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Bad Ems

その生涯を閉じる前の約20年間、ドストエフスキーは断続的に何回もドイツを訪れています。一昨年とある本を読んで以来、私はその足跡を追うように毎夏ドストエフスキーが訪れた場所を旅するようになりました。最初はドレスデン(Dresden)、去年はヴィースバーデン(Wiesbaden)、そして今回はバート・エムス(Bad Ems)。

私とドストエフスキーとの付き合いは長く、最初に読んだのは大学進学を控えた高校最後の春休みでした。ドストエフスキーの小説は、その世界観を何某かの形で感受できる人物にとっては憑依型小説になるのではないかと思います。例えば読んでいるうちに、異常な暑さで陽炎のようにゆらめくサンクト・ペテルブルクの裏通りが、ラスコーリニコフの後ろ姿とともに目の前に浮かび上がってくる、スタヴローギンの神経質で不自然な笑い声が耳の中に響くような気がする...などなど。この時すっかり取り憑かれてしまった18歳の私は、大学の第2外国語としてロシア語を選択しまったのでした。閑話休題。

そして、何十年もの時を経て、ドイツ移住後に私が読んだのが、Karla Hielscherの『Dostojewski in Deutschland』(Insel Verlag, c1999)。私がドストエフスキーのドイツでの足跡を追うきっかけとなった本です。
ご存知のとおり、ドイツは第二次大戦末期に連合軍に激しく爆撃されています。ですから、特に都市に関して言えば、プラハやウィーンなどのように100年以上前の姿が丸ごと容易に想像できる場所は殆ど残っていません。ドレスデンやヴィースバーデンも、時には戦前の痕跡を目をこらして探さなければならないことがありました。一方、Heilscherによれば、ドストエフスキーが滞在した場所の中でも、バート・エムスは彼が生きた時代の面影を最も良く残している街だといいます。また、1866年にプロイセン支配下に入って以来、夏になるとプロイセン王ヴィルヘルム(1871年より初代ドイツ帝国皇帝ヴィヘルム1世)を始め、欧州各地の貴族が保養に訪れ、バート・エムスは一大社交場となったとか。特にロシア人には好まれたようで、皇帝アレクサンデル2世も足繁く通ったそうです。一体どんな場所なんだろう。大きな期待を背負って、私たちはバート・エムスへ向かいました。

コブレンツ(Koblenz)からローカル線に乗り換えると、列車はしばらく南下した後進路を東にとり、山間部へ入っていきます。10分もしないうちに両側の車窓からは線路に迫った山並みしか見えなくなります。ところどころ川沿いに狭い平地が開けて何軒か家が並んでいる以外は、木々の葉の緑でひたすら満ちているのです。「一体何処まで来てしまったのだ」というくらいの完璧な田舎です。ところが20分も経ち列車がバート・エムスの駅に近付くと唐突に豪華な建物群が出現しました。隠れ里へでも紛れ込んだかのような不思議な気分になりました。

皇帝や貴族が宿泊したホテル(現・Häckers Grand Hotel) や、舞踏会が開かれたホール、立派な劇場やカジノがウィーンの目抜き通りにあってもおかしくない華麗な建物の中に控えています。しかも周囲は緑に覆われた山また山。このアンバランスな感じが非常い魅力的でした。またロシア人に好まれたことを如実に表すロシア正教会やRusisscher Hof(ロシア館)という銘を大々的に掲げた立派な建物もありました(なお、帰路雨のなかホテルから駅まで乗ったタクシーの運転手さんによると、古くからドイツに在住しているロシア人が現在でも少なからずこの地を訪れているそうです)。

この時期にして因縁のある歴史をもった場所もありました。
1876年5月30日、ロシア皇帝アレクサンドル2世はカールスブルク(Karlsburg)で、ロシア帝国におけるウクライナ語の公的使用を禁じる政令(Ukas)に署名したとか。残念ながらこの建物は現在は大規模修復中で、外壁に沿って足場が組まれていました。修復後は往時の様子が再現されるのでしょうか。だとしたら、ぜひ一度見学してみたいものです。

ドストエフスキーはこの街の東端のPrivathotel(民宿といったところでしょうか)に宿泊しました。Karla Hielscherの本によると、具体的には以下のとおり。湯治なので期間も各々1ヶ月以上の長期滞在です。なお、湯治に温泉(Bad)とくれば温泉に浸かるのかとお考えになるかもしれませんが、こちらでは温泉の湯を飲むのです。ドストエフスキーは「混雑を避けるため毎日早起きして6時には湯が湧き出す場所へ向かう」とロシアで留守番している妻宛に手紙を書いています。

1874年6月23日〜8月8日:Villa d’Algier
1875年6月9日〜7月15日:Privathotel Luzern
1876年7月20日〜8月19日:Villa d’Algier
1879年8月5日〜9月10日:Villa d’Algier

このように一見全世紀初頭の華やかさを残しているかのように見えたバート・エムスですが、メインスリートには閉店した店舗も少なからずありました。外から様子を窺ってみたところ閉店してからさほど時間が経っているようには見えなかったので、もしかしたらコロナ禍の影響かもしれません。ドイツではこの春に感染規制が全て撤廃され、少なくとも表面的にはコロナ前の状態に戻ったかのように見えます。この夏は一大旅行ブームで空港は大混雑だとか。バート・エムスもこの波に乗り、徐々に活気を取り戻していけば良いと思います。山の中に眠らせておくには惜しい歴史を抱えた街なのですから。

実は最初はバート・エムスには一泊だけする予定でした。しかし「バート・エムスへは、この後二度と行かないかもしれないし、二泊しようよ」と夫に提案して延泊することにしたのです。しかし、今ではもう一回くらいバート・エムスに行ってもいいかな、...などとコッソリ考えています。

なお、今回は前々からRolleiflexを持って旅する予定でしたが、天気予報が悪い方向へ転んでしまったため、出発の朝に何かと便利なLeicaと入れ替えました。かつて舞踏会が開かれたという大理石の間(Marmorsaal)や王侯貴族が宿泊したHäckers Grand Hotelのゴージャスなロビーを見た時には、Rolleiflexを持ってこなかったことを後悔したのですが、現像・スキャンした写真を見ると、35mmならではの写真も撮れていたりするので、まあ、これはこれで良かったのかなと思っています。が、やはりRolleiflexで撮りたいので、バート・エムスにはもう一度行かなくては...。

後記

この記事はBad Emsから戻って間もない2023年7月に書いた記事です。ここに投稿した写真は本文末尾にあるとおり、全てLeica M2とSummaron 35mm F2.8で撮影しました。撮影している最中はRolleiflexを持ってくれば…などと考えたりしたものですが、時間をおいて写真を見直すと「これはこれで悪くない。いや、かえって良かったのだ」と思うようになりました。中判には中判の良さがあるように、35mm判には35mm判しか撮れないような写真もある。そんな気がするのです。

なお、ドストエフスキーのドイツでの足跡を追う旅ですが、ドレスデンについてはすでにnoteに投稿しました。Wiesbadenについても、いずれ整理してここに投稿したいと考えています。

ドストエフスキーの背中を追いかける旅も、残すところBaden Badenを残すのみ。今年の夏あたり実現できると良いなあと考えています。

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