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【前編】僕にとってのUtopia(ユートピア)は何か

はじめに、本投稿をもってnoteの更新に区切りを付けたいと思います。タイトルは『ユートピア』、つまり理想郷です。

最後のnoteでは、僕が理想とする人生観について言及します。

かれこれ3年ほどnoteを書き続けましたが、元はと言えばnoteを始めた理由は6つありました。

①僕の人生を線で語るため
②自らの思考を整理するため
③その時々の価値観や感情を書き溜めるため
④マイルストーンを設定(宣言)するため
⑤同じ座標を一緒に目指す仲間を増やすため
⑥僕自身に関する誤解を解くため

詳しくは、過去の2つの記事にあります。

①~⑥のいずれの目的も、noteを用いて一定程度実現したと感じており、区切りを付けることにしました。

また、最近恩師から「幸せになれ」と言われたことをきっかけに、自分にとっての「幸せ」とは何かに今一度向き合いたいと思います。

このnoteは2つのパートに分かれており、前半は①仕事、②パートナー、③死生観の3つのポイントを扱います。

【1】 仕事


以前の記事で言及した通り、僕の仕事の原動力は次の聖書箇所にあります。

あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。

ペテロの第一の手紙:4:10(聖書 新共同訳 1987年版)

そのビジョンを実現するために「人のタレントを活かす」ことをミッションとして、仕事をしています。

そして、そのビジョンを実現する過程で生まれる「鍵と鍵穴が結びつく」世界観については、大学を卒業する際の記事にまとめられています。

そのミッションをを達成するための手段として、30歳の時に100〜300名程度の上場企業の人事担当役員になっていることを想定してキャリア設計をしています。

最近、マッキンゼー出身の知り合いに「それって、転職エージェントでも良くない?」と突っ込みを受けましたが、正直たしかになあ、と思いました。

より個人にフォーカスを当てて、鍵と鍵穴を結び付けていく、そんなビジョンの実現の仕方もあるかもしれません。

けれど、CHROという立場の方が自分の船を持ちつつ、より特定の範囲に中長期的に関わることが出来るため、その辺りは諸先輩方から学びながら引き続き検討したいと思います。

まあ、執着すると全体感を失うし、現在取り組んでいる事業開発や営業も非常に楽しいこともあって、自分の中の羅針盤は大切にしつつ、足元は色々なことに挑戦しながら楽しみたいと思います。

その時々で価値観は変遷しますが、根幹の考え方自体は全く変わらないから、多分これからも山の登り方を切り替えたとしても、根幹の思想自体は大きくブレることはないのだろうなと思います。

約5年後、30歳になった後のキャリアは何も考えていませんが、30歳になる前に1つ自分には取り組まねばならないことがあります。

それは、介護領域において、介護者を肉体的・精神的(出来れば経済的)負担から解放することです。

祖父母が亡くなり、身近な問題として捉えづらくなりましたが、親世代が高齢者になる頃に再生産される問題です。

祖父母を助けることができなかった分、この課題に一矢報いることは、僕の責務のように感じています(勝手にね)。

現状、介護は非常に多くの国民の経済的負担と、ごく少数の人の精神的、肉体的負担を生んでいるのではないでしょうか。

僕が今取り組む事業は介護とかけ離れているように見えますが、その事業の意味・意義は、「これまでは価値が付かなかったものに価値が付くこと」、更にはそれによって「新しい動機をつくること」だと思います。

これまでは経済的価値が付きにくかった、人の「優しさ」や「センス」に価値が付き、従来結び付かなかった鍵と鍵穴が結びつく、そんな世界観を実現することが出来ると考えています。

多忙な現代の日本人にとって、見ず知らずの近所に住むおじいさんおばあさんを助ける動機は生まれにくいのではないでしょうか。

しかし、近所に住む「山田のばあちゃん」を助ける動機を新たに生むことを実現出来るかもしれないのが、僕が今取り組んでいる事業です。

僕は正直、他人が何をしているかとか、どこの団体に所属しているかには全くもって関心がありません。

むしろ、なぜそれをしているか、その仕事をもって何を実現したいのか、の方に関心があります。

先述の仕事内容や所属については、なにをもって測るか次第ですが、正直僕の尺度からすれば十分すごい人だらけです。

大きなお金を動かしたり、化粧品や洋服を作ったり、建物を建てたり、道路を整備したり、作曲をしたり。

その形は経営者として起業をしたり、サラリーマンやフリーランスだったり様々ですが、皆すごいです。だって、皆頑張ってますよね?この認識は甘いですか?

結局、人をその人たらしめるのは、その人が持つ「表現」だと思います。

ここで言う「表現」は、なにもセンスが必要なアートやお洒落に限った話ではなく、その人の言葉遣いや振舞い、出すオーラ、お金の使い方、更に数々の選択の根幹にある価値観や思想のことを指します。

だからこそ僕は、「僕の表現とは何か」と日頃から考えているわけです。


【2】 パートナー


僕は兼ねてから「彼女は要らないが、パートナーが欲しい」と思っているし、公言しています。

ここで言う「彼女は要らない」とは、性別に依存した役割を果たす必要は必ずしもない(「母性」とか一定の要素は重要)と思うから、「彼氏だから」「彼女だから」みたいな鍵括弧付きの役割や、生々しさや駆け引きを伴う男女の関係性にはあまり関心がないことを意味します。

一方、「パートナーが欲しい」とは、「血の繋がった家族(縦の関係)」とは異なる「横の関係」として、誰かの絶対的な味方になりたいし、自分にとっての絶対的な味方が欲しい、ということを指します(共依存ではなくね)。

また、仕事や娯楽も細々と一緒に楽しめたら嬉しいなとも思います。Two is better than oneとあるように、お互いを最も理解し、一緒に楽しく生きていくパートナーが欲しいです。

その上で、自分自身が試行錯誤し、葛藤した結果、僕の中で一定の結論が出たことがあります。

それは、「相手がクリスチャン、またはその価値観を知りたいと真剣に向き合ってくれる人以外とは交際しない」ということです。

これまで僕が交際した方達は、クリスチャンではありませんでした。

本当に異性として魅力的で好きだったし、中には僕の価値観に寄り添ってくれた方もいて(僕は素でいられた)、もう交際関係にはないけれど、今もなお、人間として心から尊敬しており、もし話す機会があれば近況をゆっくり話したいと思います。

世の中の99%の人は、僕に対して「黙っていればかっこいいのに」とか「癖が強くて一緒にいると疲れる」とか、そんなことばっかり言いますが、そうやって中には僕のことを肯定してくれる人もいるんだ、ということに気付くことが出来て、本当に救われてきました。

けれど、1人で教会に通う日々は不安でした。

noteを見れば分かるように、僕は仕事に限らず、様々な価値観の根幹に聖書を据えています。

それは結果的とも言えるし、今は意図的な部分もありますが、その深いところを含めて会話することが難しいことは、上記の「パートナーが欲しい」という基本スタンスと矛盾します。

暮らしのパート(次のnoteの対象)にも関連しますが、僕は日曜日は午前中に教会へ足を運び、そのまま家族や友人と庭でランチを食べる生活をしたいと考えています。

僕は何だかんだ何かしらの仕事は永続的に続けるはずなので、人並みに時間のやりくりが必要な生活を送ると思いますが、それでも日曜日は自分自身と身近な人を大切にする時間としたいです。

かといって、僕は強引に信仰を押し付けるようなタイプではありませんし、というか信仰は強引に押し付けられるようなものではないと思います。

むしろ、神と個々人の関係性の中で、各々のタイムゾーンの中で紡がれていくものだと思います。

だからこそ、自力では埋めることが出来ない溝を神に委ねることしか出来ず、不安にかられることも多くありました(委ねきれない自分も、それはそれで弱い)。

勿論、自分の親を含め、元々クリスチャンではなかった人が、配偶者を通してクリスチャンになるパターンもあるし、それを近くで見てきたからこそ、必ずしも相手がクリスチャンでないといけないと名言するつもりはありません。

しかし、知りたいと思う「気持ち」と「行動」が見られない限りは、まず交際しようとは思いません。

「極端だ」とか「ハードルが高い」とか、そのような声が聞こえるような気がして。気持ちは分かります。

けれど、これは僕が色々な経験をした上で、お互いが傷つかないために辿り着いた一つの答えです。

ただ、大前提、僕が人間的に魅力があり、且つ僕から主体的に相手を知ろうとした先に生まれる状態だと思います。

だから、これまでとすることは同じだけれど、自分の中の尺度がシャープになりました。


【3】 死生観


僕は、人間の「生」と「死」には、それぞれ意味があると思います。

僕が大学1年生の頃だったと思いますが、ブラジルで飛行機が墜落し、牧師とその配偶者の方が亡くなる事件がありました。

僕は当時、なぜだろうと真剣に悩みました(当時の彼女に、大学の図書館の前で。1~2時間くらいこの話に付き合ってもらった記憶が鮮明にあります)。

神が本当にいるならば、その存在を人へ伝道する尊い仕事をする人を、何故「死の運命」に遭わせたのだろう、と疑問に思いました。

しかし、僕の祖母の様に、誰かの死を通して周囲の人間に変化があれば、その死には意味があったと言うことが出来るのではないでしょうか。

僕が生かされている理由があるとすれば、思い浮かぶことは1つ。

それは、「愛」という概念の本質を、僕という存在を通して一緒に考えることなのではないかと思います(間違っても「教える」ではなく「一緒に考える」というスタンスであることがポイントです)。

1つは、仕事を通じて「愛の本質」を考えたいと思います。

僕は、「自らのタレントが生かされる」状態は、その人にとっての居場所が出来ることだと思います。

例えば、僕は英語について、帰国子女ほどではありませんが、一般の日本人と比較するとかなり出来の良い方だと思います。

前職は、上司がアメリカ人で周りもグローバル経験が豊富な同僚ばかりだったので、むしろ僕の英語力はチームの足を引っ張るような状況でした。

しかし、現在の職場は英語を話せる人が少なく、こんな僕の英語が重宝されて、それがお金になります。

鍵が適切な鍵穴と出会うことで居場所が作られる、典型的な例だと思います。

2つ目は、僕という存在との直接的な関わりを通して「愛の本質」を考えたいと思います。

僕はこれまで、本当に多くの、愛が不足していると感じる人と出会った。

僕自身も、異性との関係性における愛に比較的渇いた人間だと思いますが、家族やパートナー、友人、様々な関係性の中で、愛が不足している人を見ました。

中には、精神的側面ではなく、肉体的側面や経済的側面の愛=本当の愛と誤解し、自らが傷つく道から逃れることが出来ない人達とも大勢会いました。

だからこそ、僕の存在を通して、精神的側面からつくられる愛情や繋がりをゆっくり時間をかけて知ってもらえたらなと思います。

また、自らの最期について。

2024年元日に発生した航空機の衝突事故の際、煙が立ち込める機内で避難路を若者に譲る老夫婦がいたと聞きました。

僕がそのように勇敢になれる自信はないけれど、後世に出来ることはした上で、パートナーと手を握り、静かに自分たちの定めを受け入れ、「またすぐ会いましょう」と言える、そんな人になりたいです。

つづく・・・。


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