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論理について

 「メディアリテラシー」という言葉を知ったのは、中学生の頃。国語の教材文の一つが、「メディアリテラシー」について書かれたものだった。そして、それを題材に卒業文集の文章を書いた。


 今思えば、少し理解が不十分だったと思う。その文集もすでにないから、どんな文章を書いたのか見直すこともできないのだが、なんだか、新しい物の見方を見出したことに嬉しさを感じていたのは覚えている。


 「リテラシー」という語は、「読み書き能力」と訳されることが多い。「メディア」という語や「リテラシー」という語で表現すると、それまで自分と親密な関係にあったテレビや、漫画や本が自分とは別の何かに思えてくる。


 外来語だからというのはあるかもしれない。しかし、もっと単純にそれぞれ概念の成り立ちが、個人の思考に影響を与えているような気がする。「「個人」と「メディア」とは乖離しており、それらをつなぐ能力である「リテラシー」がある」とすると色々なことが筋道立てて説明できる。


 確かにそうなのだが、筋道立てて説明すること自体が目的になりすぎているように感じる。「メディアリテラシー」という概念が身の回りの事象を筋道立てて説明したいという「論理化の欲求」のようなものに駆り立てられて作られたもので、この概念を使って何か説明することで、その欲求に思考がとらわれてくるように思う。


 物が散乱した机の上を整理した時のような安心感や爽快感が、何かを論理的に説明した時には感じる。混沌としたものを単純に説明した時にそれを理解したように感じる。「メディア」と一括りにするが、その中には個人と部分的に繋がっているものや遠く離れているもの、個人の中の指標となっているものがあるように思う。個人とメディアはある時には可分であり、ある時には不可分なものであるのではないか。


 しかし「メディアリテラシー」という概念は、否が応でも活用する側の主体と活用される側の客体とを区分する。そして、この概念を基本に置いてメディアについて考えると、主体と客体との一致や合成というのは、自然と視野から除外される。カメラで写真を撮る時のように、視野はある決められたフレームの中に狭まってしまう。


 たった一つの概念が、ある領域に対する物の見方を限定的にする。こういうことが実は至る所に存在するのではないだろうか。

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