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【1%】日本という島国で、クリスチャンとして生まれ、成長した僕は何を思うか

この記事は、クリスチャン向けに限定して作成したものではなく、またクリスチャンでない方にキリスト教の魅力を伝える内容でもないです。

この記事では、読み手がクリスチャンである、クリスチャンでないに限らず、日本という国で、クリスチャンとして生まれ育った、僕という1人の人間の葛藤や感謝を、できるだけ平らな言葉で(専門用語を使わず、誰にでも分かる言葉で)、語ることを目指しています。

個人の意見になるので、「あー、クリスチャンにはこんなことを考えている人が1人いるんだな」程度に、読み進めていただけると幸いです。


【1】 出生〜小学生


僕は、クリスチャンファミリーに生まれました。

さて、日本国内のクリスチャンは、総人口の1%に満たないと言われています。

なので、国内においては非常に「珍しい存在」と言うことができるのではないでしょうか。

僕は物心つかない頃から地元のプロテスタント教会に通い、食前の祈り(海外の映画とかでよく観ると思います)を毎日するなど、日本では当たり前ではないことが、僕にとってはごく自然なことだったのです。

しかし、小学校の友達と話す中で、他に教会に通う友達はいなく、自分が珍しい存在であることを、何となく肌で感じていました。

実際、当時は教会の友達、お兄さん・お姉さんと遊ぶために、教会に通っていました(一緒にDSやってくれたり、サッカーしてくれたりするもので…^^;)。

そして、教会に通う子供達を対象にした夏のキャンプに参加した「流れ」で、10歳の頃に洗礼(クリスチャンになるための、仰々しく言えば儀式)を受けます。

この「流れ」がポイントで、少なくともこの当時は、自分の中で何かを信仰する気持ちは十分に満ちたものではありませんでした。

ただ漠然と、自分には悪いところが沢山ある(キリスト教的に言うと「罪がある」)ことは理解していました。


【2】 中学生


中学生になった僕は、人並みに好きな人ができたり、定期試験の結果に一喜一憂したり、部活に毎日励んだりと、よくいる10代半ばの1人の少年でした。

更に、中学生になれば、色々と客観視するようになりますよね。

例えば、学校の授業を通して、世界には様々な宗教があること(歴史の文脈を含む)を学び、「進化論」など聖書の内容と矛盾するのではないか、と感じる内容も学びます。

そして、自分のクリスチャンというアイデンティティが、日本国内でどの程度珍しいかを少しずつリアリティを持った形で知ります。

そのため、「自分が今の家庭に生まれなかった場合、果たしてクリスチャンになっていたのか?」と疑問を抱くこともありました。

しかし、今思えばこの時に得た「客観性」の感覚は、それ以降僕が(特に日本国内で)クリスチャンとして生きていく中で、非常に重要なエッセンスになっていきます。


【3】 高校生


さて、高校入学直前を含めると、僕はこの時期に大きく2つの挫折を経験しています。

1つは、高校受験になります。あー、今思い出しても本当に苦しい思い出です。

前提として僕は天才ではないので、勉強も人並みかそれ以上の努力が必要なのですが、当時の僕は夏の模試の結果に自惚れ、日々の勉強を怠りました。

すると当然、その後の模試の判定結果は毎回芳しくなく、志望する学校に合格できるかどうか、僕だけでなく家族も気を揉む毎日でした。

もう1つは、部活動です。

僕は陸上部に中学生の頃から所属し、短距離走を専門としていましたが、高校入学後に大怪我をして走れなくなり、その道が閉ざされます。

訳あってやり投げに転向することになるのですが(背景は別の記事で説明しますね^^;)、その後も練習環境が長い間見つからず、当時を思い返せば、鬱状態に近い状態にありました(毎日ずっと左胸が痛かった)。

そんな中、聖書にある次の言葉と出会います。

あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたが耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。

コリントの信徒への手紙一10:13(聖書 新共同訳 1987年版)

僕なりにその「逃れる道」を願い、祈っていたところ、暫く経って非常に良い環境が少しずつ整えられていきました。

その後、やり投げが自分自身のアイデンティティになっていくなど、結果的に遠回りをしたけれど、受験を含めて自分にとって最善の道が与えられたように思ったのです。

望んだらプレゼントが貰えた!という感覚ではなく、自分が最初からそれを望んだ訳ではないけれど、結果的にそれが最善の道だったなと後から思う感覚に近いです。ん、Connecting the dots?ジョブズ兄さん?

なので、僕は10歳の時に(正直なところ)「流れで」洗礼を受けましたが、自分の中でようやく聖書の意味や、それが自分にもたらすものを理解するようになったのは、この頃になります。


【4】 大学生


大学生になり、関わる人の多様性もより豊かになります。

僕は、この4年間で多くのことを経験しました。

出会いの中で、世の中で「キリスト教」と言われる大きな枠組みの中にも、色々な考え方を持つ教会や人々がいることを知り、その活動の仕方に違和感を覚えることがあったり、「クリスチャン」と一括りにして発言をされることへの抵抗感もありました。

しかし、別の考え方の方々、無宗教を含むクリスチャンではない方々と、お互いの価値観についてリスペクトを持って対話をしていく中で、全てが自分にとって良い経験ではありませんが、多くのことを学びました。

そして、この頃から教会の在り方(あるいは在るべき姿)について、自分なりに考えるようになりました。

きっかけは、渡米した際に現地の教会に行った時です。

現地の教会が、近所のホームレスの方々を受け入れる様子を見て、「教会は外部・内部に対して、どのような存在であるべきか」を今一度考えたいと思ったのです。

色々な考え方があると思いますが、僕は教会に通う方々にとっては「帰る場所」でありたいし、そうではない方々にとっては困った時、精神的に疲れた時に「助けを求めることができる場所、立ち寄ることができる場所」でありたいと考えており、今もこの思考の試みは続いています。


【5】〜現在


さて、この春から社会人になり、会社には様々な宗教の方々、無宗教の方々がいらっしゃいます。

日本国内には無宗教の方が多いので、その方々の多くにとって何かを信仰するということは、良く分からないことなのではないでしょうか。

昨今は多様性を推進する社会潮流の影響で、宗教に寛容な方々が増えている気がしており、そのこと自体は本当に感謝すべきことだと思います。

自分にとってクリスチャンは変わらず大切なアイデンティティですが、同時に僕は「客観的」でありたいと思います。

つまり、自分の価値観を大切にしつつも、それに固執せず、客観性を携え、相手をリスペクトして、他者と対話したいと思っています。

なぜなら、まず僕の生い立ち自体日本では珍しいし、他の宗教を信仰する方々も、上記の僕のように、十人十色自分なりのストーリーや背景があって信仰されていると思うからです。

だから、僕は他の宗教のことも勉強していますし、無宗教の方々の価値観にもリスペクトを持って耳を傾けることで、自分の価値観を大切にしつつ、他者の文脈を理解して対話ができる人でありたいと思います。

また、自分がキリスト教について語ることがあるのであれば、相手が理解できるように言葉を言い換える必要があると思っています。

僕だって他の宗教の言葉をそのまま伝えられたらびっくりしてしまいますからね。

いずれにおいても、大切なことは自分の考えを押し付けないことであり、その過程に「強制(~しなければならない)の観念」は決してあってはならないと思います。


最後に


「クリスチャン」というアイデンティティは、今では祖母から受け継ぐ自分の誇りです。

そして、聖書の言葉及び価値観は、僕にとって非常に大切なものです。

実際、無宗教の方が多い日本には、宗教に対してポジティブな印象がある方もいれば、ネガティブなイメージを持っている方もいらっしゃるかもしれません。

僕は現在、真の意味で「賢いクリスチャン」になることを目指しています。

つまり、上記にあるように、自分の考え方に固執せず、客観的な広い視野を持ち、他者の文脈を理解して、対話ができる人でありたいと思います。

日本という島国で、僕はクリスチャンとして生まれ、成長する。

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