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【告別②】祖母が人生をかけて僕に伝えたかったことは何か

最愛の祖母が亡くなりました。

祖父が亡くなってから、ほんの少しの出来事です。

その日は、祖母の誕生日でした。

祖母は同じ日に生まれ、天国に帰りました。

祖母が亡くなる1週間前、僕は祖母と握手を交わしました。

「また会おうね。」と言って別れました。

祖母は1週間後に退院して自宅に戻り、経過観察をする予定だったからです。

仕事から帰宅し、訃報の連絡を受け取った時、僕は文字通り膝から崩れ落ち、冷蔵庫の前で嗚咽しました。

祖母の存在が、僕にとってどれほど大きかったのかは、これまでのnoteを見れば誰にでもある程度分かるだろうし、僕にとって隣人と言える人にはよくよく分かることだと思います。

祖母は間違いなく、僕の精神の生みの親でした。




【1】 告別式


告別式の中身にはあまり触れるつもりはありません。

天気の悪い日が続く中、その日は快晴で暖かい気候に恵まれました。

祖母の通い詰めた教会で行われた葬儀には、平日にも関わらず100名以上の人々が集まり、礼拝堂の横に仮設エリアが作られました。

多くの人にとっての「ビッグママ」であった祖母の気配が、どこかに感じられました。

僕は約1時間の葬儀の前後、目を開けることも、言葉を発することも出来ませんでした。

そうでないと、自分の中の何かが崩れる気がしたからです。

葬儀の開始前、目を瞑る僕の耳には、周囲の人達のすすり泣く声が聞こえました。

彼・彼女らは、「悲しいねえ」「信じられないよ」「○○さんの人生はこれからだったのに」と涙ながらに語っていました。

しかし、聞くところによれば、祖母はこれから苦しい治療が始まる予定だったが、その直前に亡くなったらしいです。

やはり、僕達の目から見ると、その時々には意味の分からない出来事も、全ては神の下で最善なのだと確信します。


【2】 祖母と最後に会った日


祖父の死後、祖母はすぐに体調を崩しました。

その時には、医者がもはやどの程度の進行状態かを説明するまでもない、ひどく病状が進んだ状態でした。

僕を含め、祖母をずっと気に掛けていた親族の誰も気付きませんでした。

祖母がどれだけ無理をしていたか、ということです。

僕は二度、祖母が入院する病院を訪れることが出来ました。

そこには、見たことないくらい瘦せ細り、着けていたマスクがぶかぶかになった祖母の姿がありました。

僕が祖母と話す様子を親族が撮影していたので、その動画を見返すと祖母が僕に伝えたことは次の3つのことでした。

①人生を十分に楽しませてもらったから、自分の(死の)順番が来たなら、それを喜んで受け入れること
②(僕は)一人暮らしに慣れたか、仕事は大変じゃないか、きちんと食べられているのか
③いつ、なんどきも僕のことを想い、祈っていること

祖母は、自分の体調ではなく、僕の話を聴き、僕の心配をしました。

祖母はそのような、愛の本質を具現化したような存在でした。

Givingで、徹底的で、安定していました。

Givenで、言動が二転三転し、不安定な僕とは大違いです。

祖母は徹底して他者に与え、自分にはどこまでも質素な人でした。

僕ら兄弟の逆おさがり(?)をいつも着ていて、黄色のノースフェイスの手袋に、黄緑とピンクのアディダスのサッカーシューズを履き、ぼろぼろになったノーブランドの赤いセーターを喜んで着る、そんな人でした。

自分の口座は無一文なのに、僕と弟のために必死に貯金をし、大学を卒業した時に、「結婚式などの大切な時に使ってください」とお金を渡してくれる、そんな人でした。

教会では必ず右最前列の椅子に座り、牧師の話を微笑み、頷きながら聴き、病気で入院していた友人が久しぶりに教会に訪れると、走って行き手を取り一緒に祈る、そんな人でした。

祖父が亡くなってから、僕の親とその兄弟姉妹の携帯の待ち受け画面は、みな祖母の顔写真になっていました。

「愛は、与えることによってしか得ることはできない。」その単純で最も難しい真理を、祖母は自らの人生を通して僕に伝えてくれた、そのように思います。


【3】 3つの後悔


僕は祖母との関わりの中で、3つ後悔していることがあります。

1つは、まだ僕が幼稚園児の頃の話です。

タクシーで移動する間、僕の母親と祖母が口論をしました。

僕は子供なりの正義感を持って親の味方をし、親を守りたい一心で、祖母にタクシーから降りるようにせがみました。

祖母はその後、一駅分の距離を歩いて帰宅したそうです。

2つ目は、僕が小学校の頃です。

祖母はスーパーばあちゃんでした。

サッカーシューズを履いて僕とよくサッカーをしたり、ドッジボールをしました。

しかし、僕はとある日、ドッジボールをしていた際に、祖母を突き指させてしまいました。

思えば、あの時から祖母は野外で運動をすることが無くなったように思います。

最後は、現在進行形です。

祖母に結婚相手どころか、彼女の1人すら紹介することが出来ませんでした。

こんな欠けだらけの僕だけれど、愛してくれる存在がいることを知った、祖母の顔が見たかった。

その人が祖母と話す様子を見たかった。

そして、その後こっそり祖母から「いい子だね。〇ちゃんはやっぱりセンスがいいね。」と言われたかった。

その日までは頑張りたい、と言ってくれていたが、僕の未熟さ故、それは実現出来ませんでした。


【4】 祖母が遺したもの


祖母が亡くなった後、周囲の人間が祖母の意思を引き継ぐ様子が、どことなく見られました。

異常な人見知りの僕の親も、教会に初めて来て右往左往する人がいれば、自ら声をかけて助けるようになりました。

きっと、祖母の教会の人達も同じように、祖母の意思を引き継いでいるのではないか、と思います。

僕は『塩狩峠』の”信夫”を思い出さずにはいられません。

祖母は第二次世界大戦を生き抜き(その間に、祖母は兄妹を亡くした)、30歳を手前にして、洗礼(バプテスマ)を受けました。

だから、信仰無く生きる感覚もよく分かる、非常にバランスに優れた人だったし(だからこそ、クリスチャンではない人への理解や寄り添いを常に意識していた)、信仰を持つことに対する想いや考えは人一倍しっかりして、論理的でした。

ちなみに、少なくとも僕はそうだし、恐らく親族や祖母の教会の多くの人達も、何も狂信的に今の信仰に至ったわけではありません。

結果的に、今は聖書の言葉を信じて生きているかもしれませんが、初めからそうではなかったのです。

沢山失敗をして、色々な価値観と比較し、紆余曲折しながら、それでも今の選択をしています。

祖母の姿を見て、自分もそのように生きたい、そのような、ある種ボトムアップ的な思考の中で少しずつ変化してきました。

そのことは、下記のnoteでも少し言及しています。

まあ正直、日本国内でクリスチャンとして生きる人生は、難しいことも少なくないです。

人からの本質的な理解は99%得られないし(原因は無関心さにあると思う)、幼少期は周りから「隠れキリシタン?」とからかわれることもありました。

年齢を重ねてからも、異性として距離を縮めつつあった人に、自分のアイデンティティを伝えると、目から色が失われるのを目の当たりにする、そんな経験も幾度かしました。

クリスチャンの友人と食事に行き、食前に小さな声で軽く祈っていると、店員から白い目で見られることもありました。

また、日々生きる中で、沢山の誘惑に苛まれることもあります。

正直、本能のままに生きられたらどれくらい楽か、と思うこともあります。

「○○君、若いんだから(異性と)遊びなよ」と言われることもよくあるし、平気で家族やパートナーを裏切る人達もよく見ました。

むしろ、そのような行為をすること自体が、自分のステータスだと思う大人達とも沢山会いました。

僕はその度に、笑ってごまかしました。

しかし、僕はそれ以上に、信仰によって自分自身が助けられたと確信しています。

けれど、この感覚は僕が24年間という長い時間をかけて会得したものであって、この感覚がすぐに他者に伝わるとも毛頭思っていません。

だから僕は、「クリスチャンであることの魅力」を可能な限り平らな言葉で言語化し、自らの聖書に書き溜めている(中には笑ってしまうものもありますが)。

今回はそれを一覧化しておこうと思います。

もしかしたら、数年後、数十年後にこれを読んだ人に届くかもしれないことを願って。

・愛によって、自らが創造されたことを確信できる
・物事を最善に委ねることができる(自分で背負う必要がない)
・最善の道が与えられていると確信するからこそ、安心して生きることができる
・クリスマスの本当の意味を知っているから、クリぼっちも寂しくない
・神の家族が与えられている(皆のために日々祈り、皆が自分のために日々祈ってくれていることを知っている)
・死んでも生きる命が与えられている
(その他)


【5】 後日談(エピローグ)


祖父と祖母が半生以上を過ごした街には、まだ二人の香りが漂っているような気がします。

毎年帰省したあの街に、僕はこれからどのような気持ちで戻るのでしょうか。

その後、祖母の死から約1ヶ月くらい経った頃だろうか、親から速達が届きました。

そこには2cmほどの厚みがあるファイルが1冊入っていました。

そのファイルを開くと、中にはこの24年間、祖母から送られて来た手紙が100通以上ファイリングされていました。

僕も手元で10通ほど持っているので、合わせるとその数は150通に迫るでしょうか。

手紙から受け取った愛情はもはや言及する必要もありませんが、その100通以上の手紙には頻出のフレーズがありました。

僕にとって祖母の形見は、僕が約15年使っている聖書です。

今では大量のメモが書かれ、マーカーが引かれていますが、ちゃんと使うようになったのは紆余曲折あり、大学生の頃です。

その最後のページには、祖母からのメッセージが書かれています。

手紙の頻出フレーズと、聖書の巻末に書かれているフレーズは同じで、それは次の聖書の言葉でした。

わたしの目には、あなたは高価で尊い。 わたしはあなたを愛している。

イザヤ43:4(聖書 新共同訳 1987年版)

祖母はきっと、人生をかけてこの言葉とその意味を僕に伝えたかったのだと思います。

今、僕の人生において、仕事は{ペテロの第一の手紙:4:10}をベースに、プライベートは{イザヤ43:4}をベースに(相互にオーバーラップする部分もありますが)成り立っています。

うん、あなたの想いはしっかり僕に届いています。


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