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小説「大地に落ちる汐の思い出」(連載第8回)

 私は高卒での就職を考えていて、それは三年の秋頃に最終決定する。わかっていた独り立ちの重大事が、いよいよ怖さを見せてきていた。


 成績がよかった私に友人は華やかな未来を思い描いていたようだが、大学にはもちろん行けない。私は仕事を探さなければならなかった。しかし漠然とした世界のイメージは掴むことができず、どんな仕事が存在していて、給料はどれくらいなのか、それは生活を営むには十分なのか、そんなことをどうも理解できなかった。人生のプランと言えるものが欲しかった。たとえ明日がどうなるかわからない人生でも、方向くらいは見つけたかった。


 兄はいったい、どうやって将来の姿を見つけてきたのだろう? 何度も兄のことを考えてしまった。本当なら駆けつけて無理にでも聞きたいところだったけれど、どこにいるかはまったくわからないし、知る限りでは先生にも一度も顔を見せていなかった。
 先生にしても、何も教えてはくれなかった。これまでも教えて欲しいことや知りたいことについては可能な限り、助けてくれた。けれど、「やり方」は教えてくれても「何を目標とし、何を選択し、何を正解とするか」は自分で考えさせられた。自分がすることはまず自分で決めなさい、というものだった。
 助けを求める相手もいないので、私は自分に多くの問いを立てるしかなかった。自分は何をしたいのか、したいだけでそれを為すことが許されるのか、思惑どおりにならなければ私は何をするのか、単につらい人生を送るだけなのではないか、私は何のために生きるのか。
 海に行ったときの波音が再び響いてきて、私に広大な世界を思い出させた。
 どうしようもなかった。定められた就職活動の日程に従い、規定通りに一社にだけ履歴書を送り、面接までの日を過ごした。この一社しか選べないという決まりにはひどく苦しめられた。世界は一つで、そこに流れる時間はいつも一度きりで過ぎ去っていく。人生にはいくつもの選択肢があったとしても、一つしか選べない。もしかしたら、何も手に入れられないかもしれない。私にとって、想定されるすべてがひどく重かった。言い尽くせないほどの巨大な物体が頭に乗ったようで、私はひどい重圧に苦しんだ。


 それで面接の前日だった。私はどうにかなりそうなほど締め付けられた心臓を抱えて、雨が降る夜遅くに家を飛び出してしまった。
 この夜のことは私の記憶の中に焼き付いていて、少しも風化することがない。闇に包まれた街、限られた街灯の光の中をどこへ行くともわからないまま走った。靴はすぐ生地にまで雨が染みてズブズブになったし、傘も布が剥がれてダメになったが、それでも私は走っていた。雨の夜、住宅街に誰かがいるわけもなく、私は孤独を余計に感じながら進んでいった。ずぶ濡れになった私は私をいったいどうするつもりなのかわっていなかった。どこまで行っても、自分がどこに行こうとしているのかわからなかった。
 それでも密かに逃亡先として期待していたのだろう、一人の級友の部屋の近くまで来ていた。高校の近くにあるそのアパートまで、二時間近く走りっぱなしでいた。灯りがついているのを見ると、私は少しばかり安堵した。同時に胸の締め付けがまた来たけれど、今度は重圧によるものではなく、泣き出してしまいそうになった心の乱れからだった。
 そのようにして一人暮らしの友人にかくまってもらった。就職組のことなど何も知らない、高校生に一室を借りてやれるほど裕福な家のものだった。私は雨の中を走ってきた疲れから彼のところで眠った。翌日も彼が学校へ行くのを送り、人目を避けてずっと部屋にいた。


 先生のところへ帰ってきたのは三日目のことで、友人が私のことをクラスで仄めかしたり、級友の訪問でその話が本当だとバレたためだった。だが、この告げ口はありがたかった。袋小路にいた私には、走り出した瞬間から逃げたところで恐怖からは逃れることができない、自分がどこにも行けないことに気付いていた。ずっと友人の家の隅で恐怖していたくらいなのだから。
 自分の無力さ、小ささが思っていた以上のものであり、これまで感じていた恐怖が裏付けされたのだと思うしかなかった。私はすっかり怯えてしまった。
 しかし何より、こんなことをしでかした私に先生がどんな顔をしているか、それが恐ろしかった。私は先生を裏切ってしまった。これまでの日々のことも、これからの日々のことも。
 帰ったときも外は激しい雨だった。先生は玄関で腕組みで立って待っていた。おどおどしている私とはまた違う表情、沈んでいる様子が見て取れた。予想したような怒りに満ちた顔ではなく、憐れみと残念だという様子が見て取れた。
 先生は数歩進み、雨の中に出て私を迎えた。「こっちに来なさい」と静かな声で言った。私はその方へ歩いた。
 先生がそんな様子だったので、私は愚かにもどこかで甘えた言葉を期待していた。しかし先生からそんな言葉が出るわけもなかった。間合いが詰まったところで袖の下に腕を回され、私は一瞬のうちに投げ飛ばされた。雑草の合間に溜まった水が激しく飛沫を上げ、私の背中に激しい痛みが走った。
 投げられた私の前には先生の顔があった。目は見開き、歯を強く食いしばって息を大きく吐いていた。雨水は先生の顔をつたって流れてきて、先生と私の顔を濡らした。身体を起こした先生は「立て」と言った。私はしばらく腰が抜けたようになり立ち上がれなかった。何事が起こったのかわからず茫然としていた。
 やがて心と目頭に熱いものを感じ、涙が止まらなくなった。
「着替えて部屋に来なさい」
 私が起き上がるのをずっと待っていた先生は、そう言って中に入っていった。


 先生の部屋で私たちは向かい合ったが、互いに何も言わなかった。私は俯いて先生の顔を見ることもできなかった。察するに、先ほどの厳しい形相は隠れていたが、もちろんこれまでより畏怖を感じずにはいられなかった。
「黙っていても始まらない。おまえは私に報告することがあるだろう」
 それでもしばらく黙っていた私だったが、その間に心の中ではこの三日間、どんな心で過ごしていたのか、何を考えていたかが蘇ってきて、またしても泣いた。
「探したんだぞ……。大切な面接の日だったのに、何があったのか」
 顔を上げた私は、先生の顔にいつものような厳しさがないことに気付いた。そのとき、今の老いと疲れが見える静かな顔は、私のせいでそうなってしまったものだとわかった。結局私は、自分のことしか見えず、事を起こせば何かが起こると思っていた。そのせいで、先生に思った以上の迷惑をかけてしまっていた。
 私は少しずつ話していった。広すぎる世界への恐れと小さすぎる自分の存在、わからない未来の姿、選ぶことができず人生の多くを決めてしまう仕事というもの、続いていくかもしれない孤独との戦い……。先生は一つ一つを黙って聞いてくれて、理解も示してくれた。
 静かに頷いた先生は理解を示してくれたようだった。
「こんなことをする前に話せばよかったものを……悩んでいることには気付いていたが」
「気付いていらしたのですか。ではなぜ……」
 なぜ声をかけてくれなかったのか……そう言おうとして、やめた。先生はそれには答えなるはずがない、愚問だった。


 しばしの沈黙の後、先生は話を始めた。
「昔のことだが……。私の知り合い、私と同じ年のものに、おまえとまったくおなじことをしたものがいた。就職のときに逃げ出してしまった。田舎から都会への就職は集団でするのが普通で、それに乗り遅れると田舎で生きることになった。都会での生活に気持ちが昂ぶっていたとは思うが、同時に恐怖心が強かったのだろう。それに田舎の生活も嫌いではなかった。離れていくのが不安だった。結局、集団就職の列車が出るとき、彼は駅ではなく河原にいて水面に石を投げていた。しかし彼はまだ迷っていた。ここで石を投げていることと列車に乗っていること、果たしてどちらが正しいのか、本当に悔いてはいないのかを考えていたが、わかりもしなかった。それがどういうことかわかっていなかったようだが、答えを出せないままに逃げた彼は愚かだった。なぜなら、選ぶこと、決意することの責任を放棄して逃げたつもりなのに、人生は止まってくれないからだ。逃げて辿りついたところは安息の地ではない。彼は田舎にいることもできなくなった。大きな約束や期待を裏切ったものは白い目で見られる。追い出されるようにどこかへ流れていった。苦労は想像以上で、いろいろなことをして暮らしたが、その後悔は記憶からは決して消えなかった。……まったく、おまえにとってこれ以上に人生を学ぶ人間はいないだろう」
 先生の話す人生の先人を想像すると、自然と呼吸が深くなった。その人の心情どころか顔つきまで目前に浮かんでくるようで、身に染みた。
「それで……その人はどうやって生きたのですか? それからの人生は」
 そう言うと、私は先生に睨まれた。
「この男の話はここまでだ。――逃げたところで、安息の地へは辿り着けない。それだけだ。この男がどうなったのかなどと聞くようでは、大切なことにはまったく気付いていないようだが、仕方ない。わからないのなら、これからもずっと悩んでいるといい。よく悩んでみなさい」
 それで先生は私に下がりなさいと言った。けれど、私はこの機会を逃したくないと、頑として動くまいとした。涙を流す人間がときどきする、弱い立場を利用した行動だった。先生は先生で動かない私を微動だにせず見ていた。互いに睨むようにして見つめ合っていた。
 そのまま数分互いに譲らなかったが、最後には私の根が勝った。先生は諦めて、私へ答えを与えてくれた。
「おまえに話すことはもちろんできる。だが私の言葉を聞いて生きていくとして、本当に役に立つのか考えてみなさい。ある人の体験をこれ以上聞いても何とも仕方ない。これはある男の、彼だけの人生なのだから。聞いたところで、それをおまえが真似して失敗したらどうする? いったい誰の責任なのか。まさかどこの誰とも知らない男のせいにはできないだろう。あるいは聞いたようにして成功したとする。そのままならそれでいいが、別の壁にぶつかったらまた私に、あるいは誰かに意見を求めるだろう。まるで今のおまえのように。困った末に自分で決断せずに助言を求めるのでは、いつまでも他人の言いなりだ。ひどいときには相手のいいようにされて操り人形にもなるだろう。それをわかった上でどうしても助言が欲しいのなら言わないでもないが……本当にいいのか? ずっと昔、おまえは苦しくても自立できる道を選んだ。それなのに、いまさらそんな選択をして自分の意志をなくしてしまうのか?」
 今度こそ話は終わった。


 その晩、私は布団の中で先生の言葉を何度か思い出した。やがて暗闇に一筋、光が見えたような気がした。光は決して温かくはなかったが、私の目にかかっていた暗いものを取り払った。
 私が光のなかに感じたものは判然とはしない。先生の言葉、自分で選択しなければならないというものは、厳しい響きが大きかった。一方で、私はこの日のためにずっと見守られていたのだと肌に感じた。厳しいことを言うようで、先生はずっと見ていてくれた。もしかしたら「距離を置いて教育する」ことを貫いた点では、他の子供よりずっと手をかけられていたのかもしれない。幼い日の決断のときから、先生は私に大事なことは言わないようにして、おそらく言いたいのを堪えて、私の旅立ちのためにすべきことを一人でさせようとしたのだろう。そういうことに全部、気付いたのだ。
 この夜から私はもう自立したようなものだった。完全な落ち着きなどはやってこなかったが、私は先生や先生に教えられたことが自分に味方してくれていると感じた。一人になっても、私は孤独になるわけではないのだ。

 次回へ続く

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