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アンナのドレスデン

とても面白い本を読みました。『Dostojewski in Deutschland(ドイツのドストエフスキー)』(Karla Hielscher著)という本です。

正確に言うと最初から最後まで読み通したのではなく、今までに自分が訪れたことがある場所について書かれた章のみ読みました。すなわちヴィースバーデン、ホンブルク(現在のバート・ホンブルク)、そしてドレスデンです。このうちドストエフスキーが最も長く滞在したのがドレスデンで、その期間は延べにすると2年半に及ぶそうです。そして、私が最も楽しく読むことが出来た章が、このドレスデンについて書かれた章でした。この3ヶ所のなかでドレスデンは私が最も多く訪れた場所で、移住前に2回、移住後に2回。最初に訪れたのは聖母教会修復終了後さほど時間を経ていない頃で、DDRの面影が残る現在とは全く異なる姿だったノイマルクト(新広場)も目にしています。私の滞在日数は延べにすると、ドストエフスキーの滞在日数には遠く及ばないものの、1ヶ月近くにはなると思います。

ドレスデンはそれだけ思い入れのある場所という点もありますが、楽しく読めた理由は、この章が主にドストエフスキーの二番目の妻、アンナの日記を中心に構成されていたからです。1867年、ドストエフスキーが新婚間もないアンナを連れてドレスデンにやって来た時、彼は40代半ばであったのに対し、アンナはわずか21歳でした。たぶんこれが初めての外国旅行だったに違いないアンナは、実に細かく、かつ率直にドレスデンでの生活の様子を日記に綴っており、それが非常に面白かったのです。「今日はフェージャ(フョードルの愛称)と一回も喧嘩しなかった」とか、「ここのチーズは臭過ぎ。臭過ぎてチーズを売っている広場にすら近づきたくないくらい」などなど。また「何にいくら費やしたか」という点も細かく記入しているので、もしかしたら彼女の日記は19世紀後半のドレスデンの物価を知るための良い一次史料にもなるのではないでしょうか。そうそう、彼女はドレスデンの図書館でロシア語の本を借りるのですが、当時本は保証金(デポジット)を支払って借りていたようです。「ロシア語の本はドイツ語の本より保証金の額が高い」と彼女は書いています。

夫妻はドレスデンで家具付きの部屋を間借りします。家主はツィンマーマン夫人。住所も判明しておりヨハニス通りに位置していたとか。しかし、この通りが含まれるドレスデン旧市街の南半分は1945年2月に連合軍によって徹底的に破壊されてしまい(この時、実にドレスデンの85%が破壊されたといいます)、現在ではその通りの名前すら残っていません。

さて、ドストエフスキー夫妻の1867年ドレスデン滞在は5月頭から7月頭までの約2ヶ月間に及びますが、その間賭博に目がないドストエフスキーはアンナをツィンマーマン夫人の元に残し、5月17日から26日までカジノがあるホンブルクに行ってしまいます。異国の町に一人取り残されたアンナは「今日は寂しくて泣いてしまった」とか、「今日こそフェージャが帰ってくるかと思い、ドレスデン中央駅まで行ってみたが、やっぱりダメだった」などと泣かせることを日記に書いていますが、当のフェージャことフョードル・ドストエフスキーはそんなこと知ったこっちゃない。毎日賭博に明け暮れ、しかも負け続け、それこそ毎日のようにアンナに「至急金を都合してくれ」と手紙を書くのです。その金銭無心の手紙がまるでテンプレートをそのまま流用したような手紙ばかりで、

   ① 賛辞(君は僕の天使だ)
   ② 告白(有り金全て賭博で失った)
   ③ 誓い(これが絶対に最後だ)
   ④ 結論(すぐに金を送ってくれ)

...と毎回ほぼこの構造です。ある時は本当に詰んでいたようで、「いいか、頼むから、銀行員にはきちんと住所を伝えるんだそ。金の送付先はハンブルク(Hamburg)ではなくホンブルク(Homburg)だ。ちゃんと紙に書いて見せるんだぞ」とアンナにクダクダと念を押しています。ドストエフスキーは間違いなく時代を超えた文学の巨人だと私は確信していますが、必ずしも常に読み手の心を揺り動かすような考え抜かれた美文ばかり書いていたわけじゃないんだなあ...と思うと、もうおかしくておかしくて。

その都度、律儀にドレスデンで金策に走り回っているアンナは、なんて殊勝な女の子(21歳ですから)なんだろうと思いきや(私だったら三行半を叩きつけて国に帰っていると思います)、ついにドレスデンを去る日の日記が振るっていました。荷物を馬車に積み込む時、世話になったツィンマーマン夫人に「秋の再会を約束した」と書いたその10行後に「さよならドレスデン、元気でね。願わくは、もう二度とお目にかかることがありませんように!」などとチャッカリ書いています。1人で金策に明け暮れたドレスデン滞在は、総じて彼女にとってそれほど楽しいものではなかったのかもしれません。去りゆくドレスデンの街の姿を眺めながら、こっそりペロッと舌を出している彼女の姿を思い浮かべてしまいました。

それにしても、解せないのはドストエフスキーで、知人に宛てた手紙に「なんで私はドレスデンにいるんだ。よりにもよってドレスデンで、どこか別の場所じゃないんだ」などと書いています。「それはこっちが聞きたい」というのが、私の率直な感想なのですが。

今回、読まなかった章は2つあります。1つはバーデン・バーデン、もう1つはバート・エムスについて書かれた章です。実はどちらも私が住んでいる場所から比較的近いので、いずれ訪れてみようと思います。もちろん、その前に必ずこの本の該当する章を読んでから。いつになるかは未定ですが、それでも今から楽しみです。

参照)Dostojewski in Deutschland / Karla Hielscher (Insel Taschenbuch 4872), 2021

後記

最後にドレスデンへ行ったのは、コロナウィルス感染対策規制が緩んだ2020年8月でした。マスク着用はもちろんのこと、ホテルの部屋の窓を開けっぱなしにしたり、毎日消毒液で部屋の机やノブを拭いたり、注意を払いつつ恐る恐るの旅でしたが、それでも良い気晴らしになりました。ホテルの朝食も厳しい予約・時間制限の元でとったことも、今となっては懐かしい思い出です。そういえばドレスデンを旅先に選んだのも、当時のザクセン州はコロナ感染者数が他の連邦州と比べて圧倒的に少なかったからでした。こう書くと、なんだか遠い昔のことのようですが、まだ3年しか経っていないんですよね。…いや、もう3年と書くべきなのでしょうか。
そして去年の夏、念願かなってバート・エムスを訪れることができました。ここは本当に不思議な場所で、緑に覆われた山が迫る深い谷間に忽然とゴージャスな建物が出現するのです。この場所については、また日を違えてかつてブログに書いた記事をnoteに転載したいと考えています。

私のドストエフスキーの足跡を追う長い旅も、バーデン・バーデンの一箇所を残すのみとなりました。今年、この場所を訪れる機会が巡ってくると良いなあと思っています。

なお、ここに載せた写真は、全てRolleiflex 2.8FとIlford HP5 Plusで撮影したものです。

(この記事は2022年8月27日にブログに投稿した記事に、後記を加えて転載したものです。)