僕が教壇に立つ理由 人生は意外なことでひろがってゆく

ある方から、僕がなぜ経営経済学の分野を学び、おしえるようになったのか、という質問を頂きました。
今となっては、僕にとって教壇に立つことはあまりにも当たり前のことなので、ずっと思い出すこともなくなっていました。

学者というと子供の頃から優秀だったとか、親の教育が良いとか、高い志があったなんてことを聞かれますが、そんなものは全くありません。
しかし人生は面白いもので、僕にも様々な転機がありましたが、これは決して特別なものではありませんでした。

そこで今回は、回顧録というほどでもありませんが、自分の志の源泉を探ってみようと思います。

私事ですがお付き合い下さい。

・本ばかり読んでいた子供の頃
僕は子供の頃、よく本を読んでいました。
父は職人で忙しかったですし、母は書道を教えているので、家にいないことが多かったです。
体が小さく弱かったので、外で遊ぶのが苦手でした。母は漫画を読ませてくれない代わりに本は与えてもらえたので、よく本を読んでいました。
小学生のときに読んだ本で、一番お気に入りだったのは加古里子さんの『科学者の目』という本でした。今思えばあの本が学者としての道を、、、なんてことはありません。
ただ天文が好きだったので、意味も解らず筑波大学へ行きたいと思っていました。

・急にはじけた青春時代
中学、高校時代は写真部でした。
フィルムの時代なので、好きなだけ撮るというわけにはいかない時代です。常に活動というわけでもないので、色々なことをしました。
初めてマウンテンバイクに乗ったのも中学生でした。仲の良い友人と色々なことをしていましたが、相変わらず本は読んでいました。

高校生になると、習っていた英会話のクラスが、大学生や社会人ばかりのクラスになりました。
あ、母は昭和15年生まれです。それなりに勉強はできたようですが、英語だけはどうにも苦労したそうで、小さい頃から英会話は続けていました。これは後に、自分の人生に大きく影響します。
1990年頃ですから、文字通りバブル経済最盛期、大人に遊んでもらってさらに弾けます。
相変わらず本は読んでいました。中学生の中頃から、好んで読んだのは、ハリウッド映画の原作やノベライズでした。
この頃のハリウッドと言えば、スタローンやシュワルツネッガー全盛期。男の子ですから、そうしたものが多かったです。

さてこの頃は、アメリカではビジネススクールが大人気の時代で、経済ものの映画もたくさんありました。
その中で、マイケルジェイフォックスが主演の『摩天楼は薔薇色に』という映画がありました。完全にコメディですが、高校生にも面白く感じる、ドタバタサクセスストーリーです。

既に小さな頃の夢は破れ、数学が嫌いなので当然文系コース。それまで英米科の大学を考えていましたが、「俺もバシッとスーツで決めて、肩で風を切る!」などという恥ずかしいことを言いながら、経営学部を受けることにしました。

今、僕が経営経済学を専門としている最初のきっかけはこの出来事ということになります。

今考えるとかなりイタい話です(笑)

・弾けきった大学時代
高校で成績は悪くはなかったのですが、好きなことばかりして、全く勉強をしていなかったので、大学は結局滑り止めの学校になりました。高校で3年間担任だった先生とは、滑り止めには行かないという約束をしていましたが、、、バブルの大学生と遊んだ高校時代、やりたいことはサークル活動だけです。約束はあっさり反故にしました。
大学ではESS(英会話サークル)で、一応大会に出たり、2年生から部長になって連盟の委員なんかもしましたが、いつの間にか自治会な役員や連盟の委員としての活動の方が楽しくなり(そちらが目的だったとも)、「学費は大学で遊んで元を取った!」と豪語していました。
遊んでいると言ってもそうしたことばかりだったので、成績は最低でしたが、これはこれで勉強になりました。

そして大学2年生の終わり頃、人生最大の転機が訪れます。

恩師との出会いです。

・恩師との出会い
専門ゼミを選択するとき、いくつかの気になるテーマがありました。しかし就職のことなども考えなければなりません。元立命館大学の名誉教授という肩書に引かれたのも事実です。しかし何より人の大きさというか、人柄というか、とにかく他の先生とは人の格が違うように思えたので、恩師である角谷登志雄先生を選びました。

今だから言えることなのですが、先生は最初から僕にゼミ長をやらせるつもりだったようでした。
学内でそれなりに顔がしれていましたし、一応リーダーシップをとる立場なので、先生の思惑通りゼミ長になります。
相変わらずサークル活動ばかりでしたが、ゼミをサボったことはなく、真面目に取り組んだつもりです。

4年生になり、就職活動を始め、相変わらず井の中の蛙で調子に乗っていた頃、先生が思いがけないことを仰いました。

「研究者を目指してみませんか」

この言葉から、今の僕に繋がる人生が始まりました。続けて先生は仰います。

「名城大学を受けなさい。しかし必ず落ちます。指導するから1年頑張りなさい。」と。

指導教官が、大学を卒業して、大学院浪人しろと言うのですから、全く意味が分かりません。しかも僕が大学に入学した時点でバブル経済は崩壊していましたから、ある意味で無茶苦茶です。

しかし正直に言うと、僕の虚栄心をくすぐったこは事実です。家族でも何度も話し合いました。年上の知人に相談し、大学院は甘くないからお前には無理とも言われました。

しかし先生の薦めは魅力的でしたから、進学する方針に切り替えました。

そこからは月に2回ほど、ゼミの後で先生をご自宅に車でお送りし、御指導を頂きました。進学するとなってから、先生は驚くほど厳しくなりましたが、僕はそこで気持ちが引くことはなく、むしろ先生は、僕にとって絶対の存在になっていきました。

ここからはずっと茨の道です。
しかし今考えると、ご自宅でまで御指導頂いたときに、学者とは何か、学問教育とは何かを教えて頂き、その道に進むことの覚悟をしたように思います。

今回は勝手な回顧録でしたが、、、

もしかしたら若い教員の方も読まれているかもしれませんし、さらに若い方もおられるかもしれません。
今思えば、人生の転機は些細なことから始まります。しかしそれをどのように選択するかは、その人次第のように思います。

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