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カテゴリーに分けること

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いつも週1コラムをご覧いただきありがとうございます。
先週、こんなツイートをしました。

記事の前後の文脈を読み「言わんとしていること」を理解しようと思えばできますが、それを差し引いたとしても、LGBTムーブメントが表層的になってしまっていることが良くわかる記事だなと感じています。

これまでも、何回かLGBTに関することは講演や研修などでお話する機会をいただいているのですが、いつも自分自身の中に葛藤があります。LGBT当事者への差別や偏見がなくなってほしいと強く望む気持ちがある一方で、LGBTと言い続けることでLGBTが特別なカテゴリーであると強調し続けてしまっているという矛盾です。

(ここからは、主に性的指向に関する話になります)

ジェフリー・ウィークスは「セクシュアリティ」という著書の中で、「同性愛行為」はずっと昔から確認されてきたが、「同性愛者」が出現したのは、相対的に見て新しいと述べています。18世紀~19世紀ごろのヨーロッパにおいて、異性愛行為を「正常」、同性愛行為を「異常」と見なし、その「異常性」を心理学的に解明するような研究が盛んになったことで「同性愛者」が社会的に出現したと述べています。

近代国家形成の中で、子孫を残すことが国家の繁栄と結びつき、父と母を中心とする「家族」システムが導入されてきました。禁欲を美徳とするキリスト教の教えも拍車をかけ、子孫を残すことのない同性愛行為はますます刑罰の対象となっていきました。こういった時代背景の中で、当事者が差別や迫害に声を上げるために、政治的アイデンティティとして自らを表現する「ゲイ」という言葉を使い始めます。また、レズビアンも「政治的レズビアニズム」などの言葉が出現するなど、女性のセクシュアリティの在り方について主張する動きが高まり、政治権力の中に組み込まれていきました。

「レズビアン」、「ゲイ」、「バイセクシュアル」という言葉を使うことで、課題を可視化し、その課題解決のための啓発活動、政治的活動、今では経済活動も含めやりやすくなるという点は理解しています。ですが『「異性愛者」ではないグループ』と『「異性愛」グループ』が存在している、という社会構造を延々と生み出すことが果たして良いことなのか?とよくわからなくなります。課題を可視化し解決するために、その課題自体を生み出す構造の強化に加担し続けることは、課題の解決になるのだろうか?と疑問に思っています。

そして、もう1点、私がいつもすっきりしなくて困っているのは、ウィークスが著書の中で述べている以下の文に関連する部分です。

「セクシュアリティ」は社会的に産出され、社会の中の様々な権力の中に埋め込まれている。

「セクシュアリティ」が、社会で作られる概念ならば、アメリカで生まれた「ゲイ」、「レズビアン」という言葉はアメリカという社会の中でふさわしい言葉として生まれたわけであり、その言葉をそのまま他の地域に適用するのは正しいことなのだろうか?という疑問が生まれます。日本のボーイッシュ系の若い女性は、自分自身を「レズビアン」と称することを望まない人が多いとも聞きます。外国からの言葉を借りてきて、その言葉が日本の文脈にあっているのかどうかの検証がしっかりとされる前に、借りてきた言葉を用いて可視化された課題は、本当に正しく課題を捉えているのだろうか?という疑問も絶えず抱いています。

<参考文献>
ジェフリー・ウィークス (1996) 「セクシュアリティ」上野千鶴子監訳、赤川学解説、河出書房新社

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