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心身が危機にあるとき『ロデーズからの手紙』が癒しになるなんて奇天烈な発言ではありますが

事実として私の場合、人生の危機に際してアルトーを読み、なんらかの意味で癒された経験があるのだから、そう主張せざるを得ません。

ただし、「なんらかの意味で」。これがいわゆるフツーな意味での癒しでないことも、これは確か。でもそれがどんな意味での癒しであったのかというと、これがまたよくわからない。

優しい言葉で癒される苦痛もあれば、激しく励まされて癒される苦痛もある。そしてアルトーの苛烈な「思考を巡る冒険」に付き合うことで、癒される苦痛というのも、これまた、ある。

《神》、それを疑うものたち全員が〈それ〉を否定するか、あるいは受け容れられないのは、彼らがあのぞっとするような肉体的隷属への好みを失っていないからなのだが、その隷属とは少なくとも日に一度排泄することである(『ロデーズからの手紙』(宇野邦一・鈴木創士訳/白水社)より)

とか、

その拍子は悪魔の腰腹から回転する肛門に、肛門から睾丸の塊に、睾丸から、穴を穿つ大腿骨に移るのです(『ロデーズからの手紙』(宇野邦一・鈴木創士訳/白水社)より)

とかいった、「アルトーの目にはいったいどんな世界が見えているのだろう!」と仰天してしまうような言葉の群れに、

しかしどこか惹かれどこかで共鳴し、どこかで癒されてしまう私がここにいることも確か。

そして何よりアルトーといえば、二十世紀前半のフランスに颯爽と現れ、演劇を映画を詩を改革した人、いや「改革」というか、もはや二十世紀前半の前衛芸術を「自分自身の肉体を投じて生きた」人。そんな人が第二次世界大戦の暗闇の時期、ロデーズの精神病院から切々と叩き出していた言葉を無視することが私にはどうしてもできない。飲み込まれ、引き裂かれ、いますぐ立ち上がって象徴界のヴェールをむんずと掴んで剥ぎ取りたいような、そんな衝動に駆られます。

それって「真っ当な小市民」として平和に生き死にたい人には絶対に向かない読書体験かもしれません。でも先述の通り、それが「癒し」に感じられるような夜もあること、これも確か。

ところで、

誰かが「エッフェル塔・・・!」と言いました。あのあたりを見回ってみるべきでしょう(『ロデーズからの手紙』(宇野邦一・鈴木創士訳/白水社)より)

という、異様に気になる「ナゾの一行」が、本書の中に唐突に出てくるのですが、これはいったい、このときにエッフェル塔に出かけて周囲を探したら、何が出てきたのでしょう、、、!?


子供の時の私を夜な夜な悩ませてくれた、、、しかし、今は大事な「自分の精神世界の仲間達」となった、夢日記の登場キャラクター達と一緒に、日々、文章の腕、イラストの腕を磨いていきます!ちょっと特異な気質を持ってるらしい私の人生経験が、誰かの人生の励みや参考になれば嬉しいです!