットとスマートフォンをふたたび使う気持ちにはなれない。


一九八〇円

 ネット企業の儲けのために使嗾せられることにうんざりし、インターネット接続環境撤去した後のことである。
 インターネットに使用されたくはないが、このワンダフルな技術を手放す気はない。いずれはなんらかの形態で接続環境を再構築したいと思っている。そのときはじぶんのサーヴァーを構築してサイト、ブログ、メール等々をネット企業を経由せず発信することだろう。だが当分の間は私にその技術力がないため、できない。しばらくは喫茶店のワイファイにつないで発信することになる。そこで中古ラップトップPCを一台買った。
 これまでわが家はデスクトップ型しかなかった。その理由は視力が弱いので大きい画面で見たかったことと、デスクトップ・コンピューターは修理が容易だからである。デスクトップの中古は五千円から買える。パソコンとは数千円で買えるものなのである。五年以上昔の中古で良いならば。そのような超低価格品だとなんらかの不都合があることもある(家に持ち帰ればすぐ使えるものもある)。不具合といってもたいしたことでなく、ほとんどの場合は、中の部品を一個か二個新品に取り替えてやれば問題なく使える程度のことである。部品は数百円か数千円ほどで買える。そういった修理をする際にデスクトップは断然簡単だ。そもそもそれを買った使用者が楽に蓋を開けて中身をメンテナンスしやすいように製造されているからだ。そこへいくとノート型は分解がしょうしょう難しくできている。だからわが家のコンピューターはデスクトップばかりだったのだ。ちなみに新品コムピューターを買ったことがない。いつも低価格中古品だ。
 なお修理といっても非常に簡単な作業である。ぼくは中学時代の数学の成績が零点で、文学は得意だが理科系技術系がまるでだめという人間だ。それでもデスクトップPCの組み立てと修理はできる。ドラーヴァーでネジを緩めたり締めたり、部品をぱちんとはめたりするするだけで、おもちゃの組み立てよりも簡単な作業だからだ。電気の知識がなくてもできる。現にぼくも電気がわからない。
 そこで今回はラップトップの中古を買った。NEC製で二〇〇八年九月に出荷されたもの。十一年半も昔の製品なのに使用感がないので目についた。傷がなく鍵盤に打鍵跡がほとんどない。中古品はたいていどこかの会社が使用していた物だが、このPCは何らかの事情で使用されないまま中古処分されたのではなかろうかと思った。値段は一九八〇円であった。税込み価格だったから正真正銘二千円以下パソコンだ。ハードディスクと呼ばれる情報記録部品が欠けた状態だったので ウィンドーズは入っていなかった。しかしこれはたいしして問題ではない。ぼくは この OS が苦手で使わないからだ。世の中には無料で使える高性能なオペレーティングソフトが多数ある。ウィンドウズ のような高価で性能が低くさまざまな制約があるソフトを買って使う義理はない。
 そこで購入したNECラップトップにリナックス OSの軽いのをインストールした。リナックスというのは世界中の有志技術者が開発しているオペレイティング・システムのソフト。無料で使うことができる。今回は日本語入力が必要なため日本人が開発しているリナックスをインストールした。家にインターネット環境がないから、外国製リナックスに日本語環境を導入する作業が不可能なためである。
 インストールは簡単に終了。再起動させたら非常に速く起動した。最新の ウィンドウズ pc と遜色ないスピードであった。キーボードに壊れたキーはなく全部のキーが正常に使えた。画面もきれいである。さらに驚いたことに付属バッテリーが使えた。まさか十二年前の電池装置が今だに生きているとは想わなかった。もちろんかなり弱っていて、電池だけで使用すると十五分ほどで切れてしまうが、ふいに電源を抜いてしまったばあいの保険としては充分だ。
 さてつぎにこの大昔のラップトップを近所の喫茶店に運びワイファイ接続させたら問題なく繋がった。
おもうのだが、ひとはなぜ数十万円もするPCを買うのだろう。
 一九八〇円のラップトップがこうしてなんら問題なく使えるのに。


 見分けかた

 国や市役所がおびただしい数の制度をしています。その中に、わたしたち一般庶民が必ず参加しなければいけない義務制のものと、希望者だけ参加する自主参加制のものがあります。紛らわしいことに、法律では希望する人だけ参加すればいいことになっているのに、あたかも義務制度みたいな感じに見える制度もあります。
 その制度が義務なのか、そうでないのか。法律音痴な人でもかんたんに見分けられる方法があります。それはその制度に手数料がかかるかどうかです。
 かんたんな例を挙げます。
 運転免許をとるために、そして取ってから更新するために、数千円くらいの手数料を警察署に支払います。これは運転免許が義務制でないからです。希望する人だけ参加する制度だから、希望者のほうが手数料を負担するのです。
 年金や社会保険、雇用保険は義務制です。全員加入が法律で決められています。そのため、手数料は役所が負担します。私たちは保険証の交付手数料などというものを支払いません。義務制だからです。
 このように、手数料をどちらが負担するのか。私たち庶民か政府かを見れば、その制度が義務か希望参加制かを判断できます。
 あたかも義務のように錯覚させられているマイナンバー制度が、ほんとうは希望者だけが自主的に参加する制度なこともこれで分かるでしょう。写真撮影料金とか、マイナンバー証明書の交付に必要な費用を私たち一般庶民が負担するからです。参加したい人が参加する制度だから、マイナンバーに加入しなくても罰はいっさいありません。それは警察の運転免許を取らなくても逮捕されないのといっしょです。


坐る

 お寺の法事で正座をしたため痺れて立てなくなった経験がある人もいるだろう。一般に静座とは、かしこまって苦しい姿勢だと思われている。正座をする文化は世界でも珍しく日本だけらしい。
 そんな正座であるが、わたしにとっては案外に楽に感じる姿勢で、家でときどき正座をしている。たとえばパソコン作業で疲れたときに椅子の上で正座するととても楽だ。写真編集をするときなどはたいがい椅子上の正座をする。ただし通常の人と同様、長時間の正座は苦痛だ。一〇分か十五分正座したらふつうの腰掛け方に戻す。
 佛教徒であるので勤行をする。宗門の規定では朝夕二回行うことになっているようだが、私は一日一回しかししない日が多い。一回のお勤め所要時間はだいたい三〇分。その間ずっと正座だ。ふしぎと痺れない。日常生活での正座は一五分が限界なのに、念佛読経ならば半時間正座して平気なのである。じぶんでもおもしろいと思う。
 怠けて二日くらい勤行しない日が続くことがある。だが三日以上怠けることはない。なぜかというと長い日数お勤めしない日が続くと、胸の上のあたりになにかかが詰まって塞がったようで苦しくなるからである。そんなとき佛壇前の座布団の上に正座し、勤行の初めの一声を発するやいなや胸の閉塞がすーと雲散霧消する。念佛しているとき、おそらく私の脳内に身体をリラックスさせるなんらかの神経伝達物質が分泌されるのであろう。快い。だからお勤めを何十年も辞めることがないのである。刻苦精励して辛い修行をつづけているのでないことは断言できる。楽しく快いからしているのである。
 お勤めは自分の健康状態のバロメーターになっている。声がよく出る日と出にくい日。体調が実によくわかる。最高に調子が良い日は自分の体が一本のシンプルな筒になったような気持ちがする。オーボエか尺八かクラリネットになったみたい。朗々と声が出る。実に快い。冬のお勤めは身体を温める。ぽかぽか暖かくなる。真夏のお勤めは少しく酷である。三五度もある日だと全身汗まみれとなり、目に入った汗が沁みて痛い。頭蓋骨の形のせいか、私の場合左目ばかりに汗が流れ込む。勤行後終了に立ち上がると、座布団にわが脚の形に汗の模様が描かれている。流れ落ちた全身の汗がそこに染み込んだ跡なのである。このように夏のお勤めは辛い面もあるのだが、済ませたあとに爽快な涼しさをかんじる。
洋の東西を問わず宗教家は長生きする職業の代表のように言われる。その秘訣はもしかしたら毎日のお勤めにあるのかもしれない。
 ところでむかし否かの電車内にのると、草履を脱いで腰掛けのうえにちんまり正座したおばあさんを見かけたものだ。ほのぼのするいい光景だった。 このごろはそういうご老人をみない。現在のご老体はロックンロールで育って世代だから正座などしないのだろうか。その代わりといってなんだが、初老の私が電車の座席上にときどき正座する。家の椅子上正座と同じでときどき正座すると楽なのである。


 山のおと

 ゆく夏を惜しむ、というけれども、ゆく冬を云々とは言わない。
 晩春、晩夏、晩秋という言葉はあるが、晩冬とはあまり言わないようだ。
 夏は暑苦しくつらい季節だけれど、嬉しく心躍る季節でもある。生命横溢する季節だからであろう。夏の終わりという言葉にぼくたちは深い寂寥を覚える。一年の終わりを感じる。
 そこへ行くとおなじく寒くて忍耐の季節である冬が去ることに愛惜を覚える人はいない。冬は早く去ってほしいばかりな嫌われもの。山眠る玄冬。葉が落ちた裸山。枯れ草残る河原。生命滅んだ厳しい冬に一輪の花咲くことを、蟲達の大地からの復を、かすかな春のきざしを人びとは心待ちする。
 わたしが個人的に新年の終わりを感じるのは毎年一月一日夜九時半である。新しい年が始まったばかりでもう終わりを感じるのは、早すぎると、自分でもおもうものの、習慣になってしまった。ラジオが中継放送するウィーン・フィルハーモニー管弦楽団ニューイヤー・コンサート終了時刻が日本時刻で夜九時半ころなのである。ここ一〇年ほどはすっかり聞かなくなってしまったが、以前は毎年楽しみにしていた。
 このコンサートの最後の二曲は毎年同じ曲だ。「美しく青きドナウ」「ラデツキー行進曲」この二曲。どちらも有名曲。「ドナウ」は優雅なワルツで「ラデツキー」は小太鼓が活躍する心弾むマーチだ。観客も手拍子で演奏に参加する。このマーチの最後の和音がタタン!と終わると
「ああこれで今年も終わったなあ」
と感慨にふけっていた。明るく楽しい曲だけにかえって「終わりの哀感」をおぼえた。
 十五年ほど昔だったか、ラジオをつけっぱなしにしていたら、ウィーン・フィル定期コンサート生放送が流れてきた。演奏者には悪いが出来を期待していなかったので掃除か何かをしながら、ただ音を流しっぱなしにしていた。
 指揮者はリカルド・ムーティ。曲目はモーツァルト交響曲第四〇番ト短調。ウィーンのひとたちにしてみれば何千回演奏したかわからないほど慣れた曲である。作曲者はオーケストラと同じオーストリア人でウィーンに住んでいた。指揮者はイタリア人のベテラン。オーケストラ音楽演奏の出来は指揮者の力量次第だ。ふしぎなことに平凡指揮者がふれば睡眠薬の代わりになるつまらない音楽が、大芸術が振ると魂いの奥底を震撼させられるほどの素晴らしい音楽が同一のオーケストラから出てくる。
 若い頃のムーティはつまらない音楽をやっていた。彼の音楽で感動したことなどなかった。その外見、映画「ゴッドファーザー」にそのまま出演できそうなオイリーヘアの伊達男ぶりからも到底芸術家と言えるタイプの男ではないと感じていた。
 だがその夜の演奏は違っていたのである。
 第一楽章の途中から私はラジオのスピーカーに釘付けにされてしまった。流麗にして堅牢。むだな音が一音もなく引き締まり、弦楽器はモーツアルトのうたを歌い、管楽器が作曲者の悲しみを奏でた。このように素晴らしいモーツアルト演奏はめったに聴けるものではない。もしかしたらわが生涯最高のモーツアルト体験かもしれない。無上の音楽であった。
 長く短い三〇分がすぎ、曲の最後の和音が鳴り終えた。数秒の沈黙のあと楽友協会ホールを揺るがすほどの大きな拍手がおきた。いつもの儀礼的な拍手とはまったく違っていた。ありがとう最高のモーツアルトをありがとうと観客全員が感動していることがありありとわかった。私は嬉しかった。みんなわかるのだ。あのホールの人たちもわたしとおなじく至高のモーツァルト演奏に感動していた。感動を共有していた。わたしもその場所にいる思いだった。
 拍手はえんえんと十分近くもつづいただろうか。いったん楽屋へ引っ込んだ指揮者ムーティは二回も三回も舞台上に引っ張り出された。そんな解説はなかったが、われんばかりの盛大な拍手でそれとわかった。 冬おわる早春の日であった。


薬指からの消息

 一般に男性の指は薬指が長い。人差し指より長い。女性は薬指が短く人差し指のほうが長い。もちろん例外はたくさんいる。
 二〇年以上前に通信制大学で神経科学(ニューロサイエンス)を学んだ際に覚えた知識の一部だ。この学問分野は知識進歩が著しく、日進月歩どころか「秒進分歩」であるから、現在ははるかに進んでいるだろう。でも私は二〇年前の知識しか無いのでそれにしたがって書いてみよう。
 男女の遺伝子レヴェルでの性別は受精のときに決定する。性染色体がXXなら女性、XYなら男性だ。ただし胎児は全員女性の体だ。遺伝子性別が男性であっても女性の体をしている。哺乳類動物はみんな女性(メス)の体からその生涯をはじめるのである。妊娠何ヶ月目からだったかあいにく知識を忘れてしまったが、男の胎児はあるときから男性ホルモンの分泌が盛んになり、それが彼の体と脳を男性型に変化させる。一方で女の胎児は男性ホルモンが少ししか分泌されないので女性の体と女性型脳のまま出生することになる。
 理論的には簡単であるが成長過程は複雑なようで、男の胎児であっても男性ホルモンの作用をたっぷり受けて出生した人と、やや少ない影響だけ受けて生まれる人がある。女児も同様に母胎内で何らかの事情で男性ホルモンをたくさん浴びて成長した児もいる。それで女性っぽい男性もいれば、男っぽい女もいるわけで、いろいろな人がいるから世の中おもしろい。ちなみに男の胎児の脳に男性ホルモンが作用せず女性型脳のまま出生すると、遺伝子の性別とその人が感じる性がずれてしまう。その人の遺伝子はXYであり男性であり周囲の人が男の子として育てるが、本人は自分が女のような気がして仕方なく、ずれにくるしめられる。
 子宮内で男性ホルモンが胎児に作用すると、薬指がながく伸長するらしい。男児も女児も。
 私自身の手は小さく指も全体に短く、われながら中学生の女の子のようだとおもう。それでも左右両方とも薬指がながい男性形の手をしている。何人か頼んで見せてもらった女性の指は全員人差し指が薬指よりも長かった。みんな女性型の指だった。
 そこでちょっと思いついたのであるが、世の中で女性が多い職業と男性が多い職業がある。極端に男性が多い職業、例えば職業政治家になった女性の指は人差し指が長い女性型だろうか。それとも薬指が長い男性型をしているだろうか。政治は闘争の世界だ。どんなに素晴らしい理想を抱いても、権力を握らねば実現できない。権力者となるためには同業政治家を冷酷に蹴落とす必要がある。擬似的戦争の世界である。こういう世界に志願する女性はもしかしたら胎児のときに通常の女性より多くの男性ホルモンを浴びて成長した可能性があるのではないか。男性型にちかい脳の構造をしているのであるまいか。それを簡便に知るには指の長さを見れば良いわけだ。
 政治以外にもスポーツ選手とか囲碁将棋のプロ棋士の指の長さを調べたら面白いかもしれない。
 囲碁というのは「陣取りゲイム」で盤上の土地を一目でも多く取ったほうが勝つ競技。その意味で純粋な数学ゲイムに近い性格がある。囲碁の世界では女性棋士が男性と互角に活躍している。人数的にはまだまだ男性の棋士が多いが。
 そこへ行くと将棋は明らかに「戦争ゲイム」だ。敵味方の駒同士をぶつけて、敵将を討ち取ったほうが勝ち。そのためなのか将棋界の女性棋士のなかで恒常的に男性棋士と互角に勝負できる実力の人は今のところ存在しない。一時的に男性を凌駕する女性はいるのだが。勝負の世界ではいっとき強いだけでは生き残れない。そのため現在のところは女性プロ棋士がいないのである。
 それに一般人でも囲碁好き女性はそこそこいるのに、女性将棋ファンは少ない印象だ。もしかしたら将棋界の女性棋士もまた政治家女性と同様に胎児のときに男性ホルモンをたくさん浴びて育った人かもしれない。そういえば痩身で全体的に脂肪が薄い体型の女性が多い気がする。そんな仮説をたてて研究してみたら面白いかもしれぬ。
 つれづれにそんなことを考えつつ昔の将棋雑誌をぱらぱらとめくったみたら、指の長さがはっきり見える状態で写された清水市代さん(強豪女性将棋棋士)の写真があった。彼女の指は薬指が長かった。人差し指より薬指が長い男性型の指だった。
 たった一例を一般化してはいけない。清水さんだけ男性型だっただけかもしれないから。


学而

 遺伝学の分野で有名なメンデルの法則。
 発見者は中央ヨーロッパの無名のキリスト教修道士メンデルである。ただしメンデル没後にメンデルの業績どころかその存在さえ知らなかったと推測されるフランスの生物学者がメンデルとほぼ同様の実験をし、同じ法則を発見した。彼の他にもメンデルを知らないメンデルの法則発見者がいたらしい。
 メンデル修道士は学会で無名の人だった。そもそも学者でなかった。かれは発見した法則を論文にまとめ学会へ提出したものの黙殺されてしまった。彼の論文はなにかの書類の下敷きにされて、学会が体裁よくよく仕舞いなくした格好だった。
 メンデルは家が貧しかったため教会の修道士になったそうで、信仰心は薄かったらしい。かれは日がな一日修道院の庭でえんどう豆を育てては交雑実験に夢中になっていた。外界から隔絶された修道院内で人に知られないまま生きて実験していた。学会に無名だったのも仕方ない。
 メンデル没後に独力でメンデルの法則を発見した生物学者は悔しかったに違いない。
 だが自分の研究や着眼点が実は昔の学者がすでにやっていたものと同じだったということは研究の世界ではとてもよくあることなのだ。すこしも珍しくない。膨大な量の研究の積み重ねがあるし、人の発想は極端には違わないものである。よく言われることなのだが、もしもアインシュタインが相対性理論を二〇世紀初頭に発表しなかったとしても、おそらく別の学者がそれを発見していたはずである。一七世紀にアイザック・ニュートンが存在しなくても別の人が万有引力の法則を発見しただろう。
 私自身「これは絶対に独創に違いない」と確信できるアイディアがひらめいて、念の為国会図書館で過去の研究成果を調べたら、ほぼ同様の研究論文がみつかり、がっかりした経験が複数回あった。
 子供の時から地図が好きだったから、中学二年生ころに、地図と地球儀を眺めていて、アフリカ西海岸の海岸線のラインと、南米大陸東海岸のラインの形が偶然と思えないほどそっくりであることに私は気づいた。両方を密着させると形が合う。もしかしたらはるかな大昔にはこの両大陸はぴったりくっついていたのではないか。漠然と思った。ヴェーゲナーの大陸移動説を知ったのがその数年後、たしか一七歳頃だった。
「我おもう、故に我あり。」の哲学テーゼを私は一五歳のときに独力で発見した。ルネ・デカルトなる男が四百年も前におなじことを言っていたことを知って、ひどく失望させられたのはその翌年一六歳のときであった。
 私はメンデル以上に学会に無名であるから、研究成果を提出したところで、トイレットペーパーの下敷きにされて消えるだろう。残念ながらそれが現実である。
「人知らずしてうらまず、また君子ならずや。」
 そんな心境にはとうていなれそうもない。


 秋刀魚の味

 ぼくは世の中の絶対的少数派左利きだ。あらゆることが右利きに便利なように作られている。ぼくの側から言わせてもらえば社会のなにからなにまであらゆることがぼくに不便なように作られているのだ。右利きの人は気づかないだろう。しかしながら、こんなものまでか、と唖然とするほど些末なことまで世の中は左利きを苦しめるようにできているのだ。毎日朝から晩まで使いづらい道具と右利き人間が発想したアイディアや社会制度になんとか苦労して順応する暮らしなのである。
お店の店員とかに左利きの人がいるとすぐピンと分かる。仲間意識を感じる。
 そのようなわけで左利きはいつのまにか右手もかなり使えるようになってしまうのだ。悲しいことに。ぼくは左右どちらの手でも字を書くことができる。ただし左手の書字はかなり下手だ。小学生時分「右手で字を書け」を執拗に矯正されたので、成人までずっと右手で字を書いた祟りである。箸もまた左右どちらも使える。普段の生活では左手に箸を持って食べている。結婚式等フォーマルな場所では右手を使う。左利き嫌いの人からの批判攻撃をあらかじめかわすためだ。平日のお昼休みの食事では、やむを得ず右手で箸を使うこともある。事情はこうである。何人か並んで食べる型式の食堂の場合、全員が右利きなら肘が当たらない。狭い食堂でもたぶん問題ないだろう。でもそこに左利きが一人入り込むと、ぼくの左手の肘と、左となりに座っている人の右肘がときどき衝突してしまう。気まずい事態を避けるため、空いていればぼくは最も左の席を選ぶ。そこなら肘が誰ともぶつからない。しかし昼時に好きな席を選べるチャンスなんかまず無いのだ。そこで妥協して右手で箸を使う。ぼくとしては左手じゃないとなんだか食べた気がしないのだが。
 むかし河原でバーベキューをやった。ぼくは好意的に誘われた。歓迎された。なぜならぼくは肉が嫌いで食べなかったからライバルにならないのだ。そのうえに下戸のためビールも飲まない。もっぱらナスとピーマンばかり食べていた、鈴虫じゃないが。食べるものも飲むものもなく、あまり面白くなかった。そこでそんなときはぼくの唯一の隠し芸である両手箸をやった。左右両方の手に箸を持って同時に使うのである。これは焼き魚を食するときだけは便利である。右手の箸で魚を抑え、左手の箸で骨をとるのだ。これをやってみせた時の全員の(左利きの人を除くが)驚嘆ぶりにぼくはかえって驚いてしまった。ぼくにとってはなんでもない芸当である。そして左利きに生まれたものの悲しい芸なのだが。
 話がすこしく変わるかもしれないがぼくは生まれつき数学の言葉がわからない。中学の時の数学のテストの成績が〇点だった。数学の本が黒白のただのインクのしみに見えてしまって、どうしても意味ある言葉として見えないのだ。現在もそうだ。でも数学が面白そうだなとはおもう。数学の言葉がわかったらきっと面白いだろうとおもう。そこで大人向けの「やさしい数学再入門」といった本を手にとったことが何回もあるのだが、どれもぼくにとっては難しすぎる。高校の数学の先生に質問したこともあった。その先生はできるかぎりわかりやすく説明してくれたのだが、遺憾なことにぼくにはちんぷんかんぷんであった。なんの道でもそうだが、熟達者は初心者がなぜわからないのかがわからない。子供向けのやさしい算数の本も読んでみた。猫ちゃんとクマさんとブタさんの絵がでてて、「りんご三個とみかん二個を足すと五なのだ、ぶー。」などとブタさんが言う本だ。ぼくの数学レベルには合っているのだが、さすがにやる気が失せた。
 このように壊滅的に数学の勉強ができなかったし、ぼくの生まれた家は一文無しだったから、中学二年の段階で高校へ進学しないことが決まっていた。勉強する必要がなかったので三年になった春から働きに出て学校にあまり行かなかった。学校に行って働かないと腹が減るが、行かずに働けばご飯を食べられたから。
 数学の生成器は〇点で下から一番だったが国語のテストは常に上から一位だった。学校に行かなくなっても国語だけは学年トップの点数だった。中学時代から現在に足るまでぼくの一番の趣味は読書である。若い時は一日に数冊読んでいた。今は二日で一冊くらいなペース。生涯で何万冊も読んだだろう。本のせいで視力を弱らせてしまったが後悔していない。本を媒介として古今東西の偉大な先人達と遇うことができた。
 ぼくのもっとも好きなことは学問だ。研究と考察と著述、それが何より楽しい。
 ぼくは学問の世界に入ってそこで生きたかった。大人になってから通信教育で大学を卒業し、学位を得た。そこでなんとかその世界に入りたいと努力した。けれどもどれほど自分の情熱をアピールしてみても、業績を提示してみても、冷たく門前払いされただけであった。どの大学も研究機関もぼくの応募に対し、あんたはお門違いだと言わんばかりの慇懃無礼な拒絶の短い返事を寄越すか、無視するかのどちらかであった。かれらの価値観では通信制大学などというのは学校の範疇に入らないものらしく、ぼくは中卒とみなされたようだった。彼らはぼくを冷嘲した。
 そうやって黙殺されつづけてぼくは老いてしまった。アカデミックな世界に行ける希望がないことを今は理解している。せめてぼくが(大金持ちでなくていいから)高校に行けるくらいのフツーの家に生まれていたら、今のようなひどい貧乏暮らしをしなくて済んでいただろう。なんどもなんども悔しさに暮れるのだ。学校に行きたかった。ぼくにとってはなんでもない芸当である。そして左利きに生まれたものの悲しい芸である。
 政府と政府を構成している上層階層の人びとは「競争」を強調する。だが貧民はそもそも競争なんかさせてもらえないのだ。すくなくともぼくの場合はそうだった。


雪あかり

 ヘリコプター・ペアレント、という言葉のニュースを聞いた。アメリカ合衆国のニュースだ。幼児ならいざ知らず、二十歳前後、ひどい場合は成人したいい大人のわが子をヘリコプターのように守りつづける親のことをそう呼ぶのだそうだ。そういう親はヘリがホバリングするように子供を保護し、子の人生の行く手の障害を取り除いてやるのだという。要するに子をだめにする超過保護親のこと。アメリカ人は奇抜な術語をつくり販売するのが好きだ。
 ニュース解説者は過保護だと非常に強く批判していた。でも聞いていたおれはうらやましかった。なぜならおれは親からなんにもしてもらえなかったからだ。そんな親が自分に居たら、と羨ましかった。私の親は子を守る力がなかった。なにしろおれが片手の人差し指一本でつついても倒れてしまうほど病弱な人だった。幼児の時のおれは知らない家と施設をたらい回しになった。餌と寝床を与えられただけだった。それ以外のなにも与えられなかった。物質的なものも、精神的なことも。親はいたけれどいないと同然だった。
 中学生の時は実の親と暮らした。そこに連れて行かれたのは冬の終わり、二月一三日の夜だった。寂しい駅を降り、寂しい道を歩いた。遠くの道路を走る自動車の寒いヘッドライトたちがおれの胸を刺した。一文無しのすっからかんなので、それから落語のなめくじ長屋のような小屋に暮らした。人が住む家とかろうじて言えるかどうか。家というより小屋だ。トイレはあったが、低地のため雨のたび雨水が流れ込み汚物があふれるので使えなかった。近くの家のトイレを借りたり、近くにあった中学校のを勝手に使ったりした。夜の学校のトイレはまさに真っ暗。気味が悪かった。鋭く澄んだ冬空に冴える星々の白い光ばかりが滲む両眼に映った。
 風呂がなかったので空き地に勝手に作った。風呂の周りに廃材の柱を建て塩化ビニールの側板を打ち付けた。屋根もつけた。しかし風が吹き、あっけなく吹き飛ばされた。以後は露天風呂状態であった。夏はともかく冬は寒風吹きすさぶ露天で裸になるのと同じ。よく凍えなかったものだ。
 家にはテレビさえわたしには無縁のことであった。なかった。家の内外の境界があいまいで夏には虫と蛇が自由に出入りしていた。タンスの上から太い蛇が落ちてきてびっくりした。そのころこの国は世界最強の経済大国だと浮かれていた。おれには無縁のことだった。
 中学に入っておれは野球がやりたかった。おれは左投げで制球がよく、そのころは足が速かったし、身体が小さく長打力はなかったものの、野手の隙間を抜くヒッティングが上手だった。左打ちだった。だが野球用具はあまりにも高価だった。正規の教科である体育授業用のスポーツウェアさえ買えなかったのだから、野球用具なんか買えるわけがなかった。バットもスパイクもグラブも。おれは野球を断念した。拾ったボールをひとり壁に向かってただ投げていた。
 同級生がすごいオーディオセットで音楽を聞かせてくれた。カセットに録ってもらって家の中古ラジカセで聞き直した。ラジオも聞いた。テレビがないものだから時間は有り余っており、本をたくさん読んだ。ところが天井に吊った電灯がたいそう暗かったためひどい近眼になってしまった。学校が終わってからよく町の小さな本屋に行った。やさしそうな爺さんとこわそうな婆さんがやっている古く埃っぽい店だった。本を買う金がないのでそこで読んでしまった。当時の文庫本は薄い本だと二百円以下だったかとおもう。それでも食べ物を買えない家の中学生にとっては大金なのだ。夏目漱石の小説に読みふけって、店じまい時間までそこにいる。読み終えたところにしおりを挟み小屋へ買える。翌日また行って前日のしおりのページから読むのである。兎小屋のように狭い書店だったから店主の爺さん婆さんはぜんぶお見通しだっただろう。だが一度も注意されたことがなかった。目印の栞を抜かれたこともなかった。一冊も買えなかったのに、何も言わずに読ませてくれた。みすぼらしい格好の子供を憐れんでくれたのだろうか。
 そんな俺にも好きな少女がいた。晩秋の放課後の教室で、斜めに射した黄金色の夕陽がその子の前髪を揺らし、ひろいおでこを照らし輝かせたとき、おれは恋に落ちた。同級生だった。きれいな声をした子だった。五月に行った修学旅行でその子の笑顔ばかりがおれの頭を占領した。若葉を透けてきらめく陽光も、寺も、佛像も目に入らなかった。女の子同士の仲良しグループの子の話によると、向こうもおれに行為を寄せてくれているらしく、おれの家を見に来たことが会ったあったらしい。それを知っておれは恐慌した。凍りついた。
 自分の中、心の奥底に強烈な劣等感が牢固として根を下ろしてしまっていたからだ。自分はフツーの人と違う、最低のさらにその下。身分が違う。そういう感じだった。その女の子の家は歩いて一五分だった。ある晩そっと行ってみた。二階建ての白い家だった。小さな庭があった。人間が住む家だ。楽しそうな明るい笑い声が聞こえた。カーテンの向こう、家族の団欒が暖かな明かりの影絵となってうっすら写った。
 両思いだったらしい少女と二人きりで話すチャンスがあったのに、その時のおれは劣等感のため口がカラカラに乾き舌が口の中に張りつき、一言も声を出せなかった。
 春のなごり雪が降った弥生初旬の未明、おれは早起きした。外を見たら雪あかりだった。夜明け前だというのに白く明るかった。静寂だった。おれの恋はおわった。その朝学校で高校合格を先生に報告している彼女の姿を見かけたのが最後だった。その後の消息は知らない。かねがないおれは高校に進まなかった。おれの初恋はおわった。
 その日の午後、次の街へ引っ越すため小屋を出た。白く静謐な世界を見てくれた雪はすっかり泥に汚れて路傍に積まれていた。塵埃と喧騒のまちをおれは去った。十五の心が濁った空の町に吸われた。
 大人になっても植えついた劣等意識が抜けなかった。いまも抜けない。

如月の光のなかで

 黄色な地下鉄の旧い電車が轟々と音をたてて走る。レールの継ぎ目を渡るときの振動と工場のような激しい機械音。闇が前部の車両からやってくる。
 さっきは二台前の車両が真っ暗になっていた。今は隣りの車だ。次は僕の車両が停電する。電車内の一瞬の暗闇の移動をいつも楽しみにしていた。
 中学三年生の二月。僕は家族と上野公園へやってきた。
 三月は花咲く季節だ。二月は光の春だ。
 上野の山への登り口の急な階段。杖にすがる母の肩をささえて上がった。
 動物園を見、安い食堂を見つけご飯を食べた。精一杯の贅沢だった。
 バッタ物を売る店で、母が水色のネクタイを職する僕に買ってくれた。安物でかっこ悪いデザインをしていた。
 早春の陽光が翳り山を降りた時、悲しげな微笑を痩せて眼窩がくぼんだ顔いっぱいにうかべて母が俺を見た。こんなに貧乏で何もしてやれない親でごめんねと言っているかのようだった。
 それがともかくも元気といえる体調の母と会った最後であった。

鏡と独創性

 深夜書いた恋文を朝に読み返したことがあるかい?
 ロマンティックかつセンティメンタルなわが駄文に、爽やかな朝の光のもとで対面してしまったときの、穴があったら入りたい気持ち。ポストへ投函する前に読み返して助かった、と。
 わかるひとはわかるだろう。
 どこかの雑誌で、「夜に書いた電子メールは、翌朝まで決して送信しないことにしている」と言う人の記事を読んだ。たしかアメリカ人だった。
 恋文に限らず、深夜は感情過多、装飾過多な文を書きやすい。誰かに怒りを感じたときなど、面と向かったときなら絶対言えないひどい表現で罵るだろう。だからその人は、夜には下書きだけを書き、昼間いったん眼を通してから送ることに決めているそうだ。
 とても賢い方法だとおもう。その方法に至るまで、その人は何度も痛い失敗を繰り返したのだろう。でも素面でいる時はいいとして、酒に酔った深夜はその決意を実行できるのだろうかと私は心配になった。酒のせいで抑制が解けている深夜には、怒りに任せて「送る」ボタンをクリックしてしまう危惧がおおいにあるやに思われる。二日酔いで痛む頭に苦しみながら、なんて文を送ってしまったのだ。取り返しがつかない。どうしようどうしようと後悔する翌朝が待っている。
 人は二面性がある。
 昼間の人は社会的動物として、世の中の鏡に映る自分を意識して行動する。世間を優先する。
 夜間の人は、その鏡をある程度忘れて自分自身に戻る。世間なんかどうでもいい。俺は俺だと思う。
 毎日二回、だれでもそれを繰り返して生きる。
 そのせいで、深夜に書いた手紙を昼間は恥ずかしくて読めないのだ。
 ところで「世の中の鏡」を意識しないほうが良い仕事ができる職業というのがある。
 芸術家である。絵でも音楽でも文学でも、自分を抑え、世間様を優先して書いたものなど毒にも薬にもならない。面白くも可笑しくもない。芸術として無価値である。そのほかに、哲学者や宗教家、学者・研究者、スポーツ選手、カリスマ的な政治家・実業家もこの種類に入るだろう。しっかりした自己主張と表現したい何かがあり、それについて誰になんと言われようど動じない絶対の自信がある人。こういう人の作品でないと鑑賞してもおもしろさがまったくないのである。
 自分より世間の平凡な価値を優先する人びとはこういう職業に適さない。
 わたしは古いレコードを聞くのが好きだ。一九五〇年台までに録音されたもの。クラシック音楽ばかり。音質はたしかにひどい。しかし聞いて受ける感動は圧倒されるほどだ。そしてひとりひとりの音楽家に強烈なまでの個性がある。和音を三つ聞けば誰の演奏か分かるほど。
 どの分野でもほんとうの表現者は傲慢に見えるくらいに独創性が強いものだ。傲慢と独創力はぜんぜん違う。それはちょうど正反対だ。自信がない人が独創力があるふりをすることを傲慢という。近年の最新録音は音質が素晴らしいだけでそこに音楽がない。無意味な音が鳴り響くだけ。誰が弾いても同じ音楽だ。あれではコムピューターに楽譜を打ち込んで再生させたのと変わらないとおもう。その傾向は一九六〇年台頃から始まっていて、以降七〇年台八〇年台と時代が下るほど悪化してきた。
 興行師や出版社の希望に応えてその注文通りの作品を作って差し上げる技能は抜群なのだが、そういった「作品」は鑑賞する者の胸をうたない。これを書かなければ死んでも死にきれない、という執念というか怨念のようなものが表現者の胸の奥底にないかぎり、作品が人の胸を打つことはない。本が売れなくなった理由の一つがここにある。
 小粒化の原因にはわからない。
 音楽家については、状況証拠から推測すると、録音技術の出現に依ると思われる。一九三〇年ごろから、録音技術が玩具の域を脱して、鑑賞に耐えうるだけの音を再生させるようになった。作曲家は歴史上初めて自分の作品の音を繰り返し聞くことができるようになった。演奏家もまた自分の演奏をはじめて聞くことができるようになった。創作中の作曲家と、演奏中の演奏家は忘我の境地にいる。世間のことなんか完全に忘れている。執筆中の物書きもそうだ。食事さえ忘れるものだ。それで良いのだ。昔の音楽家は自分の音楽を聞く手段がなかったので、いわば「夜の世界」にいた。世間の鏡に写してわが姿を醒めた眼で見る「昼の世界」にいなかった。録音技術が音楽家を否応なく「昼の世界」に連れ出したのである。自分の演奏を初めて耳にした音楽家はきっと驚いただろう。録音技術が鏡の役割を果たすようになった。
 一九五〇年台までに録音されたレコードを演奏した音楽家は録音技術がない時代に成長して自分の芸を磨いた人たちであった。彼らは自分の演奏を聞けなかったし、そもそも音楽の演奏を聞く機会が、現代の私たちより圧倒的に少なかった。かれらは独創的になるしかなかったのである。そういう人たちが晩年になって円熟した芸を録音したものが一九五〇年代までのレコードだったのだ。
 芸術家にとっては鏡がないほうがよい。ただしそれが人間としてのしあわせになるかは別問題である。芸術家も人だから人生の幸せが欲しいだろう。鏡を持たない芸術家は人間としては悲惨な無幸福な人生を送らざるを得ないかもしれない。
 右にすこし挙げたスポーツや政治の世界でもこの頃は人物の小粒化が進んでいる。これはどう考えたらいいのだろう。
 これも複製技術の発達と関係するかもしれないのである。
 プロ野球界でヴィデオ撮影と分析を初めて取り入れたのは、昭和三〇年台から南海ホークスで活躍した野村克也捕手らしい。本人が著書に書いている。ライバルチームの投手を撮影し、その投球や癖を研究したそうである。いまでは野球だけでなくあらゆるスポーツで常識化している方法だ。ライバル選手を徹底的に分析し短所を攻める。野村捕手は相手を研究したことしか書かないようだが、当然ながら自分のプレーも撮影し、考究したことだろう。自分でも気づかなかった自分の短所を見つけて修正したからこそ、あのように素晴らしい成績を残した大選手に成長したに違いないのである。
 だが、いつもいつも自分のプレーを見ることが、すなわち鏡を見続けることがアスリートにプラスにばかりなるだろうか。野村選手の頃は、フィルムを見る時間はおそらくは短時間であった。体作り、素振り、走込みの傍らに行ったに過ぎなかった。現代のスポーツ選手は小学生時代から、自分のプレーを見続ける。周囲の指導者がそうさせる。現代のスポーツ選手はおおむね素直で従順な性格の好青年だ。「鏡」の見過ぎがスポーツ選手小粒化を将来している気がしてならないのだ。
 男性が化粧した初めての政治家はおそらくアメリカ合衆国のケネディ元大統領である。
 共和党のニクソン候補と一騎打ちした大統領選挙テレビ討論会のとき、醜男でときどき言葉に詰まり大粒の冷や汗をかいたニクソンの顔と、若くハンサムで弁舌爽やかだったケネディの顔がアメリカ中に放映された。選挙結果は言うまでもなくケネディ勝利であった。このときのケネディ候補は化粧していたのである。男が化粧するなんて、と冷笑される時代であったのでニクソン候補は化粧しなかった。ケネディ家は二次世界戦争前にハリウッドの映画産業に関係していたので、男性のメイクについて抵抗と偏見がなかったのだろう。
 ケネディ後の政治家はみんなメディアという「鏡」を強く強く意識するようになった。そうしなければ選挙に負けるからである。インターネット発達後はこの傾向が非常に強まった。あたりまえだが、どんない高邁な理想を胸に抱いても、権力を握らない限りは実行できない。そのためには、己れの理想と哲学よりも、世間という鏡に写っている自分の姿、それがどうみられているのか、そのイメージアップを優先せざるを得なくなった。そうしなければ選挙に落ちるのだ。この傾向の強化が進みつづけ、二一世紀に入った頃から、政治家の理念と現実が逆転してしまった。自分が政治家として何をしたいとか、したくないとか、そういった己れの考えは極めて希薄であるが、「鏡写り」が巧みな人物が選挙にぞくぞくと当選するようになったのだ。国会議員なんてただの党派別人数なんだから、人間の議員の代わりに、碁石を議事堂の座席に置いても同じことじゃないか、と誰かが言っていた。
 かれらは自分を採用してくれたパトロンの注文に応じ自分を演出することが巧みである。そこにずば抜けた能力をもっている。現代芸術家がコーディネーターの要望に上手に応えた作品を、納期をきちんと守って、納めることと似ている。


歩く

 都会暮らしは高齢者に優しい。足腰が弱り、視力その他が弱った者にとって大きな都会ほど暮らしやすい。稠密な鉄道網はもとより、路線バスが街のすみずみを走り回っているからだ。通勤も、病院通いも、友人宅訪問も、すべて自分で移動できるからだ。
 東京観光をされる方はぜひとも都営バスに乗ってみるとよいとおもう。都心部と江東地区付近ならどの道でも都のバスが走っており、一日乗車券を数百円で買える。乗車時に運転手に申し出ると売ってくれる。運行頻度は路線によって違うが、数分間隔から三〇分間隔程度である。バスなら地下鉄道と違い景色が見える。素顔の東京に接することができる。わたしはしばらく前に一日乗車券を使い、都バスあてのない旅をやってみた。任意のバス停に立ち、やってきたバスの行き先を見ずに乗ってしまうのである。どこに連れて行かれるわからず、それまで知らなかった場所を見る意外性が面白かった。
 都バスと都電荒川線または各区営バスに乗ってみて気づくことはご老人の多さである。都電などは乗客の半数以上高齢者なのではないかとおもうことさえある。それで私は座席が空いていてもわざと座らないことにしている。一分後に停まる次の停留所でおそらくは杖をついたお年寄りが乗り込んでくるだろうからである。
 都バスは都電よりは高齢者比率が低い気がするが、それでも地下鉄道よりも圧倒的に多数のご老人が利用している。考えてみれば当然のことで、電車に乗り込むために地底深くに潜る必要ながないばかりでなく、小回りがきくバスはそれこそわが家の前の停留場に止まってくれるのだ。高齢者が電車を忌避してバスを好むのは当然であろう。
 このようにご高齢な方と、さまざまな障碍がある方にとって東京は暮らしやすい町だ。その反対に公共交通機関が存在しない田舎は非常に暮らしにくい。地方では移動するための手段について各個人がお金を負担することになっている。すなわち自動車である。自動車本体の代金のみならず、自動車税や保険や車検やガソリン代金や、さまざまな付帯費用を個人が負担する暗黙の掟が住民の心を支配する。地方生活が可能なのは財力と健康に恵まれた人のみである。
 東京では移動手段は公共のものである。各個人は利用時に僅かな運賃を負担するだけ移動できる。だから貧しい暮らしのため、またはなんらかの障碍のため自動車を購入できない人たち、運転免許取得が困難な人たちも、社会から排除されにくい。そもそも自動車が不要な世界なので免許をもたない人も多い。それで差別されることも不利益を蒙ることもない。
 地方暮らしはこれと真逆である。自動車を乗りまわすことが当然であって、さまざまな事情によりそれが不可能な人たちを二級市民と蔑み(または憐憫し)、容赦なく排除する社会となっている。排除される当人にとっては屈辱の日々であろう。電車もバスもなく、企業や店舗が広大な国道沿いにぽつぽつんと離れて点在する地方社会で、車の運転ができない人はどうやって就業すればいいのか。まいにち家から会社まで何キロも歩いて通勤するのだろうか。
 山村で高齢者だけで逼居するひとたちはどのようにして食料を買っているのだろうか。最も近い食料品店が家から四キロ離れてた所、などというケースは日本中にありふれているのではないか。食品を手に入れるためにお店まで片道一時間歩くのだろうか。病気のときはどうするのだろう。病人を歩かせるのか。高価なタクシー代金を無理やりに負担させるのか。
 こんなことを人びとに強制する国は決して豊かな国ではない。
 こんな状況のどこがバリアフリーなのだろうか?
 日本が次第に貧しくなってきてから、東京や各県の中心都市への人口集中が進んでいる。貧しい人と障碍を持つ人とに酷い地方社会を人びとが捨てるのはある意味で当然だ。国全体の貧困化と、地方の衰退及び大都会一極集中とはおそらく強力にリンクしている。
 わたくしにおもうに、駅に昇降機を設置すること等はバリアフリーの瑣末事を過ぎない。そもそも自宅から駅へ行く手段がないならばそれは無意味に近いのだ。現実に、地方を旅すると駅の昇降機はたいてい使われていない。使用するのは体力が有り余っている登下校時の高校生だけだったりする。本来の利用者である車椅子使用者が駅に現われることがあるのだろうかと疑問を感じることがしばしばなのだ。
 さらに、鉄道や市町村営バス路線があっても、列車が三時間に一本しか来ないとか、通勤通学時間帯にバスが走らない、もし大雨等の災害が起これば数カ月まいし数年間も列車が走らなくなる、そんな状態では存在しないとおなじである。
 自動車に耽溺し、公共の移動手段を撤廃する政策こそが世の中に強大なバリアを設営する政策なのである。バリアフリーとはこの政策を匡すことなのである。右に「財力と健康に恵まれた人たちのみが地方生活に耐えうる」と書いた。財力はともかくとして、健康については誰でも老いるにつれて衰える。例外はない。それが何を意味するかを地方居住者各人は自問するべきだ。そして各人が住む地方政府の政策を是正させるべきだ。もし壮年時代までにそれを怠ったら事実上の姥捨山に遺棄される晩年が待っている。
 各地方政府は声を揃えて、「おしゃることは分かるがカネがないのだ財政難なのだ」と言う。だが、クルマを崇拝し公共交通を蔑視する政策をやめるという価値観の転換だけなら一円もかからないはずである。役所が方針を百八十度転換したとプロパガンダするだけでも一定程度の世の中への好い影響があるはずだ。たとえ具体的政策をなにもしなくても。それなのにしないということは、各地方政府は本音としてはクルマにしがみつく政策を棄てたくないのであろう。地方政府は財政難の原因を自分でつくっているのに改めようとしない。
 地方は自動車を崇拝することで自分の首を絞めているのである。


さざなみ

 世の中に趣味がいっぱいある。メジャーな趣味、マイナーな趣味。
 男性の趣味の対象になるのは乗り物系。クルマ、飛行機、電車、船。昆虫なんかも男性の趣味の対象らしいようだ。
 女性の趣味はよくわからないのだが、おしゃれ、おしゃべり、旅行といったことろだろうか。
 ステレオタイプ思考は良くない考えだが、無理に一般化してみると、男性の興味は物やシステムの探究に向かいがちで、女性は人とのふれあい行為に興味をおぼえるようである。
 現代の大きな趣味であるコンピューターとインターネットについてもそうだ。男性はコンピューターマシンの仕組みと性能、通信技術の構成に目を向ける。女性はインターネットによるおしゃべりが好きだ。インターネットの技術的な仕組みに興味津々な女性は少ないようである。
 しかしながら世の中には男女ともに趣味の対象としない物がいっぱいある。たとえば家庭電気製品だ。テレビ番組情報雑誌ならたくさんあるのに、テレビ受像機という機械をメインとした趣味雑誌は見当たらない。コンピューター雑誌は数種類あるのに、機械としてのテレビは趣味とならないらしい。ちなみに私はテレビ機械に対してならほんの少しだけ興味があるのだが、テレビ番組にはまったく関心がない。
 テレビ以上にマニアがいない物が冷蔵庫や洗濯機である。「週刊洗濯機」とか「冷蔵庫ファン」などという雑誌は見たこともない。
 男性である私はやはりインターネットの技術的な方面に関心がある。だが根っから文系人間のため、困ったことに技術力がない。わからないけど面白くは感じる。
 パースナル・コンピューターを使い始めたとき、一般の人達と同じく、ウィンドウズがあらかじめ入っていたラップトップを買った。けれでも私はマイクロソフト社が販売するこのオペレーティング・ソフトの使い方が、どうしてもわからなかった。のみ込めなかった。困ってしまった。数学のテスト0点で機械音痴な自分はコムピュータを使う能力がないのかと悲しくなった。
 だがあるときアップル社の中古マックコンピューターが同社の公式サイトで四万円ほどで販売されていたので買ってみた。それを使ってみて私は目が覚めた思いがした。わかりやすいのだ。実に使いやすい。目から鱗が落ちた。それを使い始めて、コンピューターの使い方が一気にわかった。上達した。それまで悪戦苦闘したウィンドウズはあれは一体何だったのだろうと思った。あんな難しいものが世界標準となってしまったから、世の中の書店にパソコンの使い方の本が溢れているのではあるまいか。
 それから何年かマック・オーエス・テンばかりを使った。ウィンドウズの難しさに辟易していたから。マックは使いやすいばかりか堅牢である。滅多なことでは不調を起こさない。壊れやすいウィンドウズと対象的だ。使用しているうちに、価格的にもマックはウィンドウズを載せた同程度性能のパソコンより安価なことに気づいた。マックは高い、は昔のことである。いまはウィンドウズパソコンのほうが値段が高い。
 ただしマックの短所にも気づいた。私はオペレーティング・ソフトだけが欲しい。マックの機械は不要なのだ。だがアップル社は頑としてソフトだけの販売を許さない。それからマックの世界は自由度がやや低い。アップル社が定めたとおりに使わなければお叱りを受けそうな雰囲気がある。
 創業者の没後アップル製品は美が喪失した。洗練されたエレガントさがすかっり薄れた。だから現在の同社製品を買いたいとはあまり思わない。しかしアップルのオペレーティング・ソフトの堅牢さとわかりやすさは捨てがたい。
 そこをどうするかかんがえてリナックスというオペレーティングソフトを数年前から使っている。それはウィンドウズ、マックと並ぶメイジャーなオペレーティングソフトである。前二者との違いは売り物でないこと。リナックスは特定の会社の製品ではない。世界中の有志の技術者が知恵を集めて開発しているヴォランティア活動の成果物なのである。
 リナックスを使ってみてこう感じた。堅牢さではマックとほぼ同じレヴェルであり、使いやすさではマックに少々劣る。そして自由さではおそらく世界一優れている。リナックスを使うことは経済的にも技術的も難しくない。まず代金無料である。日本円で二万円ほどするウィンドウズと比較にもならない。ウィンドウズより高性能なソフトが無料なのである。インストールも難しくない。数百種類あるリナックスの中には使用方法と外観をウィンドウズに似せてあるものがいくつもあるから、そういうのを選べば違和感なく使えるだろう。
 現在の私は九割がたリナックスを使い、一割ほどマックを使っている。どちらも高性能かつ使いやすい。魯鈍な頭の私にとってはウィンドウズは使い方が難解で、それを使うことはほとんどない。私自身いまだにウィンドウズの使い方がわかった気がしないのである。
 商品でないリナックスが世界標準ソフトになることはあり得ないが、もしもマック・オーエスのシェアが半分以上になったら、世界の生産性が劇的に上昇するだろう。マックなら解説本なんか不要だ。ウィンドウズみたいにオーエス・ソフトと格闘するために時間と労力を奪われない。
 パースナル・コムピュータが爆発的に拡まった九〇年代後期、マイクロソフト社は世界の輝ける巨大企業であった。九〇年代は同社の時代だった。これに対して当時のアップル社の経営業績は倒産ぎりぎりな悲惨な状況だった。アップルは過去の企業だと一般に認識されていた。
 あのころ、さざなみがマイクロソフトによせていたのだ。不幸なことに。

信じる

 信とはなんだかわからない対象を確かだと信じこむことではない。
 信とはあてにならない人を完全無欠なる指導者だと信じこみその指示に従属することではない。

 信とは疑うことである。信とは疑い問うことである。
 信とは自己を疑うことである。
 信とは社会を問うことである。

 信とは疑うことである。疑こそが信である。
 同時に、信とは疑ではない。信は疑を離れることである。
 信と疑は不一不二である。

 ゆえに、信は知ることである。
 信は賢くなることである。
 信はちっとはましなにんげんに成ることである。成ってゆくことである。

 信を獲るとはその内面に慚愧と歓喜の思いがこみあげることである。
 見えていなかった己の虚偽の姿、世の中の嘘偽り様相が見える自分に変わってゆくからだ。
 世の中をよくするために己が微力を捧げなければやまない情熱が湧く。その熱意は生涯つづく。
 これこそ佛教の信のご利益である。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?