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小説「嘘つきなぼくとチョコレート」(連載第3回)


 三.お姉さんのプライベート、再び

 五日間、ぼくは本当の風邪を引いて寝込んでしまった。いつものようにクリニックにいってみると思ったよりもずっと症状が重いらしく、先生とお姉さんをこころの底から心配させたみたいだ。処置室で笑っているお姉さんの顔も素敵だけど、真剣な目もいい、とても格好よかった。などと思っていたけれど、次にお姉さんが持ってきた注射を見たら、さすがに青ざめた。針が太かった。
「それ……刺すんですか?」
「そう。早く治すためだから、我慢してね」
 お姉さんの目は笑っていなかった。ぼくの腕を力強くつかんで容赦なくブスッといった。痛みは信じられないほどだった。でもぎっちりと腕を押さえた手にはやさしさを感じた。注射の痕を大きめのシールで押さえながら、涙してお姉さんの気持ちを受け止めた。
 注射のおかげか一日もしたら熱は引いたけれど、重い風邪だと診断されてしばらく外出はできなかった。お姉さんに会う口実もない。最後の日など、明日どんな怪我をしたらいいのか考えていたくらいだった。

 ここ最近、ぼくはよく体調を崩すということで、お母さんがしっかり病気を治すまで塾にはいかなくていいと言った。塾の方でも、重病の後と知っていたので、そうですね、と喜んだ様子だった。指導回数でお金を払っているから少ないとそれだけ収入が減るのに変だと思ったけれど、お母さんは他の生徒が払っている額に比べたら一人の生徒の分など問題ではないと言われた。なるほど、他のこどもが病気になると困るというのはそういうことか、多い方を取るのか、と納得するしかなかった。

 久しぶりに学校へいくと、一緒の塾に通うクラスの小夜子には「また風邪だって? バカも風邪もうつさないでよ!」と言われた。誰にでも絡んで口がうるさくて騒がしい奴だけど、ぼくには他より強く当たってきて鬱陶しい。黙っていたら可愛いよな、とみんなはにやついているけど。「早く治しなさい」と上から目線でお節介だ。
 小夜子にはぼくの心はわからないだろう。わざと怪我をしたり、二月の夜に窓を開けて風邪を引こうとしたりする、そんな気持ちでいるなんて。気が強い小夜子のことだから、好きな相手がいたら直球勝負で向かっていくのだろう。無理矢理キスでもしそうだ。
 ぼくなんて治るまで余計にクリニックにいってるくらいで、何もできないのに。そう考えると小夜子はちょっと羨ましい。ぼくだってお姉さんにキスしたい。

 それから数日してやっと体育の授業に出られるようになった。これまで壁際から友達を眺めているだけだったぼくには、シューズをキュッキュッと鳴らしてワックスのかかった床を走るのは快感だ。今は外で授業できないのでドッジボールをしているけれど、ボールを受け止めて投げ返すという単純な遊びでも、しばらく動けなかったのだからつい夢中で動きは加速していった。
 けれどぼくの身体はちょっと鈍っていたようだ。取るか逃げるか難しいボールに手を出してしまい、右手中指を盛大に突き指してしまった。怪我をするつもりはなかったのに、火傷かそれ以上の厳しい痛みに襲われた。
 当然、ぼくはクリニックにいった。けれど「これは整形外科」と受付に顔を出した先生に追い返されてしまった。お姉さんには会えないし、塾では鉛筆が握りづらいし、いいことがなかった。
 図書館にはお姉さんとの思い出に浸るセンチメンタルな場所としてよく通っていた。同じ机でまた恋愛の本を出したりして。でも振り返ってみてもお姉さんはいなかった。そうそういるわけがないだろう……わかってる。それでも今日も振り返ってみた。お姉さんはいなかったけれど、小夜子がいた。
 小夜子は怪訝、というか不快という顔でぼくを見ていた。
「そんな本読んでるの? たっくんには早いよ。っていうか、悪い頭がもっと悪くなるよ」
 いいんだよ、と本をノートの下に隠しながらぼくは言った。お姉さんの言葉とは大違いだ。
「たっくん、風邪で塾も来てなかったでしょう。今度、模試があるの知ってる? ちゃんと準備しなさいよ。問題集、たらたら解いててもダメだよ」
 小夜子からいちいち癪に障る言葉を受けていると、お姉さんの姿が見えた。あっと思っていると、お姉さんの方でもぼくに気付いて近づいてきた。
「クラスメイトかな? ふーん?」
 お姉さんは小夜子を見た後、微笑みながらぼくに軽く目で語った。しまった、嘘の恋を相談したのが仇になったと思った。もしかしたら小夜子をぼくの恋の相手だと思ってしまっているのでは……?
「高梨小夜子です。辰巳くんと知り合いなんですか?」
「そこのクリニックの看護師だよ。最近、風邪や怪我でよく来るから覚えちゃって。今日はたっくん、元気みたいだねえ。学校でも?」
 小夜子はいつもとはまるで違う表情と口調でお姉さんと話していた。
「元気過ぎて怪我をしてます。大怪我しないといいんですけど」
「本当だねえ」
 そう言って二人でぼくを見た。二つの顔がそれぞれ異なる意味で笑っている気がした。
「私が近くで見てないとダメです」
「それじゃあもっとしっかり見てね。たっくん、また来そうな気がするけど、それも困りものだから」
「辰巳くんのことは見張っています! 変な怪我をしないように」
 その後も、二人の話は盛り上がった。ぼくはお姉さんを多めに眺めながらその会話を見守った。結局、ぼくはほとんど何も言えなかった。「それじゃあ」となったとき、最後にお姉さんはぼくの背中をドンと叩いた。「がんばってね!」と不敵に微笑んでいた。
 お姉さんはいってしまった。
「クリニック……ね。お姉さんが目当てだったんだ。そんな本も読んだりして」
 小夜子はお姉さんが見えなくなるとすぐに小声で言った。嫌な相手にバレてしまったと思った。心底、面倒そうだ。
「あんなきれいな人、たっくんには無理だよ。絶対、恋人いるもの。あと、お姉さんの胸ばっかり見て……イヤラシい!」
 ずばりと言われてしまった。ぼくは「放っておけよ」と荷物をまとめて、小夜子を振り切って帰った。

 次回へ続く

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