【実話】僕はなぜ、その日生まれてはじめて「生きててよかった」と声に出して泣いたのか
この記事は、僕と祖父母のエピソードです。
そして、人生で「生きててよかった」と心の底から思った瞬間です。
本編に入る前に、僕は時々、次のような疑問を抱くことがありました。
つまり、自分の非代替可能性(他の人では代替できない、僕でなければいけない理由)を常に考えていました。
周りを見渡せば、どの領域においても自分より優れている人がいます。
僕にしかできないことは何か?僕にしかない価値とは何か?僕がいなくても世界は普段通り回り続ける?
自分なりの解を見つけることができず、自己肯定感が下がることもしばしば。
僕はクリスチャンであり、聖書のイザヤ43:4にある「わたしの目には、あなたは高価で尊い。 わたしはあなたを愛している。」という聖句を信じています。
ただ、「実感を伴って」この意味を理解することは、少なくとも当時の僕にとって決して簡単なことではありませんでした。
さて、少し前置きが長くなりましたが…。
ここからのエピソードは、自分の「非代替可能性」について悩む1人の大学生が、祖父母と過ごした7日間についてのお話です。
【1】 2年ぶり、7日間の滞在
2021年10月頃、全国のコロナ感染者数は減少傾向にありました。
僕もワクチンを無事に接種することができたので、「今しかない」と思い、実に2年ぶりに大阪にある祖父母の家を1人で訪問することにします。
目的は色々ありますが、数年前から祖母が祖父を介護しているため、何かサポートができればと思っていましたし、また進路が決まったので報告できればと思いました。
祖父母の家には、合計で7日間ほど滞在することになります。
1~4日目は、故郷を1人で散歩したり、親戚と食事をしたりしました。
進路の報告や近況のシェアなどもしつつ、普段は近所に住む親戚が祖父母の介護補助をしているため、祖父母の日常について話しました。
普段帰省する時は家族と一緒なので、1人で行くのは初めてになります。
その土地の空気をゆっくり吸って、万歩計が驚くくらい歩いて。
普段行かないような喫茶店にも入ったり、何を頼めばいいか分からず早々に出て、大阪駅付近のヨドバシカメラのビルの中を往復したりして。
叔母とプチ旅行をして深夜3時までお酒を飲んだり、まだ幼い従妹にディズニーのタンブラーを買ってあげたり、尊い時間でした。
5日目には、祖父を車椅子に乗せて、家の近所を祖父母と叔母の4人で、1時間ほど散歩しました。
雲一つない、至高の天気だったことを覚えています。
祖父は、その土地の歴史を僕に教えてくれたり、写真のクラウド機能について興味を持っていたので、逆に僕がその仕組みを説明したりしました。
祖父母の家は極寒ですが、厚くて重さのある布団が懐かしくて、安心感があります。繊細な温度調節なんて全くない、灯油ストーブの匂いがこの思い出を蘇らせます。
6日目には、祖母と中華料理店で食事をしました。多分、2人で食事をするのは初めてです。
僕は割と遠慮しいですが、その日は自分の好きなものを頼むことが孝行だと思ったので、「ふかひれスープ」を頼みました。
2時間弱ほどの食事の間、祖母は僕が20年間聞いたことのなかった話を沢山してくれました。
僕という存在が祖父母2人にとってどのような存在なのかを共有してくれたり、また僕の将来の結婚相手についても色々アドバイスをくれました。
ここで聞いた内容は敢えて書きませんが、しっかり僕の心に留めていて、もし将来僕との結婚を考えてくれる誠実な人が現れることがあれば、その時に話そうと思います。
【2】 手づくりの料理
7日目。僕は2人のために、料理を作ることにします。
レシピは既に考えており、当日1人で買い出しにでも行こうと思っていましたが、冷蔵庫を開けると、そこには大量の食材がありました。
それも、どれもが僕の好きな食材です。
聞くと、僕が料理を作ると言うので、祖母が僕の外出中に買い出しに行ってくれていたそうです。
スーパーも決して近くにあるわけではないので、細い体でこの大量の荷物を運んでくれたのかと思うと、「感動」ではうまく表すことのできない感情に包まれたことを覚えています。
僕はその場にあった材料で五目炒飯とエビの中華炒め、牛肉とネギのスープを作りました。予定変更なので、どれも新作・即席です。
クックパッドをよく読み込み、普段以上に灰汁取りを丁寧にして、とにかくこの時間を良い時にしたいという気持ちでいっぱい。
無事に料理も完成し、3人で食卓を囲みました。
いただきます。
ひと口かき込んで、悪くない味だったので一安心。
丁度その時、僕の目の前にはリビングの壁があり、そこには僕を含む3人の孫の写真が大量に貼っていました。
少し引くレベルに大量だけれど、そこには僕たち兄弟が祖父母と一緒に過ごした、1つ1つの思い出が詰まっています。
さて、僕の料理を食べた祖父母の反応が気になるので、僕は2人のリアクションを見るために、隣に目を移しました。
そこには、「嬉しい…。嬉しい…。」と声に出して、涙を流す祖父母の姿がありました。
【3】 僕はその日、生まれてはじめて「生きててよかった」と声に出して泣く
自宅に帰る日のことは、今も鮮明に覚えています。
午前中に近所の大学で資格試験を受験し、その後駅前にある行きつけのファミレスで祖父母と昼の食事しました。
「多分試験の結果は微妙」と伝えると、祖父母は挑戦したそんな僕のあり方を褒めてくれました。
普段生きてて、そんなに褒められることって無くて。
なのに、一度失敗すれば沢山怒られたり、周囲にバッシングされたり。
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その後、車椅子を押して帰宅し、身支度を終え、あとは出発の時間を待つのみとなりました。
テレビではあまり興味のないお昼の番組が放送されていましたが、僕は祖父母と共通の話題を必死に探していました。
僕はあと何度、目の前のこの2人と話すことができるのか。
そして、時刻の針が「13時」を指します。
別れの時間とは、なぜここまで寂しいのか。
まず、僕はソファーで横になる祖父と握手をしました。
その手は、とても力強かった。
その握力を通して、何かを「励まし」と「メッセージ」を伝えられている気がしました。
そして、僕は祖母と玄関に向かいます。
名残惜しくなるのが怖いから、祖母との挨拶もほどほどにして、スーツケースを片手に歩き出しました。
祖父母の家の前には、大通りに突き当たる30mほどの直線の道があります。
つまり、大通りに出る際に、一度だけ振り返るチャンスがあるのです。
迷いましたが、振り返らないと絶対あとで後悔する。
そう思い、僕は足を止めて、後ろを振り返りました。
そこには、右手で目尻を拭う祖母の姿がありました。
…。
僕は右手を軽くあげて、角を曲がり大通りに出ました。
その瞬間、嗚咽とともに大量の涙が溢れ出してきました。
昨夜、祖父母は「美味しい」ではなく、「嬉しい」と呟いていました。
きっと、祖父母にとっては「僕」が料理を作ったことに意味があったのだと思います。
他の誰でもない、「僕」でなければいけなかったのです。
そこには、他者より何が優れている劣っているとか、そのような比較論は存在せず、代わりに祖父母の「愛」が存在していました。
僕はその瞬間、
はじめて、「無条件の愛」という言葉の意味を理解できた気がしました。
はじめて、本質的に誰かの役に立つことができたと実感しました。
はじめて、自分が尊い存在であることを、実感を伴って理解することができました。
僕は、生まれてはじめて「生きててよかった」と声に出して泣く。
最後に
僕は、人生に彩りを与えるのは、やはり「愛」だと思うのです。
愛の形は、様々あると思います。
それは、家族や恋人、友人との関わりの中で生まれることもあります。
また、その表現は仕事を通して、趣味や、好きなアーティストを応援することを通してかもしれません。
自分に足りないことを恥じ、落胆するのではなく、自分が今持っているモノ・コトに感謝をして、「愛」を中心にして毎日を過ごすことが、この世界で人生を幸せに生きる方法なのではないかと思います。
おまけですが、
僕は、大切な思い出と音楽を接続します。
その当時、the shes goneさんの「ラベンダー」を聴いていました。
この曲を聴くと、その時の綺麗な空、広くどこまでも続くの直線の道、祖父母と過ごした時間、色々なことを思い出します。
僕の拙い文章でどれほど当時の情景を表現できたかは分かりませんが、少なくとも僕の人生にとって衝撃的で、物凄く印象的な一週間であることは間違いありません。
愛する祖父母に捧ぐ。
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