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私たちは自由になった。そしてそれが、不自由をもたらした(かも)。

こんにちは、scherzです。

私たち人類は、昔と比べてはるかに自由になっています。少なくとも現在の日本では、ある程度であれば好き勝手なふるまいや発言をしても、逮捕されることはありません。

たとえば戦前、治安維持法という法律がありました。ざっくり言うと、結社や集会、表現の自由を制限する法律です。これらの自由は現在、憲法で保障されています。国会の前でデモをしても逮捕されないのは、その自由が保障されているからです。Twitterでデモをしても国家から監視されないのは、その自由が保障されているからです。

もうひとつ。自由の獲得にともなって、個性を発揮できるようになってきました。誰でも「自分らしさ」を求めて、あるいはそれに磨きをかけて様々な活動をおこなうことができます。

19世紀イギリスの哲学者ジョン・スチュアート・ミルは次のように述べています。少し長いですが、引用しておきます。

他人の害にならないかぎり、さまざまの性格の人間が最大限に自己表現できるとよい。誰もが、さまざまの生活スタイルのうち、自分に合いそうなスタイルをじっさいに試してみて、その価値を確かめることができるとよい。/要するに、他人に直接関係しないことがらにおいては、個性が前面に出ることが望ましい。その人自身の性格でなく、世間の伝統や慣習を行為のルールにしていると、人間を幸せにする主要な要素が失われる。個人と社会の進歩にとっての重要な要素も失われる(ミル2012[1859]『自由論』138ページ、光文社)。

現実、個性を発揮して活躍されている方が一定数いらっしゃいます。

では、なぜいまだに「日本は画一的だ」とか「同調圧力が強くて、みんなと同じじゃないと不安になる」といった声が聞かれるのでしょうか?

個性は素晴らしいと言いつつも、(まともな)専門家の声に耳を傾けずにいることが往々にして生じるのはなぜでしょうか?

たとえば、専門家というのはその分野の天才か秀才とも言える存在です(少なくとも私はそう思っています)。しかし、専門家やその卵たちを無視・軽視する人々が一定数います。これは、批判するのは悪いという意味ではありません。彼らも誤った行いすることがありますから、それは正す必要があります。

しかし、最初から役に立たない、同じようにふるまわねば、と言って個性的に行動させません。この土壌は天才が育ちにくい環境です。ここでもう一度、ミルの言葉を借りましょう。

たしかに、天才はごく少数しかおらず、そして、つねに少数のままだろう。しかし、天才が現れるためには、天才が育つ土壌を保持しておかなければならない。天才は、自由という雰囲気のなかでしか自由に呼吸できないのだ(同上、157ページ)。

表向きは、個性的な天才を認めつつあるかもしれません。しかし、内側ではそれを否定している「雰囲気」が出てるかも。この、行動は西洋化したが中身は日本的なまま、というギャップが今の現象を生みだしているのかもしれません。


先ほど、同調圧力~という話を少ししましたが、一方で、個性的・自分らしいって素晴らしいという声が多く聞こえてくることも事実です。しかし、これが暴走したらどうなるでしょうか?

「自分らしいって素晴らしい!あなたももっと自分らしくあろうよ!」

こんな声が聞こえてきそうです。

「自分らしい考えでやってみたんだ、すごい!共感できる!いいね!」

果たして、たくさんの共感を集めたことは個性的でしょうか?

私たちは自由になって個性を発揮できるようになりました。しかし同時に、個性的でなくてはいけなくなりました。自由になったはずが、不自由になっていたのかもしれません。




何を言いたいのか、自分でも書いてて混乱してきました。私もうまい説明方法や答えが見つからずにいます。「行動は西洋化したが~」というのもあくまで仮説に過ぎませんし、かなり粗い解釈なのであまり真剣に受け止めないでいただけると嬉しいです。

まあ、このnote自体、何かを変えてやろうーみたいな野心があってやってるわけではないので。ただ、情報や思考がものすごいスピードで流れていく世の中で、立ち止まってゆっくり考えてみることがあってもいいのでは?と思って書いています。

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