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短編小説「船を下りる」下

 客船はゆっくりと九州の西から中国・韓国を周り、再び日本で青森に寄ったあと、また九州の東側に着く。その後は本格的に海を渡って東南アジアまで向かう。韓国と国内を回るだけでは、正直楽しくはない。やっと南の島か、と私でもいくらか期待してしまう。

 日本で最後に寄港する街で、私は少しばかり散策をするつもりでいた。出航時間は午後五時。まだ十一時だからずいぶん余裕のある寄港だ。妻はカルチャー講座に熱心になってビーズを糸に通しているし、娘はボーイフレンドと広くてまだまだ道のエリアがある船内を探検している。私が暇を潰すのにはちょうどよかったわけだ。

 ギャングウエイから港に下り、下船する客を待ち構えていたタクシーに乗って適当に流してもらった。海辺を走る旧道では断崖の岩に当たって砕ける波が遠目に見えた。船の欄干から垣間見える砕ける海面も圧巻だが、日本の海も悪くはない。

 実をいえば、この街には三十年ぶりに来た。学生時代の四年間、ここに住んでいた。鉄道で他の街に行かなければろくなものはなかったものだが、今はどうも、近代的でこざっぱりした姿になっている。だいぶ気配が違ったので、私は街のことを運転手に聞いてみた。

「今、船の旅でここに立ち寄っているんですがね」
「ああ、あの豪華なやつですねー。うらやましいですなあ」
 確かに私たちには豪華に見えるが、実はそれほどでもないのが恐ろしいところだった。客船旅行もずいぶん安くなり、価値が下がったように思っていた。
「この街はどんなところですか? 船が泊まるくらいですから」
「いやあ、どうですかね。観光地も特にないし、今の季節なら浜辺で潮風を感じられるくらいですが……まさか、船を下りてまでそんなことはないでしょうな」
「まったくないんですか? 少しばかり時間を潰したいんですが。あんまり大がかりなテーマパークでなく、おとなしめのやつを探しているんです」
 運転手は水族館や大型のショッピングモールならあるといった。私のなかでは水族館もテーマパーク(海がテーマ)に数えられたので、少しばかり考える振りをしたあとで断り、市街地へ向かってもらった。
「遠くからいらしたのなら、別の地方の街並みはまた味わいがあると思いますよ」
 運転手は何とも口が上手らしく、私のいうことに逆らわなかった。こちらでも「情報収集は一応しておいた」程度のつもりだった。
 少し寄り道して住宅街に入り、そこで降りた。どこか私の知っているところがあれば、と思った。

 私がこの街にいた頃、まだ文化包丁や文化鍋が流行った頃の住宅が健在な、極めて日本的に思えたあの街並みはほとんど姿を消していた。歩く道には図形的な庭付きの家屋が並んでいる。あまりに似すぎていて、自分の家がわからなくなりそうだ。
 目印にする特徴的な家さえ少なく、今どこにいるのかわからなくなりそうだった。郵便ポストと坂道と過度のタバコ派がまだあったのが救いだった。
 だが、たばこ屋の小窓を叩いても自販機で買うように促され、肩透かしを食らった気分だった。

 四年間世話になったアパートはまだ残っていた。四部屋並んだ木造家屋は、雨どいに破れが見えたり、ドアノブさえ錆びていた。昔、別の街から来たやつがさび止めを知らずに車をやられたことを思い出す。この建物も長期間、手をかけられずさび止めも剥がれ、潮風の影響を受けたのだろう。

 地面は草が伸び放題で、人の住んでいる気配もない。時間の流れに取り残されたアパート……と思ったが、少しだけ違う。取り残されたものは、昔のままいつまでも残るのではなく、朽ちる運命にあるのだ。

 もう少し歩いていくと大学も見えてきた。そのまま足を運んでいった。なかをうかがってみると、勝手に入るわけにはいかなかったが、学生課の建物が以前のままに建っていた。少し奥には記憶にない建物や、ロータリーだったところにより多くの樹木が並んでいたり、時代が変わったことを私に教えてくる。
 学生たちの顔はいつの時代も大らかで、数人集まればはしゃぎ声が聞こえる。私は校門から駅に向かう慣れ親しんだ道を、私と同じように街へ向かう彼らとともに歩いていった。

 気付いてみれば、私は懐かしさに小さく笑みを浮かべていた。
 自分の歩いた軌跡を辿ってみるのはおもしろいものだった。過ぎ去ったところはいつも美しいとは、誰もが知っていることだ。ここに来てみればその理由はよくわかる。過去を振り返ることには、明日の心配をする必要がないからだ。学生時代を思い返しても、夫婦仲や散財、娘とボーイフレンドの関係、もしかしてその両親と交流を持たなければならないのか、という厄介ごとは生まれてこない。過去の美しさは未来という重さの欠如が生み出す。

 客船旅行などより、純粋に過去に浸っている方が楽しい。それは現実逃避だろう。多くの娯楽が現実逃避なのだから、まったく不思議なところも負い目もない。問題のある現実逃避とは、現実に戻ることを拒むようなことをいう。

 しかし、と思う。私はこの街のどこかに溶け込んでしまいたいほど現実逃避をしている。船から下りたのは船にあるすべてのものから逃げたいからだった。ちょうどいい具合に寄港地は昔の街だった。それは航路を見たときから知っていて、ずっと気になっていた。ずっとずっと、降りたいと願っていて、妻と娘には素知らぬ顔をしてなんとか降りてやろうと強い決意をしていた。現実から逃れる準備は、妻と娘だけではなく私にもあったわけだ。
 再びの唯一の楽しみを、私はまだ楽しみたかった。時刻は午後一時。午後五時まではまだまだ時間がある。

 何度も足を運んだ学生街を歩いていたが、しかしだいぶその様子は変わっていた。暖簾の下がったそば屋やとんかつ屋があったものだが、そういう構えの店は減っていた。チェーン店の居酒屋も増えていて、どこの街に行っても見る光景に近い。脇道にふらりと入ると、むしろこちらの方が昔の面影を残していた。赤提灯の飲み屋があったときには感動さえして、いったい主人は誰なのか、まさかあのときのオヤジが現役なのかと微笑んでしまった。

 ちょっとばかり歩いたが、それ以上は本当の住宅街になってしまうので、さて、そろそろ現実逃避も終わりに近づいてきたのかと、しんみりし始めた。踵を返し、駅前あたりでタクシーを拾おうと思った。

 そのとき、小さな雑貨屋を脇に見つけた。ブリキの如雨露や焼き物のこびと人形、今時の部屋飾りに最適だろう壁飾り、手作りキャンドル、他にもたくさんのものが並ぶのがショーウィンドウから見えた。そして奥には、学生時代に恋人だった彼女が、少しばかり老けた顔をしてこちらを見ていた。私たちは互いに相手が誰かを認めていた。彼女の目がそう語っていた。


 店のドアを開けたくてたまらない思いを抑えきれず入った私は、彼女に挨拶をした。
「久しぶりね、こんなところを歩いているなんて思わなかった」
 彼女は昔のままの声でそういった。
「船旅の途中で下船してね、久しぶりに街を見ているんだ」
「月に一回くらい泊まるやつね。この街も変わったでしょう」
「そうだね、なんていうか、全体像はもう昔のものじゃないね。思い出はところどころに残ってるけど」

 そういいながら私は最後に彼女に会ったときのことを思い出した。
 私たちはそれぞれの進むべき道の前に、別れなければならない運命だった。
「きみはこのあたりの商社に勤めたんじゃなかった?」
「最初はね、ここは数年前に始めたの。自宅兼お店。お客さんなんて、まあ、来ないけど」
 そういいながら、彼女はレジカウンター脇の小さな水槽の魚を見つめた。魚は静止した水のなかで泳ぐこともなくただ水に身を預けて漂っている。
「結婚したからだけど、結構楽な生活なんだ。働かなくていいっていうから、気楽にしているけど。ちょっと贅沢すぎてなんだかね」
「結婚していたか。まあ、もう三十八だからな。娘もいるし」
「そう、今さらだよね。ここで再会してもね」
「ああ……」

 彼女の言い方には含むところがあるように思えた。当然だ、さきほど目にした瞬間、私が店に入ってきたとき、彼女の目は戸惑っていた。私が迷惑なストーカーをしているという考えも、できないことはないだろう。けれど、そういう具合には取れない。彼女の瞳はあの頃のままだった。
 やさしいけれどそればかりな夫に飽きている女が、昔の男に偶然出会った……それは何を意味するだろうか?

 そんなことをふと考えたけれど、「いや、何も意味しない」と考えを変えた。意味するものなどないはずだ。そういう子供みたいな思考は娘とボーイフレンドが見つめあうのだけで十分だ。

 私はそろそろさよならをいおうとした。ところが、彼女は奥で茶を飲まないかと誘ってきた。私は思いがけない風向きの変化を感じた。
「いいじゃない、昔みたいにちょっとお茶しましょう」
「うん……そうか」
 私はつい誘惑に負けた。二十年ぶりの出来事だった。

 彼女にはいいたいことが山ほどあった。彼女と別れる日、本当は自分と一緒の街へ来ないかといおうとしていたこと。街を去ってからも、折を見ては結婚を申し込もうとしたこと。結局、どちらも勇気がなくていえなかったこと。あの頃は、まだ見ぬ未来への決心と重みに耐えることは、私には用意ができていなかった。今は昼間から人妻を相手にしているというのに。
「きみは相変わらずきれいだ。むしろ昔より美しくなってるんじゃないか?」
「そんなわけないじゃない。ちょっと、お腹はあんまりさわらないで」
「緩んできているのは私も同じだよ。でも、悪くない。若いだけの魅力じゃないものが生まれる頃なんだよ」
「それ、奥さんにもいえる?」
「いや……最近はいう機会がないな」
 私は彼女との会話を楽しみながら、しかし時計を見ないではいられなかった。四時を少し回っていた。

「すまない、そろそろ行かないといけない。……また来てもいいかな?」
「うーん……。またはあるのかな。ずいぶん遠くにいるんでしょう?」
「会いに来る方法なんていくらでもあるよ。それとも、今日のことは忘れた方がいい?」
「忘れた方がいいのかな……よくわからない」
 そこで私たちの言葉は途絶えた。私は起き上がって身だしなみを整え、彼女もまた乱れた衣服を丁寧に直した。


「必ずまた来るよ。船旅が終わったら、何でもいいから口実を作って、こっそりと」
 彼女は困った笑いを浮かべて私を見つめていた。それは昔から彼女がよくやる手で、いいにくいことを私にいわせようとしているのだ。彼女は決心するのを躊躇っている。

「昔に戻るのが怖いのか?」
 彼女は首を振った。
「私だって、あの頃に戻りたいなってちょっと思ったよ。だから、入ってもらったわけだし……。でも、それから先のことなんて考えられないよね。今と過去って同じわけじゃないんだし」
「そうだな」
 私はもう言い残したことはないんだな、とわかると、駅に向けて歩いた。後ろを振り返ることはしないようにしたが、後ろ髪は引かれるものだった。昔話だと一笑するのが賢明だと自分に言い聞かせた。


 そうはいっても、女の思い出をすぐに捨てられるほど私は人間はできていない。これから旅はおもしろくなるところで、帰港するまであと何日も彼女のことを思い返すだろう。さきほどまで触れていた彼女のぬくもりが、今も手に残っているようだ。胸が軽く締め付けられるようだった。
 タクシーに乗り波止場へ向かう。タクシーに乗ったのが四時二十分で、着いたのが四十分。なかなかギリギリだなと思ったところだが、着いてみると港には船の姿がなかった。
「そんなバカな」
 港には誰もいない。ギャングウエイが近くに待機しているわけでも、関係者らしい人間が待っている様子もない。

 私はポケットにしまっていた航行予定表を見た。出航の予定は午後五時ではなく、十五時となっていた。
 十五時といえば、携帯電話に邪魔されることがないよう電源を切ってお茶をしていた頃だった。
 私は深くため息をついた。
「おいていかれたか」
 しばらく海を眺めたあと、私はそこを去った。さて、去ったとしていったいどこへ向かうべきなのだろう。飛行機なら追いつけるだろうか? きっと追いつけるだろう。

 ふと、彼女のところへまた寄ってみてはどうかという選択肢が、一つの可能性として頭に浮かんだ。もちろん、その考えはすぐに打ち消された。未練がましいことなどしたくはなかったし、現実逃避は終わりにしなければならなかった。
 次の寄港地は海外だが、旅行会社は何かしら先回りする方法を示してくれるだろう。だが、私は戻りたくなかった。終わらなければならない現実逃避の名残を楽しみたかった。私は踵を返し、ふらりと街へ戻った。

 ――船を下りるということは、その先へ行くことを拒むことである。だが先に行かないとしても、後戻りする方法も存在などしない。では、降りた人間はどこへ行くのだろうか?
 夕方になり明かりが灯り始めた街はやはり趣を保っている。暗闇に看板を浮かび上がらせるスナックの看板を横目に、私は昔の思い出をこころに抱えて街のなかへ没入していった。

文藝MAGAZINE文戯15特集「船」掲載

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