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志賀直哉『山科の記憶』読書会 (2021.10.29)

2021.10.29に行った志賀直哉『山科の記憶』読書会の模様です。

(『山科の記憶』 新潮文庫『小僧の神様・城の崎にて』所収)

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私も書きました。


おそるべき倫理的潔癖


夫婦喧嘩は犬も食わないというが、この小説は、犬も食わないものを詳細に明かしている。

家に帰ったら、妻が掻巻に巻かれて、小さくなって倒れている。そして、泣きはらした目で笑いながら恨めしそうに睨んでいる。

ここ冒頭だけでも、小説家というのは、実に、因果であると、ため息が出る。

これがたとえフィクションであっても、妻との関係を一片たりとも反映していないような完全な創作などありえないから、ある部分までは実体験であろう。だとすれば、浮気に病む妻の姿を、世間の晒しものにしていることになる。

世間には優しそうな人と、優しい人がいる。

優しそうな人は、自分が想像する優しい世界を描くだろう。その世界は、道徳的共同体である。
それは、善意に満ち溢れた、悪く言えば、ええかこっしいの、お人よしのバカしか出てこない世界である。
浮気が本気でないと説き伏せる芸術家と、その詭弁に、納得できないままモラハラ同然に説き伏せられてしまう妻を、お互いを思いやる好人物の夫婦一対として描き出し、てめえの欺瞞を無自覚に晒すこともできるだろう。

しかし、優しい人はそうではない。志賀直哉の書いている作品は、優しい人の作品だ。

この小説の主人公は、浮気して妻の気持ちを傷つけている。それをそのまま書いている。

妻がかかりつけの若い医者に恋心を抱いたことを見抜いていたことを伝え、自分の浮気の本質は、その妻の淡い恋心と同じもので、害がないと言い切る身勝手さのどこが優しいかと問われると、答えに窮するのだが、ここには卑近なごまかしが一切ないのである。

妻の意識せぬ恋を、夫とその相手だけが感じた、自分でも自覚しないような心のときめき。
感覚である。英語で言えば「センセーション」である。
その感覚の生まれるところを夫はすでに直観していた。妻よりも前に直観していたのである。それが直観できる男があえて、妻が苦しむような浮気をして、案の定苦しませ、それを細かく描写するとは、いったいどういうことだろう。

妻のセンセーションに先立つのは、夫の嫉妬である。夫の嫉妬が、生まれなかったわけではないが、それがそれほど不愉快ではなかった(若い医師に対する夫の立場が、虚栄心をくすぐるものだったからか?)

(引用はじめ)

自分の気持ちが余裕を持っていた事を今更に気づいた。それは妻の気持ちの純粋さが彼に反映していたからだと思った。 (P.266)

(引用おわり)

浮気であっても気持ちは純粋だ。それは妻の精神上の浮気が純粋なのと、変わらぬのだ。こんな理屈は世間では通じないのだが、この夫は通じると信じているのである。

夫婦が、ここまでわかり合っていて、んでもって、愛人への想いは、そこまでの深みではない、だから浮気は大目に見ろという無茶な理屈であるが、この夫が、たいへんに妻想いであることは、、異常なほど妻の心理を細かく敏感に察知していることからも確かなのである。

この事実をもって、優しい夫だとは言える。

なおかつ、彼は、妻を精神的に支配しうる自分自身をを不愉快に思っているフシがある。
(『それだけのことで余り強く何かいうのは厭な気がした』(P.265)というところから、支配欲も自制しているようだ)

ごまかしがない。やっていることはクズだが、倫理的には優しいのである。言動一致を倫理的な信とするなら、たぶん信頼できる夫である。

別に、私はこの夫を擁護する気はないが、こんなこと赤裸々に書く志賀直哉の倫理的潔癖はおそるべきものである。

この作品は世間に対する浮気の道徳的な側面ではなく、不倫の核心である夫婦の倫理的側面を掘り下げて、描いているのではないか。

(おわり)

読書会の模様です。




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