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小説「大地に落ちる汐の思い出」(連載第9回(終))

 就職面接から逃げ出した私は、二次募集ではすべての会社から見事に蹴り飛ばされた。業界では私の話は隅々まで行き渡っていて、卒業後に職安へ行ったとしても入り込む余地はないだろう、と進路指導の先生を曇らせた。
 最終的にはずっと離れた場所にある鋳鉄工場に就職することができた。体力はほどほどにはあると自負していたけれど、職場を見学に行ったときには男たちの腕の太いことに驚いた。もちろん、私自身が背負った罪に対する責任なので、これから待っている苦労も受け入れることにした。
 先生はいくらかの金を持たせてくれて、名義上の保証人にもなってくれた。私は泣きそうなのを我慢して家を出て、頭を下げた。
「先生の御恩は決して忘れません」
 先生は首を振った。
「今さらだが、先生なんていうのは大仰で名前ばかりのものだ。ただ、人生の少しばかり先を歩むものが後から来るものに手を貸す、少しばかり考えるのを手助けしただけだ」
 最後に「大成するまで顔を見せるんじゃないぞ」と言い、先生は私が去るより先にさっさと中に入ってしまった。先生も泣きそうになっていたのに私は気付いていた。お互いに泣いてしまい格好悪くなることが恥ずかしかったのだ。きっと兄のときも同じだったに違いない。


 独り立ちをして鋳鉄工場で私は毎日、汗を流した。
 危険な溶けた鉄とそれらを運ぶ肉体の酷使。さらに工場の火はとてつもなく熱く、顔も髪も焼けた。流れる汗のために水を多く飲むし、塩も舐めなければならない。過酷な環境でどこまでやれるのだろうか、そう何度も思った。他に移った方がよさそうだとは思ったけれど、就職面接を蹴って辿りついたこの仕事をすぐに辞めたらどうなるかは想像に易かった。
 製造現場について数年が経ち、転機が訪れて私は営業に異動する話をもらった。現場を知らない人間が机に座るのも難しいと言われ、簡単な算数はもとより、いずれ技師になれるかを見る難しい数学の試験を受けた。結果がよかったらしく、最後には異動が決まった。一つに特化していたらこういう機会は生かせなかっただろうと、私は先生に感謝した。
 私はその後、営業でも製造現場に持っていたパイプを活用して十分な成功を収め、独り立ちから十三年経った頃には親会社に引き抜かれて、引っ越して都会へ出ていっていた。


 そこで私は、先生の死を知った。偶然会った私塾にいた友人と再会し、その折、私に教えてくれたのだ。
 それまで、私ももちろん何度も手紙を送っていたけれど、返事は一度も返ってこなかった。私が大成するのを待って黙っているのか、ただ先生が御自身のことなどを忘れて私自身の人生に専念しろと言っているのか、私は帰ってこない返事のことを思ってはどんな意図なのかと考えた。それで、いつの間にやら私の方から手紙を送ることも無沙汰になってしまい、会うことも許されないので帰ることもなく、まったく疎遠になってしまった。しかし、思えば帰っていればよかったのだと振り返る。


 心苦しさを抱えて、報せから数日後に先生の家に戻った。実際に目にしてわかったが、私たちがかつて住んでいたところは取り壊されて何も残ってはいなかった。おんぼろの家であったとはいえ、まったくなくなってしまうとは覚悟していなかった。消えてしまった思い出の場所に郷愁を覚えた。
 せめて墓参りに……と思ったが、どこに墓があるのかは知らなかった。これまでも一度も墓参りをしてないし仏壇もなかったくらいだから、墓は最初から無かったかもしれない。あるいは仏教徒でもなかったのかもしれない。それでも周囲の寺を回り住職に調べてもらい、先生が眠る場所を見つけた。私はその寺の無縁仏へ線香を上げに行った。
 最初から石の下に誰もいないことはわかっていたけれど、墓標を拝んだ。拝みながら先生の死に顔を考えてしまった。あの頃、すでに年齢を感じる様子だった先生は、悲しい姿でしか思い浮かべることができなかった。年月で擦り切れて泥や土で汚れた死に装束。こけた頬。その姿はやがて想像の中で朽ちていき、皮膚も崩れ目もくぼみ、耳も落ちて骨ばかりになった。
 本当はどこにいるのかもわからない、二度と目覚めることのない先生は、もう私を私だと判別することはできないだろう。人生の先を歩んでいた先生に、自分はなんとかこのくらいには成長して来たのだと姿を見せたかった。それなのに、ここにいようがどこにいようが、私の存在を感じ取ってさえもらいない。もう一度だけでも先生に会いたい、先生のことが心から離れなかった。


 私の思い出話はそろそろ終わる。最後に先生が言っていた大事な言葉を記そうと思う。これは、兄も話した「振り返ってはいけない」という言葉についてだ。
 先生は火事や地震、大雨、その他後ろ髪を引かれそうなとき、どんなときでも戻ってはいけないのだと言った。金庫や印鑑、思い出の写真などが気になっても絶対に戻ってはいけない。そうやって振り返った人間は、戻ったがために死んでいる。決して振り返ってはいけない。でなければ、ロトの妻になる。火に焼かれ、建物に潰され、水に流され、塩の柱になってしまう、と。
 先生は今の私に何と言うだろう。おそらく、こんなことを言うのではないかと私は考えている。
「私のことなど思い返してはいけない。死んだ人間に心奪われてなどいけない。自分のことに専念しなさい。私はただ、先に生きて先に死んでいくだけだ」
 涙はあふれ出て、振り向くことを禁じ得なかった。私は塩の柱になるかもしれない。けれど今だけは泣きたい。そう思って涙して、落ちた滴が地面に染みをつけた。

 おわり


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