年の初めに思うこと マーケティングを考える

昨年は生活環境やビジネス環境など様々な面で、変化を強いられる年になりました。しかし一方で、これまでの価値が問われ、新たな価値観が芽吹いた年にもなりました。

このことを考えていて、ふと、大学院時代のことを思い出しました。
そこで今回は、もう一度、マーケティングについて、考えてみたいと思います。

大学院の頃、多くの先生方に教えを頂きましたが、その中に、マーケティングが専門の先生がおられました。当時、僕は米国の航空産業をテーマに研究をしていました。経営学だけでなく、交通経済学という分野からの視点もあり、経営分析だけでなく、交通政策の面からも研究していました。
あるとき、僕はその先生に「行政はマーケティングをしなければならない」という話をしました。先生は、僕がそう考えた背景と理由をたずねられ、僕はその説明をしました。

先生はうなずきながら話を聞いた後、きっぱりと「行政はマーケティングをしない」と仰いました。

僕はこれまでの話に問題があったとは思えないので、少しむきになって反論しました。
当時(1990年代後半)は、まだ行政にそのような視点はほんの僅かでした。しかしバブル崩壊やその後の社会情勢の変化などから、行政の在り方が問われるようになります。
特にこの頃は規制緩和について議論がなされた時期で、僕は安易な規制緩和には反対の考えを持っており、適切な行政政策にはマーケティングが必要だという考えでした。

すると先生はまたうなずきながらにこやかに話を聞いて下さり、一言こう仰いました。

「行政の業務は市場活動ではない」と。

僕の考えは、間違ってはいません。しかし基本的な考え方として、マーケティングは市場を創造する行為であり、市場にはたらきかけるものです。しかし行政政策には市場は存在しません。
これが公企業マーケティングであれば成立しますが、行政政策が扱う対象の多くは、むしろ市場の機能では維持できない生活基盤が多く、単にマーケティングを持ち込むと、かえって切り捨てることになりかねません。
とは言え、縦割り行政による問題や、限りある財源で公共の福祉を最大化しようとするとき、マーケティングの考え方や手法が不可欠です。だからと言って、特に研究者が、行政によるマーケティングという表現をしてはならない。

先生はこのようにご指導下さりました。

言葉は、その場その場で違った意味で使われます。ロジカルシンキングの講義では、最初に「言葉は意味の入れ物」という話をします。しかし学術論文や学術書を書く研究者には許されません。学会では、このような論理的整合性に反したものは、エントリーすらできません。

さて、なぜマーケティングを考えるうえで、この話を記したか、と思われる方がおられるでしょう。

昨年は、色々な意味で「価値」が問われたように感じています。消費者の生活様式が、否応なしに変化せざるを得なくなりました。また、ビジネス環境や労働環境も、言葉だけで一向に進まない「働き方改革」を、表面的ではありますが、テレワークの推進などによって、基盤が整わない状態で実行しなければなりませんでした。
その結果、多くの歪みが表面化したのですが、これはそもそも、企業や社会の、既存の問題を放置したためだと常々論じてきました。

マーケティングについても同じです。
僕は講義で、マーケティングを「Market」+「ing」と説明します。つまりマーケティングとは、市場を前提とした施策に他なりません。
これを無視して、場当たり的な理論の活用や対応では、全く意味がありません。

そうそう、昨年は、行動経済学についての質問を多数頂きましたが、ここでは全く触れていません。
なぜなら行動経済学は、そもそも基本的な経済学が解らない人には、安っぽい占い程度の意味しかないからです。
(これを適切に理解するには、数学も欠かせません!)

マーケティングとは、市場に対する積極的、建設的な働きかけで、これがらの社会が認識しなければならない価値を創造し、市場という社会システムとして形作ることを意味します。

以前、社会人向けの講義で、受講者の方が、「人生もマーケティングが必要ですね」と仰いました。

皆さん自身の人生を豊かにするために、新たな「教養」として、マーケティングを考えて頂けたら嬉しいです。

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