見出し画像

短編小説「仮面の道化師」下

 <上>はこちら

 周囲の人たちはどんどん入れ替わっていく。見物人の数には波があって、人が通りかかったところで大技を出したりすると、やっぱり注目して、足を止めたりする。
 ずっと近くで見ている僕は、いいサクラになっていたかもしれない。もちろん、楽しいことはこの上なかった。彼も僕の存在には気づいているらしく、「次に行くぞ!」というように指を向けてアピールしたり、手を振ったりしてくれた。
 仮面の使い方はさまざまで、ときどき、仮面を涙したものにして身体を震わせて、地面を踏む動作をして、久しぶりの寒空のなか、こんな薄着でやっているんだぞ、と大げさに表現したりもした。
 その動作のとおりに、確かにその日はずいぶん寒くなってきていた。
 午後三時を過ぎたあたりになると、大道芸人たちは次第に帰り始めた。もう春なのに、完全に逆戻りした季節はちらりちらりと雪を降らせまでした。頃合いだったのだろう。
 けれど、僕は仮面の道化師をまだ見ていた。何度目かわからないパフォーマンス、ボールとピンを全部で四つ使ってジャグリングするのを見て、まばらな観衆のなかで熱く一人、拍手した。そしてこの後の展開も僕にはわかっていた。もう何度も見たのだから。彼はわざとピンを一本落として悲しい顔の仮面を見せる、それから……。
 しかし、彼は失敗はしなかった。ボールとピンを一つずつ腕に抱えていって技を終え、観衆に向けて、大げさに「ありがとう」のお辞儀をしてみせた。
 このとき僕は――面白かったよ、ありがとう! さようなら――と、他にいた人たちと一緒に去って行くべきだったのかもしれない。でも、なんだか後ろ髪を引かれる思いで離れられなかった。
 スチールの道具箱に道具をしまっていた彼も、僕が去らないのを見て「残念だよ」という風に名残惜しそうにした。そして今度こそ「さようなら」という具合にバイバイと手を振りながら、仮面をめくりあげて、泣いている仮面を引き出した。
 ついに、この素晴らしい日が終わってしまうのだと僕は悲しく思った。


 ちょうどそのとき、冷たく強い風が吹いた。彼の仮面は風の強さに耐えきれずに浮き上がり、本物の顔が見えた。それは、赤黒く皮膚が焼けた上、さらに傷がついた女の顔だった。彼は――彼ではなく、彼女だった。
 彼女は演技ではなく、素の状態に戻って慌てて仮面をつけなおした。そこにはさっきまでのおどけた様子はなかった。そして急いで道具箱を持ち、去って行った。
 僕は彼女の顔が放った印象で、呆気に取られてしまった。足下にジャグリングのピンが一本、転がっているのに気づいたのはしばらくしてからだった。
 僕はこの忘れ物を手にして、どうしようか考えたけれど、すぐに届けようと思った。
 まだ近くにいるだろうと、僕は彼女が走って行った方向へ向かった。でも見つからなかった。公園の芝生の広場を探したり、トイレの近くで道具箱を持っている人がいないか探したりしていたけれど、それでもどこにも見当たらなかった。
 最初の場所に戻ってきて、しばらくそこで、ピンを手に立っていた。お互いに探していたら見つからないと気づいたからだった。さっきの強い風は嘘のように止んでいて、また静かにちらちら雪が舞っていた。
 ――もしかしたら忘れたことにも気づいてかったりするかも?
 そう考えると、この忘れ物は僕の手元に残ることになりそうだった。しかし今日という一日の思い出にするには、ちょっと重すぎるように思えた。


 すれ違う人たちも少なくなってきた。しかし、どの人もさっきの道化師ではなかった。目立つ人が一人いたけれど、その人は襟にふわふわのついた黒いコートにマフラーをして、帽子もしっかりかぶっていた。今日は確かに寒いけれど一応、春だった。予報ではもっと暖かいはずだったし、いくらこの地域にしてもずいぶん重装備だ……と思った直後に、僕はその意味に気づいた。
 近づいてきた彼女は手を挙げて挨拶した。
「探していたんだ。さっきはごめん、取り乱しちゃって」
 僕は慌ててピンを差し出した。
「着替えたんですね、道具箱は?」
「車に置いてきたよ。それより、ねえ、私のことは秘密にしておいてね」
 秘密、という言葉がちょっと心を締め付ける不思議な感覚で僕に響いた。
「どのあたりが秘密なんですか?」
「わかんないかな……じゃあちょっと、私の車のところまで行こうか」
 雪はなおも降り、彼女の黒いコートについては消えた。僕は彼女についていき、駐車場の角、道具箱が積まれた乗用車に連れてこられた。
「さ、そっちに乗って」
 車のドアロックが解除されると、僕は助手席に乗るように促された。
「まさか、どこかに行ったりしませんよね?」
「その辺を流すだけだよ。きみこそ、彼女とデートに来たわけでもないでしょう? いいからいいから」

灰色の雲が空を覆い、まだ芽吹いていない枝だけの街路樹がそこへ突き刺さる風景の道を、車は走っていった。
 僕は緊張せずにいられなかった。それは仮面の大道芸人が若くて、焼けた皮膚と傷がなければ申し分ないほど美しいし、そもそも傷があっても美しいことにもあった。けれど一番の理由は、顔を見て話したらいいのかどうか、わからなかったことにある。
 でもそのことにはすぐに彼女自身によって触れられた。
「この顔の傷、昔火事に巻き込まれたときのものなんだ。気づいたときには部屋も燃えていてね。顔を焼いた上に、倒れてきた柱がかすって、深い傷もついた。あの日のことは今でも忘れられない」
 運転中だから帽子やマフラーも外しているけれど、サングラスはしている。ときどき、すれ違うドライバーが彼女の顔に気づいて、こちらに視線を向けてきた。
「普通に顔出しの大道芸だと、お客さんが引くからね。そういうのを知られたくない。それで、今はネットもあるし、ちょっと書き込んだだけで拡散しちゃうかもしれない。きみが一流のユーチューバーかもしれないわけだし?」
 だから秘密にしたいの、と彼女は念を押した。それから、僕が一日中、張り付いていたことにも触れた。


「そんなに楽しめた?」
 僕は見ていた限りの感想をいくつも思い浮かべたけれど、やはり仮面や動作での感情表現が面白いと言った。
「嬉しいな。私の自慢できそうなところはそれしかないからね」
 そんなことはない、と僕は言った。
 でも彼女は苦笑いをした。
「いや、本当は気づいてたよね? 当たり前だけど途中から繰り返しで、同じネタばかりやっていたんだよ。芸人の宿命だけどさ。ずっと見られてたから、きつかったね」
 僕は熱くなって、それでもすごい、あれだけ同じように成功したりわざと失敗したりできるんだから、と言った。
「お姉さんは、自分だけのものを持っていて、うらやましいですよ! 仮面の道化師。お姉さんらしさですね」
 そう言うと、
「そういうわけじゃないんだけどな……」
 と、残念そうに答えて路肩の駐車スペースに入った。


「仮面を操って芸をする。これって、とても悲しいことなんだよ。私は自分の素顔を見られたくない。というか、もう本当の自分の顔は失ってしまった。世間では、みんな本当の自分を見せたがっているけど、私にはできない。私は人の前に出てみんなを笑顔にしたいのに、自分の笑顔ではそうはできない。皮肉な話だよ」
 僕は道化師が抱えた悲しい真実を知った。


「世の中は、まだ自分っていうのを誰かに見せられる余地が残っている。私にはうらやましい。自分が見つからないとか、自分がわからないなんて言う人もいるけど、みんな存在しているんだからいいじゃない、それだけでいくらか認められるんだからってね。私なんて、仮面の道化師、中身が誰かもわからない、いくらでも仮面を替えられる悲しい存在だよ」
 僕はなにを言っていいのかわからなかった。彼女の言っていることはわかる。けれどそれこそ僕に欠けていることで、僕なりの答えというものがそこには欠けていた。


「あ、引いちゃった? ごめんね。そういうのに持論があるから」
「どうして大道芸人をしているんですか?」
 彼女は少し考えて言った。
「好きだから、かな。仮面をつけられるのもあるけどね。パーティーとかに派遣される会社にいるから、生活はそれなりだけど、楽じゃないよ。……そう、好きだからやれるんだね」
 僕は彼女の言葉を繰り返してから、つぶやいた。
「好きだから。僕には好きなことってないな……。好きなこともないくらい、無個性な人間だから」
「個性ね……」


 それから彼女はまた話してくれた。
「一般的な人間をイメージしてみて。きっとその人には個性がないはず。一般的な人間だから。でも、ちょっと意識するとなにか特徴が出てくる。男女や背の高さとかは、わかりやすい個性。次に、年齢や学歴や家族、好き嫌い、人生の楽しみ、そういうのを考えていくと、本物の人間になっていく。きみだって、最初はまっさらな無個性なところから始まっただろうけど、今はそうじゃないでしょう? 今、きみはすでに個性ある人間になっている。自分では知らないけど、きみのなかに持っているはず。本当に好きなことがまったくないなんて、ないでしょう? でも……」
 路肩に止めていたところから急に、彼女は右にウインカーを出した。そして後ろを伺いながら、注意深く発進した。


「でも、少年よ。個性はいつも、より強くしていかないといけない。なにか最近、新しいことに挑戦しているかい? 好きなものがないなんて言うけど、見たこともやったこともないことを、急に好きになったりする? なんにだって好きになるチャンスはあるんだから。なにが好きかが一番、自分っていうものを形作ってる。大切なのは意志だよ、気持ちだよ」


 さあ、そろそろ帰らないと、送っていくよ。彼女はそう言って次の交差点をまた曲がった。僕を駅まで送ってくれた。
 そして今度こそ最後だった。僕はドアを閉めて歩道から車を見送った。彼女はパントマイムで「さようなら」と上半身をフルに使ってみせて、車を走らせていった。
 ――好きなこと、挑戦すること、意志、気持ち。
 他人をうらやんでばかりいる僕には全部欠けているように思えた。
 電車のなかで、連絡先を聞かなかったことにはちょっと後悔したけれど、すぐに聞いてしまうことも間違いだったような気がした。よくわからなかった。


 それから彼女のことが気になって、大道芸人やパフォーマー、パーティーへの芸人派遣会社を検索をしてみたけれど、仮面の道化師についてはわからなかった。わからないわけではないけれど、そういう人たちは結構いて、当然だけれど誰も素顔を公開してはいなかった。
 しばらくずっと仮面の彼女のことを考えていた。
 ときどき、どこかで大道芸人の大会が開かれると、多少の距離でも足を伸ばしてみた。けれど、彼女には二度と会うことはなかった。
 もしかしたら仮面の道化師を見つけることは、その自らを隠す仮面のために、永遠にできないのかもしれない。

おわり

文藝MAGAZINE文戯3 2018 Spring 掲載

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?