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カウンセリングの限界

まず前置きとして、この記事に書かれていることは全て私個人の考えであり、カウンセリングや心理療法の否定ではありません。あくまでもいち個人としてのスタンスを綴ったものです。そこをご理解していただきたく思います。

我が家の息子は、スクールカウンセラーにカウンセリングを受けたことがあります。
なぜカウンセリングを受けたかというと、学校内で同級生から恐喝被害に遭い、情緒が不安定になってしまったからです。

恐喝の詳細についてはこちらをお読みください。↓

事件発覚後、安堵感からか、一気に感情が爆発したようで…本人は普段通りに明るく振る舞っていたのですが

脈略もなく 
不安感を訴えたり
突然怒り出したり
突然叫んだり
突然ぽろぽろ泣いたり
ということが見られ…
夫婦で話しあった結果、念のためにカウンセラーに診てもらったほうが良いのではないか?ということになり、面談を予約することとなりました。

私は大学である程度の心理学(発達心理学や青年心理学、教育心理学など)やカウンセリング理論について学びました。
クライエント中心療法は、多くのカウンセリングの基礎となっていると思います。そのクライエント中心療法(パーソンセンタードアプローチ)の理念については、おおよそ理解していると思います。

その上で、息子にカウンセリングを受けさせて…結局
数回しか受けずに終了しました。

そこで私が感じたことを綴ってみたいと思います。

ラポール(信頼関係)の構築の難しさ

当初から息子は、カウンセリングに対して全く乗り気ではありませんでした。
本来カウンセリングは本人に面談の意思があって、カウンセラーとクライエントのラポールが徐々に形成されていくものだと思います。(それでも一朝一夕には形成されるものではないはずですが…。)
クライエント自身も「自分の抱える苦しみをどうにかしたい」という切実な思いがあるからこそ、カウンセリングにかかるのだと思います。

しかし往々にして、子どものカウンセリングは親の判断で連れて来られる子がほとんどなのではないかと思います。
親に連れられてきた子どもがカウンセラーとラポールを形成するのは、大人の何倍も大変なのではないか?と想像します。

実際、息子も親に言われて渋々といった状態での面談であり。
カウンセリングの必要性を子ども自身が感じられないまま、面談に臨むといった様子に見えました。
そうした受動的な状態では、当事者意識が希薄となりがちで。
そのため、「なぜカウンセリングに行かなくてはいけないんだ」といった反発にも繋がりました。

息子は「僕は大丈夫なんだ!」と一生懸命に、被害者であるということを否定しているように私には見えました。
素人の私の目から見ても、自分の受けた傷を認めたくない心理が働いているように感じたのです。

そうした状態でしたので、カウンセラーに対してあまり良い感情を持てる様子ではありませんでした。
しかし如才ない息子は、当たり障り無く、優等生な回答を面談ではしたそうです。
結局最後まで、カウンセラーに心を開くことはありませんでした。(本人がそのように言っていた)
そして実際、子どもの面談後に親の面談もあるのですが…、あまりにもふんわりとした雑談ばかりで…このつかみ所の無い会話に何の意味があるのか?と私自身カウンセリングというものに対する疑問が浮かぶばかりでした。

そしてある日、息子から
「なぜあんなくだらない話をしなくてはならないのか?
カウンセリングルームに行く時間が無駄にしか思えない。
そんなくだらないことに使う時間があるのなら、勉強か練習をしたい。
カウンセリングは僕が必要なのではなく、ママが必要なんでしょう?
カウンセリングに行かせることで、自分が安心したいんでしょう?

と言われてしまったのです。

私は、息子の鋭い指摘にショックを受けてしまいました。
自分でも気づかなかった、私の自己欺瞞を息子に暴かれたからです。
確かにそうです。
息子のためと言いながら…
私は息子が心配で、自分が安心したいがためにカウンセリングを受けさせたという側面もあるのだと気づかされたのです。

その日を機に、カウンセリングを終了しました。

カウンセラーがカウンセリングは無意味だと悟った話

カウンセリングを終了する時も、カウンセラーの先生は、良いとも悪いとも言わず。
「また何かあればいつでも来てくださいね。」ということでしたし…
カウンセリングはあまり有用ではない、という元々の考えが私にあったため、カウンセリングの利用を即終了させることにしたのです。

なぜ私がカウンセリングはあまり有用ではないと思うのかと言うと
私の大学の心理学の教授は、長年カウンセラーもされていた方なのですが。
長年カウンセリングをしてきた結果、「カウンセリングは無意味だ」と実感し、カウンセラーを辞めたとおっしゃっていたからです。
今まで関わってきたクライエントは、回復した方ももちろん多くいるけれど、しかし長い人ではカウンセリング卒業まで10年を要した方もいるそうで…そのあまりの時間の長さに考えるところがあって…。
無意味だと悟り、もうカウンセリングはしないと決めたそうです。

カウンセリングは苦しみと共に生きると同義なのでは?

私も以前からそのように感じていたので、教授のお話はとても納得できるものでした。
パーソンセンタードアプローチの創始者のロジャースも、クライエントの自己成長の可能性を支持するが故に、「カウンセリングで回復する良いクライエントには、そもそもカウンセラーが要らない。」と言っていたように(出典を失念)
回復するかしないかは、究極的にはクライエント自身の意志にかかっているということ。
10年かかって回復するというのは、つまりそれはその人が苦しみと共に生きた。
苦しみの中でもがき、模索し、戦い、そして乗り越えた、ということに外ならないのであって…。
それの一助としてカウンセリングがあるのだが、カウンセリングそのものがクライエントを癒やすのではなく、クライエントが人生を懸命に生きることによって癒えていったのではないか?
その懸命に生きるということの中の一つでしかカウンセリングは無い。
教授の言葉はそのような意味だと、私は解釈しました。

気づきを気長に待っている間にも時間は過ぎていく

こうしたこともあり、我が家は息子のカウンセリングを終了することに抵抗を感じませんでした。
現代に主流のカウンセリングでは、

①無条件の肯定的配慮(受容)
②共感的理解(共感)
③一致

という態度を中心として、クライエント自身の気づきや成長可能性を信じて待ち、自己決定による回復をめざしていきますが…
大人なら良いと思います。
ゆっくりじっくり傷を癒やしていく。立ち直りを待つ。
しかし子どもは、変容をゆっくり待っている間にも、どんどん成長していってしまいます。
特に学校の教員の方からお話を聞くと、先生方はとても焦っています。
ゆっくり悠長に待っている間に、子どもたちは卒業していってしまうのです。
なんとか在学中に、解決を図ってあげたいと思うのが人情であり。
とても難しいです。
カウンセリング自体は悪いものでは無いですし。

科学的根拠に基づいた支援

また、アドラー心理学では無いですが、過去に執着し原因を求めても仕方ないのではないかとも感じます。
自分の過去を深掘りしていくことより、今をより良く生きることに集中すべきなのかもしれません。

アメリカでは現在、学校教育におけるカウンセリングの限界に鑑みて、科学的データに基づく支援メソッドが主流になりつつあるそうです。
アメリカの公立学校の20%に導入され明白な成果を挙げているのだとか。

こうしたメソッドは日本の大学でも研究され始めており、導入する学校もあり。
ただ夫が京都大学での勉強会で聞いた話ですが、まだまだ日本には浸透が難しいのが現状のようです。

私も数冊の本を読んだだけで、浅学なので詳しい話はしませんが…
例えば不登校児は「とりあえず見守る」という選択をしがちだが、それが問題を長期化させる原因だと…。
ごく初期段階で介入しないと、その後の改善の見込みが薄くなってしまうため、そのメソッドでは○日以内に効果的な介入すると決まっているそうです。
すべて統計に基づいた支援です。

我が家では、カウンセリングも否定はしませんが、子どもには向かないものなのだと感じています。
ですので、科学的なアプローチも取り入れて、心の健康を守っていければなあと考えています。
私自身まだまだ不勉強で、ではどうしたら良いのか?という具体的なアプローチ法は模索中なのですが…。

おわりに

夫の知人に校長先生がいるのですが、その方は大学院まで心理学を研究し極めた方だそうです。
その方が、心理学をとことん勉強した結果「『心は論理の外にある』と考えるようになった。」とおっしゃっていたと、夫が聞かせてくれました。
「論理では語れない部分こそ、私たちは磨き研ぎ澄ませるべきだ」とも。
とても素敵な言葉だなと感じますし、
心理学を勉強した方がそのようにおっしゃるなんて、とても興味深い話です。

私たちは論理で語れるような、簡単な存在ではないはずです。
傷ついて、悩んで、苦しんで、もがいて、模索していく…。
そこから得た人生の哲学は、唯一無二のもの。
磨き研ぎ澄ませる論理の外にある心は、つまり直感的何か…。
魂かもしれません。

だから結局は…
カウンセリングに頼ったって良い。
科学に頼ったって良い。
医療に、公的機関に、友人、親に、誰かに、頼って良い。
それでも生きて、生きて、生きて。
生き抜くことが最も重要なことなんだと、私は思います。
そこから血の通った自分の哲学を持つことが生きる力になると考えます。
(哲学書ももちろん重要ですが、それらを読み、自分の中で咀嚼し吸収し自分なりの哲学を持つことが肝要なのではないかと…)

息子の心の健康が心配ではあるのですが、生きることは無傷ではいられないわけで…。
その傷も糧にしていってくれればと思います。
傷を糧にできる胆力を持てるように、親として一生懸命に息子を愛していこうと思います。


子どものカウンセリングを通して、私が感じたことを取り留めもなく書きました。
読んでくださりありがとうございます。

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