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1000の欲望を抱け

大学で先生をしていたとき、学生たちに「将来なにやりたいん?」って質問にシーンとなったことを思い出した。飲み屋で最近の若い人は夢を持たないって言っていて、試しに聞いてみたんだけど。もちろん中にはあるけど恥ずかしくて言えないとか色々あったと思う。

松倉おじさんの話をすれば、なんかもう欲望の塊みたいに色々あった。酒を飲んであれやりたいこれやりたい。あーなりたい。こーなりたい。それ書き出してみようぜってやるくらい大小様々な夢という名の欲望がひしめき合っていた。

だからって大学生に夢を持とうと言う気にならないし、何かシーンとした教室がこの時代の正しさだと思ってみると、僕らの80年代生まれの「世の中なんとなかなる空気」とは別で、親の世代で会社が倒産したりとか、誰もが知る大企業が消し飛ぶとか、見て触れられる世界にあまりに陽が当たってない景色が多かったのもあるかもしれない。夢追い人であるよりマルチスキルの生存戦略が今圧倒的に正しい。だからこその静かな教室だったんだなと。

うん、そうなんだと納得しつつも、いや待て少し違うかもと。
生存戦略と欲望丸出しのやりたいことは別問題じゃないか?
むしろ、夢的な欲望って何歳になっても湧き出てきて、思っていればいつか叶うというか、無意識にそうなれるように自分が歩いている気がする。

こっぱずかしい「夢」という言葉はわかりやすくいうと「欲望」で、クラスに可愛い女の子がいて仲良くなりたい!なんて感情に近いはず。どうやって仲良くなるか、声をかけるか、ってメンズしかわからないけど、あったじゃんそういうの。それに似たものを大人になっても抱くし、抱いていると自然とそっちに足が進むように人ってできてるんじゃないかと。

100でも、1000でも欲望や野望を持っていた方がいい。今はそう思っている。どんな些細なことでもいいから、欲を抱き満たすことがなければ、体は自然に動かないのかもしれない。夢という言葉がこっぱずかしいものになってしまったのは僕や上の世代のせいなのかもね。上のいうことほどダサいものはないしね。それを欲望とかに置き換えて話せば飲み会はパーっと面白い方向に進むんだろうな。

35歳にもなって今だにたくさんの夢がある。
それはどれもこれも仕事とは関係なく、それが叶った日には俺がただただ嬉しい。そんなことだ。でも、今日なんでこういうことを書いてるかというと、20歳頃の俺が淡く抱いていた夢が一つ実現しそうだから。過去の俺に教えるすべはないけれど、やったぜ俺、夢は抱くもんだなって思ったから。

どうサバイブするかと夢は別のもの。
むしろ日々働いて暮らす中に欲望がまったくないと、それはもう死んでるみたいなものに近いのかもしれない。10でも、100でも、1000でも、小さくてもアホみたく大きくてもいいから夢や欲望は抱くべきだ。

今、それがないからこそ欲しがるし、
それが今日を生きしのぐための心の保存食になるんじゃないか。
もっともっとわがままに生きていこう。まだ至っていない夢も全て叶えていこう。新しい欲望もしっかり抱えて生きていこう。

そうじゃないと、生まれてきた自分に申し訳ない。

いただいたお金は子どもに本でも買おうかと思ってます。