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「田舎暮らしは目先の本流」をロジカルに説明しきった本を紹介。田舎に興味ない人こそ必読。

読書感想文というのは、子供の頃から嫌いな宿題の筆頭格。そんな私でも、この本を紹介せずにいられません。

日本列島回復論 井上岳一

要約や論点整理はAmazonの優秀なレビュアーに譲りますが、自分の思考や今周囲で起こっている現象とリンクする部分がたくさんあったので、その点を書きたいと思います。

地方暮らしを選択する人にとって何よりも後ろ盾になる

私が福島県会津地方にUターンするのを決意した際、自分の行動を正当化してくれる言葉を探し求めるかのように、「地方は死なない」的な地方創生の本を読み漁りました。

日本の歴史に基づいたもの、観光立国として国の目指す方向性を示すもの、数字として現れる若者の移住実績を示すものなど、様々な側面からそれを支持する本は多々あります。

しかし東京を背にして田舎に帰って生きなければいけない理由を確固とした論拠を持って言語化できませんでした。

「大企業の歯車として働くことは自分の人生を社会システムに消費させられているのだ」という確信はあります。しかしどうしても「都会で心身満足した生活を獲得できなかった」ことが自分の能力の欠如に依るものといいう意識がありましたし、出戻りは逃げだという劣等感を払拭できなかったのです。

このような思いに苛まれた末に、私の中から最後に産まれてきたのは、次の考えでした。

何も持たない自分であっても、疑いようがなく揺るぎないものは、
つまるところ、「生まれ育った故郷」の存在

そして生物としての遺伝子と生活様式を共有している「肉親」の存在

それを拠り所にし、守ってもいく

「日本列島回復論」(以下”当該書”)では、何も実際の故郷だけでなくIターンでもかまわないのですが、山水郷(海や山に囲まれた郷)を「引き受けて生きる」という精神的な拠り所が日本人に必要だということが示されます。主張されるのではなく、「証明される」に近いです。

当該書のような膨大な論拠や考察の積み重ねなく私がたどり着いた自分の結論と偶然重なったのです。

「田舎の人間は格下」という思考は日本人として非合理

私の悩みをみてのとおり「地方を格下に見る感覚」が我々を支配していることに対してガチンコで戦いを挑まない限りは、何を言っても「負け犬の遠吠え」に聞こえてしまいます。それは他の本では棚上げされていた感があります。

しかし当該書では真っ向勝負します。現代ではトップランナーといえそうな「どこの会社でも働いていけそうなスキルを持つ人」であっても、「所詮は都市の中での話」「人間として生きる力が高いことを保証するわけではない」と一刀両断します。

確かに言われてみれば、我々は人の優劣を、現代の経済論理と社会システムが確立されたここ数十年の価値観で判断していることに気付きます。

私が拠り所にして継承したいと思った中に「父親のスキル」というのがあるのです。これは決して、今の世で大金を稼げるスキルのことではありません。

私の父親は兼業農家で、稲作はプロと言えますが、自分で食べるぶんの畑もやります。思いつくような野菜はほとんど自分で作ります。イチゴやメロンも作ります。

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しかも工業高校出身で、機械いじりが得意です。ちょっとしたことなら車の整備も自分でやるし、何十年も使っていてメーカーにメンテナンス部品すらないような農業機械を自分で保守します。

家屋周りにしてもそうです。屋根は自分で塗料を塗り、壁紙を貼り、古い家屋の規格外の窓枠は自分で作り、TVアンテナ設置と屋内配線などの電気系統も自分でやります。鉄パイプやトタンをホームセンターで買ってきて機械小屋も立てます。すべて不格好かもしれませんが、とにかく何でも自分でやります

私はある日、自分で自転車のパンク修理をしていて不思議に思いました。なぜ誰からも教わらずできているのだろうと。

今みたいにYoutubeのHowTo動画もない時代です。これは幼少期に親の背中を見て育ち、見様見真似で大人用の工具をいじって遊んでいたからなのです。

今思えば、私が高校生のときに初めて男子も家庭科の授業が必須になりましたが、リンゴの皮も剥けない同級生も多い中、誰よりも細かくキャベツの千切りができました。数学よりも物理よりも、美術の彫刻や技術の木工が得意でした。
どこまで先天的でどこから後天的な能力なのかわかりません。別に父親っ子などでもありませんし特に仲良くもありません。しかしこれは明らかに父親の影響を受けています

そして父親と同じく、この特技は直接的に仕事で金を稼ぐスキルには繋がりませんでした。どれかが抜群に優れていたなら、職人になったりする道もあったかもしれませんが、コレというものもありません。気付けば対人スキルに欠く点も似ている気がします。

ならば、現代のビジネスで成功できる才はなかったとして、父親は、私は、劣った人間なのか。

それは「現代の価値観」の物差しでしか見ていないからではないのか。

自分の話が長くなりましたが、当該書では、田舎が劣るという考えこそ、近代以降の為政者により組み上げられたものに過ぎないことを解き明かしてくれるのです。
その論理展開力に何より恐れ入るのは、精神的な拠り所として地方を選択することは至極合理的なのだという著者の主張が、引っかかりなくすっと入る点です。(森林についてのウンチクが多いことや、重機のコマツが企業事例として取り上げられるなどの点に偏りはありますが、論拠を弱めるものではありません)

「家族一番」では日本は回復しない

私は、Uターンを決意した時点で既に妻子がいましたが、故郷に戻りたいという思いは「妻と子供のために今の環境でがんばる」という気持ちを凌駕しました

都会の多くのお父さんたちは「家族への思い」で人生を乗り切っているのでしょうか。当時はそれを自分ができないことにも後ろめたさを感じたものです。

しかし当該書では、後半に「日本人は何を足場、拠り所としていくべきか」という難題に答えを出す上で、「家族のため」の妥当性を問います。
そこでは、近年の熟年離婚の増加から

「夫婦愛もそれほどアテになるものではないと思ったほうが良さそうです」

と一般化した上で、

「そもそも核家族は一世代限りのものですから、家族を足場とすることには所詮限界があるのだという冷めた認識を持つことも必要でしょう」

とまで言います。核家族であるとすれば、かつてのイエのような強固な共同性や永続性はなく足場としては脆弱だというのです。

「自分にとって家族が一番」というとなんだか良識人の代表のように思えます。プロ野球の外国人助っ人が妻の出産で試合そっちのけに帰国してしまうようなエピソードは美談と思っていました。むしろ働きすぎの日本人は家庭を大事にしないと咎められてきた気さえします。

この言わば「"家族のために"教」を脆弱だとあたかも一掃するかのような著者の思想は、多様な個人の価値観をないがしろにしているようにも感じられますし、土地と世代を継いで初めて成り立つ林業の世界に浸かった著者の経歴からくるものだと距離を置いて捉えることもできるでしょう。

しかし、流行りの環境保護もSDGsも、自分の世代の幸福だけを最大化するのでは成り立たないものであることは明白です。そこには自己犠牲に立った長期的視点と未来に対する思いが不可欠。

自分の家族を大事にするのはある種当たり前ですが、それを拠り所としているだけでは、生活基盤の固定化や世相による束縛から逃れられず、大局的な視点で初めて見つけることができる本流にはたどり着けないのだと思います。

なお、私の場合は下記の記事の通り、Uターンするにおいて、タイミングやアフターフォローなどで家族になるべく迷惑かけないことを考えました。

しかし無理だと言われたら人生を分かつ覚悟でした。そこで、そのような思いをする人が少なく済むように、「SE地方回遊制度」を提言したのです。


「地方イラネ」を論破

この本の革命的なところは、ネットでもよく言われる、「地方イラネ」的な論調に対してぐうの音も出ないほどの反論を与えるところです。

私は上で「東京を背にして田舎に帰って生きなければいけない理由を確固とした論拠を持って言語化できない」と書きました。

「美しい自然を身近に感じて生きたい」、「人間としての多様性を失ってはいけない」、「自然と共存することが人間の持続的な生き方」といった、なんだかもっともらしい理由は言えます。しかし、これだけは、田舎が無いと人間が繁栄していく上で何か阻害されるのか、居住地が淘汰され移りゆくだけでないのか、という疑問への答えは出せません。

しかし当該書では、自然災害抑制の上でも、日本としての国家競争力向上の上でも、地方回帰は必須要件であると論理的に帰結させるのです。これは目からウロコです。

最近、地方では住宅街でも熊が出没するというニュースがよく聞かれます。私は、人間が山林を開発したために、住処や餌がなくなった野生動物が山を降りてきたためだと思い込んでいましたが、この本を読むと、原因はまったく逆だということがわかります。

また、田舎を尊ぶ人たちは一様に田園や田畑の風景を美しいなどと尊大ぶりますが、所詮はそれも人間の手が入った「不自然」であり、農薬や化学肥料も使います。自然を人間の経済理念でコントロールしているという意味ではコンクリートのビルを見るのと本質的に変わらないのではないかという思いもありました。しかしそれも、日本人が自然とせめぎ合ってなんとか生きていくために必要な作業だとわかります。当該書では、自然の作用を天道、人間のそれを人道と呼びますが、

「天道に抗して人道を立てることは、人が生きていく上で不可欠でした」

と記述しています。つまり、自然に人間の手を入れること自体が、日本人が生きる上で大きな役割を果たしていたのです。

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もっと頭を打ちつけられた気になった部分があります。福島県で原発事故の被害を受けた町が居住不能となり、野生動物が増殖・徘徊していることについて、私が考えていたことがあまりに浅はかだったことがわかったのです。

これほどの期間で野生動物が復権する姿に対し、「自然の回復能力は頼もしい」とか「開発で荒廃した山々も、人間が何もしなければ元に戻るのでは」などと楽観視・ポジティブ視していたのです。そんな都合の良い問題ではないし、まして被災者の事を考えたら極めて他人事な物言いであり、反省しました。

(そんな私が言うのもなんですが、文脈上の表現とは言え、福島を一度だけ「フクシマ」と記述しているのは、少し配慮に欠けるかなとも思いましたが)

地方都市で実証実験しソリューションを生み出す企業しか生き残らない

最後に取り上げたいのは、地方都市が未来の産業に与える貢献について記されていることです。

著者は、日本の主力産業が製造業からソリューション・サービス産業に変遷する大前提を突きます。

これの流れは、トヨタが「車を売る企業から、『移動』に関わるあらゆるサービスを提供する会社になる」と宣言したことからも明白です。そのほかにも日本が強みをもつ一部の電子部品産業を除いては、エンドユーザーが手に取る完成品の販売を主力とした会社はほぼすべて、ソリューションビジネスの売上比率増加を目指す方針を打ち出しています。家電業界は顕著で、キヤノン、リコーといったドキュメント系企業はもとより、富士通・NECといった官公庁お抱えIT企業さえそこに存続を賭けます。

その前提をもとに、「ソリューションは現場で作られるもの」と喝破し、新サービスを次々と立ち上げる実証実験の場として地方中堅都市が最適だと言います。このあたりもフォローしつつ考察できるあたりは、農学部→林野庁というバックグラウンドに留まらずローカルDXのコンサルを務める著者の真骨頂でしょう。

この提言はまさに、私が住む会津若松市が「スマートシティ」として企業を誘致するためのに立てる戦略そのものです。

↑この記事を書いたときは、「実証実験」でそんなに企業が飛びつくの?と疑問でしたし、なぜ会津若松?とも思いましたが、大きな将来を描いている企業にほどそのニーズがあるとわかりました。

しかしその一方で、地方の多様さを世界における日本の優位性として維持し続けるには、地方それぞれの伝統にITを組み合わせて価値を高めることが何より重視されるべきだという考えは変わりません。

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当該書でもそれについて述べていますが、具体的な手法についてはテーマ外なので、個々の自治体で自らが考え出さないといけません。
もちろんそれらは実証実験誘致と相反するものではなく、ソリューション実証実験の機会を通じて伝統産業がITに出会うこともあるだろうし、一方で伝統産業・文化が持つ個々の特色が、企業による独自ソリューション立ち上げのアイディアを誘発するかもしれません。

逆に言えばそういったアプローチが増やせれば、単に「うちで実証実験やりませんか?規制ゆるくしときますよ〜補助金あげますよ〜」というだけの不毛な争いに参入しなくて済むのではないでしょうか。

当該書の主張どおりになれば、これからは地方に夢が持てる一方で、自治体がどこよりも知恵を絞りきって仕事をしなければいけない時代になるということです。


とにかく、頭をスッキリさせてくれる本でした。
(地味なタイトルなので、もっとポップにして欲しかったくらい)


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