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小説「嘘つきなぼくとチョコレート」(連載第2回)

 二.図書館

 それは今からおよそ一ヶ月前、絶対に忘れたりなんかしない一月の十八日だった。
 正月明け、ぼくは頭のなかが抜けていた。学校の授業でも雪が降る校庭ばかり眺めていたし、家でも勉強が手につかなかった。勉強だけではなく、ゲームをしていてもいまいち楽しくないし、漫画さえ手に取ることができない。その上、ときどき親戚の小さい子がやってくるのが嫌だった。もう手がかからない年だけど、預かっている子に何かあってはいけないので普段はお母さんが見ていた。それがたまにぼくにお鉢が回ってきたりして、予定が一気に狂わされる。ぼくが相手になると急に元気になって騒ぎ出す。まるで嵐のように走りまくる。好かれて嫌なことはないけれど、それが続くとたまらない。小さい子と一緒にいるのは疲れて仕方なかった。


 だからぼくは「図書館で友達と勉強をする」という話を作り上げた。実に上手いことを言えたと思ったけれど、「友達と一緒って、遊ぶつもりなんでしょう?」「集中できるとは思えない」と、母は懐疑的だった。
 それでもなんとか押し切って、ぼくは一人きりの勉強会を開くことに成功した。実際に図書館で勉強をしたけれど、一人でぼんやりできるのだからよかった。そうやって二、三回勉強会をしていたのだけれど、お母さんは「これも」と言って問題集までくれて、進み具合の監視を始めた。失敗したな、面倒くさいな、と問題集をだらだら解きながらぼーっとあたりを眺めていると、急に外に面する大きな窓から光が射し込んできた。雲に隙間ができて、庭の雪に反射していた。そしてその光はお姉さんを浮かび上がらせた。
 とても凜々しい姿だった。光のなかであまりに輝いていて、ほんの一瞬の出来事なのにその姿が焼き付いてしまい、時間が止まってしまったように思った。
 お姉さんは背筋がすっと伸び、その姿勢のまま靴を少しだけ鳴らして歩いていた。決してかかとの高い靴を履いているわけではないけれど、自信に溢れた歩みだった。歩調は元気があって風を切るようで、とにかくぼくにはまぶしかった。そしておっぱいが大きかった。
 お姉さんが通り過ぎるのを、ぼくは当たり前のように目で追っていた。やがてお姉さんがいってしまい、またノートに向かったけれど、そのときには集中力はなくなっていた。さっき見たお姉さんの横顔と、さらさらな髪が光ったのが目に浮かんだ。もちろん、セーターの胸が膨らんでいたことも……。
 そんなことを考えているうちにぼくは異変に気付いた。ノートの横線がなんだか曲がって見えてきて、ふらふらしていた。
 ――きっと風邪を引いたんだ。
 帰らなければと思いながら、でもお姉さんのことが気がかりだった。立ち上がって重くため息をつきながら歩き始めた。視界が揺らいだ。数歩歩いたところでくらっとして、気付いたらぼくの身体は斜めになっていた。
 ――あ、倒れる。
 そう思ったところで、何か柔らかいものにぶつかってぼくは助かった。気付けばいい匂いがしていて、ぼくはお姉さんの胸に埋もれていた。
「きみ、大丈夫!」
 助けてくれたお姉さんはそう言い、なかなか立ち上がれず、立ち上がってもぜいぜい言うぼくをとても心配してくれた。ぼくはまだお姉さんの方を直視できないでいた。胸が苦しくて、心臓まで悪くなったように思った。
「具合が悪いんじゃない? どれ」
 うつむくぼくの頭を起こし、お姉さんは額に手を当てて目を見つめた。
 お姉さんの目を初めてしっかり見たときだった。その瞬間、ピッと目が覚めた。触れられた手のひらに反応して、ぼくの体温は風邪のせい以上に上がっていった。
「うん……熱があるみたい。クリニックにいきましょう、近くよ」
 そしてぼくはお姉さんが看護師をする鈴木クリニックに連れていかれた。
 二日間ほど熱でぼんやりした時間を過ごした。そして病気が治って数日すると、ぼくはお姉さんのことが忘れられないとわかった。学校にいても塾にいても、いつの間にかお姉さんのことを考えてしまう。お風呂でなんて、特にいつまでも考えてしまう。なんとかお姉さんに会えないものか考えた。そして、やはりぼくは患者になるしかないんだと決意した。会うために火傷までした。火遊びにもほどがあるかもしれない。でもぼくは本気だった。そうやって三度、ぼくはクリニックにいった。

 また友達と勉強するという口実で一人で図書館に来た。問題集は相変わらず解けない。それでなんとなく恋愛指南書というタイトルのインチキくさい本を見つけてきて、本を開いた。結構な部分が刺激的で、でもそれを通り越して意味がわからないところ、不思議なことが書いてある本だった。大人の女性のおっぱいのイラストもあったけれど、かなりぼくが考えているものとは違う。いけないものを見ている気はするけれど、お姉さんのおっぱいを思うときはこれとは違う、不思議で切ない気持ちになる。それと、お姉さんに関係がありそうなこともこの本には少なかった。次のページに書いてあった不倫なんて、お姉さんには間違いなく関係がない。
 突然、肩をやさしく揉まれた。
「たっくん、お勉強かな? 熱心だねえ」
 今まで考えていたことがことなだけに、ぼくは飛び上がるほど驚いてお姉さんに振り向いた。相当、慌てていたんだと思う。お姉さんまでぼくに驚いて「そんなに驚かなくても」と笑った。落ち着かせるかのように、肩を撫でられた。お姉さんに触れられ急に近づいたぼくたちの距離に、頭が熱くなってきた。
「こ、こんにちは。図書館にはよく来るんですか?」
「ええ。きみもよく来るみたいだね。今は勉強の息抜きかな? おや、その本、ずいぶん難しい本を読んでいるんだね。なるほど、なるほど。たっくんは大人だね」
 慌てて本を手で隠したつもりだったけれど、後ろからのぞき込んでいたお姉さんからは丸見えだった。こんな本を見られたこと、本に載っているイラストからお姉さんの身体を想像していたこと……恥ずかしさのあまりに今度は顔が熱くなった。きっと真っ赤になっているに違いない。
「勉強熱心だね、クラスに気になる子がいるのかな? お姉さんが相談に乗ってあげるぞ?」
 ぼくはクラスの女子に興味はなかった。それなのに「実は……」とありもしない恋話をしてしまった。図書館の表にあるサロンで無料のカップコーヒーを手に話した。テーブルの向かいに座るお姉さんは(前屈みで)顔を近くして話してくれて、ぼくは恥ずかしさで目をそらさないようにするのが大変だった。
 お姉さんは親身になって聞いてくれた。深入りはせずに「まずは素直に、自然に接してね。あと、気になる人と接点を持つと自然と距離が近づくよ」とアドバイスしてくれた。ぼくはそれができれば苦労はしないのにな、と目の前のお姉さんを見て思った。おかげで十分過ぎるくらい、ぼくはお姉さんのそばにいて話すことができた。嘘をつくのもいいことだと思った。


 でも、病気も嘘だし図書館での勉強会も嘘、女子の話も嘘だ。ぼくは嘘をついてしまう病気なんだろうかと思って、お姉さんを裏切ったみたいで苦しくなった。

 次回へ続く

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