見出し画像

プログラミング教育の意図を好意的に考察してみた

今回は僭越ながら次の記事について、私見を書きたいと思います。

著者のharuさんは学校現場でのご経験をお持ちということで、どの投稿も現場目線から課題を語っておられます。私もフォローさせてもらっていますが、勉強になります。

私と教育との関わりというと、自分が学ぶ方ではどっぷりと受験戦争にまみれて劣等感も味わいましたが、小、中、高と田舎の公立学校ながらも、それなりな大学に入ることができました。
都会の中高一貫校などと違って中学時代はただ遊んでいたので、高校に入ってから軍隊の訓練の如く勉強をさせられました。ギリギリ体罰が黙認された時代です。

家から学校まで遠く塾も通っておらず、ましてや「勉強しろ」「家の手伝いをしろ」という二重規範な親父に育てられた中で、効率よく勉強することが求められたわけですが、最終的には「テクニックに頼らない」「暗記はしない」「納得するまで頭で考える」という効率とは逆行した三本立てでなんとかやってきました。そこから生まれた座右の銘は「勉強はちゃんとやればなんとかなる」です。

また、兄が高校で教師をしていること、そして私は仕事の中で、とある県の学校教育の調査研究機関に電子黒板と関連ソリューションを多数収めた経験もあるので、教育現場には関心をもっています。

ということで、現場を知らぬ人間が意見することをお許しください。(haruさんの記事は問題提起が趣旨だと思っているので、反論したいのではありません!)

プログラミング教育の意図とは

「プログラミング的思考」とは何なんだ。とりあえず、学校でやってみてください、と言われているような印象だ。プログラミング教育が導入される前には、子どもたちがコンピューターに親しむ目的で、ICT教育が導入される流れがあった。しかし、ICT教育が成功しているとはあまり思えない。

まず、「プログラミング教育」と「ICT教育」は、ちょっと言葉の階層が異なる気がしています。それらは別々に考える必要があると考えています。

指導要領の「プログラミング的思考を育成する」という言葉の通り、教育で求められるプログラミングの本質は「思考」なので、極端な話が紙と鉛筆でも教えられるものなのです。だから「プログラミング」という授業をすることが必須なのではなく「各教科で取り入れる」という趣旨だったと記憶しています。確かに世の中のあらゆるところにプログラミング的思考は潜んでいるのです。

ただ、結果のアウトプットに対する効果をわかりやすく体験するために、現実的にはパソコンなる機械を使わざるを得ないということになります。
Forループを1000回まわして結果が一瞬で出てきたときの爽快感は紙と鉛筆では味わえませんからね。

Forループの話でいうと、それは法則さえ定めて計算機に仕事を託せば1000回の手作業が一瞬で済むということになります。
そのためには、そういった効率化ポイントを見つけて、何を変数にしてそれをどう使うかを考えないといけないのですが、それが「プログラミング的思考」だと思います。
たぶんこういう思考をしたことがない人は、コピペを何回も手で繰り返したり、同じ情報を何度も入力したりする無駄さに気付かないのです。これはやらないと気付きません。「めんどくさいなぁ」と思うのに、「無駄なことやってるなぁ」とは思わないのです。

プログラミングしたことないけどそのくらいわかるよ、という人はセンスのある人です。私の中学時代の数学の先生は、テストの答えが合っているかどうか一瞬でわかるように、回答の何桁目を足したらゼロになるだとか暗号めいたものを仕込んで丸つけを効率化していました。まさにパリティビットによる誤り検出の考え方です(というかそのタネを生徒にばらしちゃまいずだろうと思うのですが)。プログラミングと親和性の高い数学の先生(高齢)がそれをしていたというのは、プログラミングが技術である前に「思考」であることを物語ります。しかし多くの人はそうはいきません。

数学の三段論法があらゆる論理的思考の基礎になるように、プログラミング的な思考が基礎としてあるかないかで、仕事の効率はまったく変わってきます。職業人間を育てるのが教育ではない、というのはもちろんあるでしょうけど、戦争の時代から富国のために教育がコントロールされてきた状況は今でも変わらないし、そんなきな臭い話を出すまでもなくそれに向き合わざるを得ないのが今の日本の状況であることを次に述べます。

リスクをとっても変わらなければいけないのが今、ということ

確かに生きていく上でプログラミングは全員には必要ないかもしれません。しかしそれを言い出すと習字やそろばん、水彩、中学では古文や漢文などよりは使う人が多い世の中になるのは確実と思います(誤解のないように言えば、個人的には美術や漢文は好きです)。

教科の優先順に正解はありませんが、国民のICT理解が遅れているせいで日本に危機が訪れているというわけだから、この状況は看過できません。民間に対しても「2025年の壁」というレポートが出ているくらい、経済損失が大きいのです。

世の中の流れに沿って仕事を変えなければいけないし、それが結果として正しいかどうかはやってみないとわからないというのは一般企業では当たり前なので、教育現場も変えるところは変えなければいけないということになります。
ただし企業ならそのプロをヘッドハントしたりもできますが、教育現場はそうでないという点では過酷です。さらに「ゆとり教育」の前例があってお国に懐疑的な感覚になっているところに、意図が十分に伝わらないまま現場丸投げっぽくなっている点が問題なのだと思います。そういった手続きのまずさは同情しますし、相手が子供だから「失敗でした」では済まされない点で結果にシビアにならざるを得ず保守的になりがちなのは理解しますが、時代に応じて教育の中身が変わることは避けられません。

ところで、高校まで含めて物理はニュートンの古典力学止まりなのはなぜでしょう。アインシュタインの相対性理論からもう100年経つのにちっとも学校で教えてくれません。微積分が必要だからかもしれませんが、相対性理論と量子力学についても考え方くらい教えてくれてもいいのに。大学で急に常識の根底が覆されてびっくりするじゃないですか。

話を戻しますが、身も蓋もないことを言ってしまうと、

「日本国は、ITは人間らしい情緒性を損なう害悪と断定し、一次産業に回帰した独自路線で国民の幸福を最大化していく」

とか総理大臣が言ってくれたのなら、教育でもやる必要はありません。そうでなく、国が、

「先端技術を国の基幹作業としていくから、ITを強化しろ」

と言っているのだから、やるしかないのです。これは会社員がトップの理念に従うのと一緒です。トップが言っていることがおかしいなら選挙で変えるしかない。ある程度趣旨がまっとうなら、あとはいつ誰がどうやるかという問題です。それを考えてみたところつきつめたら幼少教育に取り入れるしかないのではなかろうか、という趣旨で下の記事を書きました。

韓国では、ICT 教育に関する積極的な研究および開発を国家レベルで行う「韓国教育学術情報院」という組織が存在するらしいです。日本でも先生をサポートできる組織が必要ということになりますね。私が電子黒板を納品した組織はそれにあたるもので、ITに詳しい先生がたくさん在籍していました。

電子黒板は、今すぐ結果を出すのは難しい

次に、ちょっとプログラミング自体からは離れて「ICT教育」の話をしたいと思います。

上の「教育の ICT 化に向けた環境整備5か年計画 」では、パソコンの導入とか高速回線の導入といった、ある意味大前提となるインフラ導入が挙げられる中で、「大型提示装置(いわゆる電子黒板)」がそれらと肩を並べていることには確かに違和感を感じます

既にその効果が怪しいことが、調査結果で統計的にも示されています。
ただし電子黒板自体が駄目なのではなく使う側が使いこなせないという要因が排除できません。もちろん完璧に使いこなしても効果ないかもしれませんので、その効果を正しく測定できる条件を揃えた上で実験的なポジションで細々と続けて検証していくしか判断しようがありません。

また身も蓋もないことを言いますが、液晶型の電子黒板ははっきり言って家電メーカー・電子機器メーカーがテレビが売れなくなったから仕方なくタッチパネルをつけて付加価値を高めた(つまり価格を上げた)製品に過ぎません。つまり完全なプロダクトアウト型製品です。
教育現場で、こういったものがあったら欲しい!とメーカーに切にリクエストして共同開発した教育者がいたでしょうか。いたらその人が何を思ったのか聞きたいですが、知りません。もちろん、電子黒板メーカー側が、これで日本の教育を変えて国を良くしていく!なんて思ったわけでもありません。

電子黒板は、たしかに教育に使えそうな便利機能が豊富であることに異論はありません。しかし単に映像を流せるとか板書をする時間を省略できるとか「時間が短縮できた」「便利になった」くらいの考え方ではそのポテンシャルは発揮できない難しい機械なのです。

アクティブラーニングという言葉が流行りましたが、やはりソフトも一緒となって、生徒に別の端末を持たせた上でブレーンストーミング的な使い方をするならば合っていると思います。
書く位置もスペースも限定されず、複数のアイディアをまとめて貼り付けでき、後から字の大きさや色を変えたりといった特徴は、企業の企画アイディア出しなどではとても便利だし、アイディアを掘り起こす上で効果もありそうです。終わった後の結果の共有も楽ちんです。一度使ったことがあると、マジックのホワイトボードはもう使いたくなくなります。
結局そういった効果を享受するためには、それで何をやったらよいかという明確な位置づけをした上で、使う側のリテラシーが必要になるということです。

教育に何を求めるかの定義付けが必要

haruさんの記事の中で次の内容に、なるほどなと思いました。

ICTを取り入れている先生というのは、実のところ、あまり指導技術が高くない場合がある。板書のスキルが低かったり、言葉だけで子どもを惹きつけることが難しかったりする場合、ICTに頼ることがあるのだ。指導技術が高い先生になるほど、ICTを導入しない傾向にあると思う。反対に、指導技術のない若手教員が応急処置的にICTを導入しても、長期的にはICTに頼らなくても良いように、板書の練習などをしましょうね、という指導が入る。

その一方で、ICTを使った教育方式が全体的にレベルアップしていけば、先生の個人スキルに頼らなくても良質の教育が均質的にできるようになるかもしれません。過疎地域でも遠方の名物先生の講義を受けさせることもできる。
授業の個性がなくなって名物先生もいなくなる、先生との触れ合いも教育だ、という批判はありそうですが、特定の教科の先生の教え方がヘタでその教科も苦手になった、という悲劇が防げるならそれも良いことだと思います。

国の方針に思考停止せず、なおかつ自分の今までのやり方にも甘えず、ICTも熟知した上で従来の方法のほうが教育的効果が高いと判断してあえて従来方式を選択している教師がいればなお良いことです。個人意見としては人間性や話術に魅力がある人ならチョークを電子ペンに持ち替えても魅力的な授業ができると思います。

---


結局は、haruさんの記事のタイトル通り

プログラミング教育で、何を目指すのか。

について明確に示されて現場が理解した上で、同じ方向を向いて働かないと、効果は生まれないということです。つまりトップの舵取り次第で毒にも薬にもなる
これは企業の経営理念の話とまったく一緒ですね。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?