なってみる学び〜演劇〜習いごと#2
子どもの頃の演劇というと、やはり1年に1回の学芸会
「台本があり、それぞれが自分の役の台詞を覚えて、みんなで大小道具を作ったり、それを場面ごとに配置したり、それで1つの劇の形にまとめて発表する」というものだった。
その中で、学芸会の「学び」とはなんだったのか?
・みんなで1つの出し物を創り上げる
・観客を前にして堂々と劇の役になって演技をする
・より高い完成度を目指す
少し考えてみたがあまり浮かばない。1年に1回の行事という感覚が強い。
こちらの本は、授業の中に演劇を取り入れて、観客がいるわけでもなく、完成度を目指すのでもなく、むしろ、「架空の世界の中で役になって動いて気づきを得ることを重視している」ということだ。
人には本来、身体と空間、想像力を活用して学ぶ力があります。
3歳の我が子を見ても思うが、子どもの想像力は大人のそれを遥かに凌ぐものがあり、驚かされることが多い。想像力を生かして空間を創り上げることはおてものもだ。
しかし、小学生になると画一の一斉授業がメインになり、持ち合わせている想像力も発揮できない。できたとしても頭の中だけになってしまう。
この本で実践された「なってみる学び」は、子どもたちの想像力を生かし、家と学校の往復といういつもの空間ではなく物語の空間を作り出し、その中に自分の身体を置くことで、自分でも想像しなかった感覚が生まれてくる。
ここで紹介されている「おれはかまきり」の詩を用いた2つのタイプの活動
おう なつだぜ
おれは げんきだぜ
あまり ちかよるな
おれの こころも かまも
どきどきするほど
ひかってるぜ
この詩を用いて「『かまきりりゅうじ』になってこの詩を読もう」
Aタイプは、①本文を元に、「かまきりりゅうじ」がどんなかまきりなのかを考える。②「かまきりりゅうじ」の「気持ち」を想像し、セリフの言い方や動作を考える。③②で考えた言い方や動作を実際に行って、発表する。
Bタイプは、「『あまりちかよるな』とあるということは、『かまきりりゅうじ』くんの周りに何かいる(頭の中だけかもしれないが)ということだろうけど、何がいるだろう?」
「『かまきりりゅうじ』を怖がる小さい虫」、「ファンのカマキリ」、「虫取りにやってきた子どもたち」などのアイデアが出る。その1つの「ファンのカマキリ」というアイデアを使って、実際にやりとりを行なってみます。
つまり、「かまきりりゅうじ」役の登場に合わせて、また、「かまきりりゅうじ」役がセリフを言うたびに、「キャーッ!」「かっこいい!」など声援をとばしてもらう。
こうすると興味深いことが起こったそうです。
先生が一言も「気持ちを込めて読みましょう」とか、「『かまきりりゅうじ』になりきって言い方や動作を工夫して読みましょう」などといっていなくても、「かまきりりゅうじ」役から自然に様々な表現が引き出されてくるのです。「ファン」の声援を受けて、片手を挙げてそれに応えるようなポーズをとったり、より自身に満ちた言い方になったりする「かまきりりゅうじ」が出てきます。もちろん、こうした「かまきりりゅうじ」役の振る舞いに呼応して、「ファン」の方も、ますます熱が入ったり歓声が上がったりします。そして、それがさらに、「かまきりりゅうじ」役の振る舞いを引き出します。
Aタイプが「理解→表現」という一歩通行だった「なってみる」から、Bタイプは「理解⇄表現」という相互循環の関係。つまり、「かまきりりゅうじ」として動いてみることで、新たな「かまきりりゅうじ」像が見えてきたり、別の表現が引き出されたりというように、表現することで理解が促進され、また表現につながるという循環が生まれる「なってみる」になった。
架空の世界の中で、感情を動かし、当初自分が考えていた以上のものが引き出されていく経験は、学びを、よりワクワクするものにします。
架空の世界を自らの感覚を働かせて経験する。これぞ、演劇が学びになるというものの本質だろう。
人生とは自己表現の連続だと思う。その時々で出会う人、空間(場所)、もの、それらを経験し、思考し、また表現する。
そして、「学び」はそのまま「働く」につながると思う。「働く」は「誰かの役に立つ」ことが目的だ。役になりきることで「誰かの気持ちがわかる」、理解(インプット)と表現(アウトプット)の相互循環で「ものごとの本質を探究する」
演劇は子ども時代に必要不可欠な「学び」ではないか。