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「どうして人を殺してはいけないのか」に唯1人まともに答えてくれたあるアメコメのキャラ、、、と、そこに最後に残っている論破困難なテツガク的難問

唐突ながら、私が人生で一番、「何度も繰り返し観た」映画というなら、間違いなく、クリストファー・ノーラン監督の『ダークナイト』です。

映画館で感銘を受けて三度観に行っただけでなく、

その後、購入したDVDを仕事中の作業用BGMのように毎日、かけていた時期があるので、「セリフだけ聞いている」状態を鑑賞回数に入れていいなら、たぶん生涯100回を超えてる、、、。

どうしてそんなにこの映画が好きなのか、理由はいくつもありますが、何をおいてもバットマンが「どんな悪人が相手でも人殺しは嫌だ」と頑なに殺人だけは避け続ける態度にものすごく共感したから、というのが、ひとつです。

実は、アメコミ原作でのバットマンはまさにこういうキャラクターで、「並外れた体力と知力を持ち、正義の味方として立ち上がったかわりに、『不殺の誓い』を自らに立ててこれを頑なに守っている」という設定。

ところがこのバットマンが映画となると結局は悪人を殺してしまう。クリストファー・ノーランの三部作でさえ、結局は何人か不可抗力的には殺してしまっているんですが(!)、それでも本人は不殺のルールをなんとか曲げまいと懊悩する。仲間を殺されても、ジョーカーが病人や子供を人質にとるというド悪行をやらかしてきても、バットマンのほうはその報復として「殺す」は選ばず、なんとか「捕まえて警察に突き出す」ところまでで抑えようとする。

この苦悩がいちばん出ていた上に、テーマとしても明瞭に打ち出されていたのが『ダークナイト』だったと思います。

そしてこのことは私の人生にとっては重要な意味がある。

実は私がちょうど17歳の頃、オウムの事件や、神戸連続小学生殺人があり、

「いまどきの10代の少年の心は、わからない!」などという特集をマスコミがさんざん組んでいた。

そして「今時の少年たちは『どうして人を殺してはいけないのか』などということを平気で大人に聞いてくる。そんな当たり前なことをわざわざ聞いてくるとは嘆かわしい」という風潮が大人たちの間を包んでいた。

ひどいものになると、わざわざ10代の少年少女をスタジオに集めて、「なぜ人を殺してはいけないのかを識者たちに質問させる」番組を制作しておいて、実際には「識者たち」のほうが、

「いけないものは、いけないのだ」
「そんな決まりきったことをわざわざ質問することが平和ボケだ」

「人を殺のがいいか悪いかなんて疑問を持った時点で、人間社会にいちゃいけないんだよ!」

などと暴言マウントをとるばかり。スタジオに集められた少年少女たち(私もこれを観ていたときちょうど10代だったわけですが)も、「あんた達が私達を呼んで『質問しろ』というから質問したのに、なんだよ?」とドン引きだったでしょうね、、、。

そしてその後、私はたとえばアルベール・カミュの異邦人に出会ったり、ニーチェの『善悪の彼岸』に出会ったりして、

まさに西欧文学でも、「聖書に『汝殺すなかれ』と書かれているから、、、以外の『人殺しはいけない』理由はあり得るのか?神なき時代の自由な人間は『殺し殺される』自由という恐ろしいものを回避できるのか」というのが真剣な問いというのがわかった。カミュやニーチェも明確な答えを出せたわけではないが、少なくとも答えを求めて苦悩している姿は見せてくれた。となると、ますます、あの番組の「いけないものはいけない、そんなことわかりきってるだろコラア」なおっさんおばさん達は何だったんだということにもなるが。

ところが大衆文化、しかもアメコミの中に、とてもシンプルな答えを見せてくれたキャラクターがいた。それが私にとってのバットマンで、

「なぜ人を殺してはいけないのか?知らん。だが俺は、子供の時に目の前で殺しがあったのをみてとても悲しかった。俺は人殺しが嫌だから、嫌だ。神様に言われたわけでも、道徳教育の成果でもなく、俺が俺自身に課したルールだ。文句あるか」

が彼の立場。

「誰に言われたからでもなく、自分で自分に対して決めたルールだ」

という明確さと、

「俺が率先して、人を殺さないルールを守っていく。だからお前らも真似をしろ」

という、リーダーシップです。

宗教で禁じられているからでもない、社会の道徳だからでもない、「自分で考えて決めたルールだから、体を張って守る、以上!」ドシンプルですが、はっきり言って、私はこの理屈が、どんな哲学や文学の出した「人を殺してはいけない理屈」よりもすんなり入った。10代の私の「なぜ人を殺してはいけないのか」の素朴な疑問に、唯1人、世界で答えてくれたのは、アメコミキャラクターのバットマンでした。

それに、「この世界には、本当は、善も悪もない、どんな道徳も実は無根拠だ」というニヒリズムを通過しつつ、「でも、俺は、悪いことはしない!」と自分でルールを決めて英雄的に生きるって、、、実はバットマンこそニーチェのいう「超人」に近いんじゃない?w

、、、というのが、私が、バットマンというキャラクターをテツガク的にも大変評価する理由なのですが、、、

実は、ここにはひとつ、大問題がある。

「ぜったいの善悪基準なんてものがない現代だからこそ、俺は自分で決めた『悪をなさない』ルールを自主的に守り抜く!」と孤高の立場で戦うバットマンがいるならば、、、

「ぜったいの善悪基準なんてものがない現代だからこそ、俺は『徹底的なカオス』を体現する悪を貫く!」と孤高の立場で悪事を繰り返す、究極の悪人もまた、同じ理屈から生まれてしまうのでは?、、、そう、それが『ダークナイト』に出てきたジョーカーと解釈します。

「善悪の壊れた現代だからこそ自分で決めた善を貫くバットマンがカッコいいのだ!」という私の憧れは、

なんとなんと、

ジョーカーを論破することができない!

バットマンがカッコイイなら、ジョーカーもカッコイイはずではないか?、、、むむう、たしかに、『ダークナイト』のジョーカーは恐ろしいのに、なぜか強烈なカリスマを感じてしまう、、、

ここが、目下の私の限界です。

世界のバットマンファンへ、、、!どうか「バットマンはいいけど、ジョーカーはダメだ!」と、ジョーカーを論破できる地点をぜひ誰か、見つけてほしい。

私は何度やっても、ジョーカーに、あの顔で「どうして俺がいけないんだい?お前の憧れのバットマンと何が違うんだい?ヒーハッハッ」と嘲笑われて終わりである。ま、もしここにバットマンがいたら、「うるせえ」とそんなジョーカーを殴って警察に連れてってくれるわけでしょうがw、うかつにテツガク的すぎる私は本気で、なぜジョーカーを論破できないのか悩んでしまいます、、、


子供の時の私を夜な夜な悩ませてくれた、、、しかし、今は大事な「自分の精神世界の仲間達」となった、夢日記の登場キャラクター達と一緒に、日々、文章の腕、イラストの腕を磨いていきます!ちょっと特異な気質を持ってるらしい私の人生経験が、誰かの人生の励みや参考になれば嬉しいです!