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【vol.2】100回リピってもまた聴きたくなるスルメイ曲(名曲)を紹介【集団行動】


1.Jロック界のフランツ・カフカ 真部脩一

集団行動を聴くためには、まず言葉から自由になる必要がある。
ぼくたちの身近な言葉は意味をもちすぎている。
それは安心で快適なのだけど、時々それがたまらなく窮屈になる。
今回は、集団行動というアーティストをとおして、言葉というものをテーマに考えたことをここに披露する。

というのも、集団行動というアーティストが、言葉を軽視するという重視を器用にやってのけているのだ。
作詞・作曲を担当する真部 脩一の言葉には意味がわからない。
でも、なにか意味があるような気がする。そう思って意味を探求してみると別になにもない。
そんなカフカの文学作品のようなドーナツ状の音楽を生み出し、それを中毒性のある音楽にまぶして発信する。
これが真部 脩一の才能なのだ。

言葉の意味を無化されてしまうと、途端に生き苦しくなってそこに意味を埋めようとする。

そういう楽しみ方ができるアーティストなのだ。


2.言葉は世界

言語化力ってすごく重要じゃないだろうか。
だって、こういう能力があるから、ぼくたちの認知世界は広がっていく。
前になんかの本で読んだことがあるけど、食事というのは知性らしい。
味を楽しみ、食感を楽しみ、風味を楽しむ知的作法である、と。
そうか、なるほどたしかに、”味”は知性だ。

認知機能とは世界のことなのだ。
認知することで、世界を拡張する。じゃあ、認知機能を高めることは、そのまま世界を広げることになるのではないだろうか。
ぼくは、そう信じてたくさん本を読んできた。たぶん数千冊は読んできたと思う。
それなのに、(だからこそなのかもしれない)すごく焦る。
本は読めば読むほど落ち込むよ。これだけの知識と文章力を持って、読者(であるぼく)にこんなにわかりやすく説明して出版している。
それなのにぼくは、読んでいるだけ。情報を受信しているだけ。
情報を生産している人がいるのに、ぼくは消費しているだけ。
すごく惨めったらしい気持ちになってくる。

料理の味を覚えるように、ぼくらはあたらしい概念を覚える。
得た概念ツールを用いて世界の輪郭をつかもうとする。


だからこそ言える。
大げさではなく、ぼくたち人間は認知機能の軛である。
LSDと同じ効用が得られる紙をやれば、そのことはより明らかになるのでぜひ厚生労働省が規制に乗り出す前にトライしてもらいたい(2023年12月現在)。ただし、粗悪品にご注意!


味には「甘い」「苦い」「しょっぱい」などさまざまな表現が用意されている。それらを適切な箱に入れて収納することで、ぼくたちは味を認識して、料理を覚える。
「美味しい」とはすなわち、情報の蓄積なのだ。
何かを感じて、それを言語化する。
誰もができると思っているようだけど、けっこーこれがむずかしい。
アート鑑賞の授業を受けるとそれが身につまされる。

・綺麗だった
・美しかった
・変だった
・不思議な感じだった

いろんな逃げ口上が口を突いて出そうになる。その場しのぎの言葉しか浮かばない自分の語彙力の乏しさを痛感する。
気の利いた一言を言えずにただただ無価値な言葉をそこに置くことしかできない。

しかし、ぼくはその言葉たちとは訣別しなけらばならかい。カンタンな言葉で済ませる限り、その場限りの人間にしかなれなと思うからだ。

だから、だれかの言葉を引用するのはやめだ。

ぼくの言葉でそれを表現したい。そうやって出しゃばって出てきた癖に満足に言葉を並べることもできない。

なんでか教えてやるよ。なぜなら、それはお前の言葉が未熟だからだ。
未熟な語彙力で未熟な文章力で、こんなんでプロを目指す?笑わせるな。
言葉に向き合えよ。毎日本を読んでるから?そんなのあたりまえなんだよ。
いい加減目を覚ませ。血だらけになって読め。


オリジナルな言葉を希求する。

おれだけの言葉。

そんなこと言ってる時点で、お前はオリジナルじゃないじゃん。だったら死ねよ。

そもそもおれだけの言葉なんて、あるのか?んなもんねえよ。

だから、ぼくは考える。ぼくの30年間の主観に満ちたぼくの形而上学に従うならば、人生とは言葉集めである。例外なく、誰だって言葉を集めている。本人にしてみれば、カネや名声を集めているつもりしれないし、約束を貫いているだけかもしれないけど、やっぱりそれは言葉を集めている。


ぼくらの人生の99.9%くらいが、言葉だ。
これは、ラカン派精神分析学で、象徴界とか現実界とか想像界とかで説明されるんだけど、気になる人は勝手に調べてくれ。

でも、そうだろう?
生きるって象徴界的じゃないか。

いい大学もいい会社もいい役職もいい
いい時計もいい家もいい車も所詮は記号。
ぜんぶぜんぶ象徴界の出来事だ。


つまり、ぼくたちが生きてるこの社会は象徴界なのだ。

曲紹介(1):ザ・クレーター

こういうものって、隕石でも落ちてきたら、その瞬間に吹き飛ぶんだよなぁ。
ぼくたちが必死で生きているこの世界は、隕石程度で吹き飛ぶどうでもいいものでもあるのだ。
何億円の損害を出してしまおうが、隕石がふってきたらすべてリセットなのだ。

象徴界をメタ的に自覚することは、おそらくこの社会を生きる限り忘れてはいけない知的作法である。

「第一志望の会社落ちたけど、しょせん象徴界の出来事だしなw」

そういう気持ちにさせてくれるのが、この曲だ。


現在、ぼくたちの言語力は急速に冷却されている。

言葉はより簡易的で思考が必要なくなってる。

それは、昨今のフィルターバブルやらエコチェンバーと大きく関わっている。

宮台真司に言わせれば、島宇宙化している。いずれにせよ、ゲーテッドコミュニティ的な閉鎖感に包まれている。

慶應義塾大学商学部を出たあとで監査系の外資コンサルに務めた友人が言っていた。

「日本に貧困なんてないよ。あるのは激務だけ」

こういう発言になるのは、その人の視野が狭いからでも、頭が悪いからでもない、そもそもフィルターの外側の言葉は耳に入らないのだ。

BCGへ就職した彼女が知っている貧困は、いつも実態を欠いたおとぎ話だった。

YouTube上の動画の時間が短くなるにつれて、明快でわかりやすい言葉が注目を集めやすくなった。

人々は誰かの言葉に耳を傾けるよりも、今必要な言葉を接種するようになった。

エコチェンバーな世の中には、いくつもの泡がぶくぶく浮かぶ。

けれども、その泡同士は決して交わらず結合せず、よそよそしい距離感を保ちながら、共存している。

ふと見渡せば、身近な友人は身近な属性で整えられている。

誰かがトリミングをしたわけでもないのに、似たような学歴で似たような年収で、似たような人格で似たような考え方の人間で周りがあふれている。

そこで安住してれば、言葉はそんなに多くは必要としない。

阿吽の呼吸で伝わってしまう。だから、言葉を探す必要がなくなる。

サピックスに入塾して一生懸命がんばって中学入試で進学した彼は、もともと進学予定だった地元の中学校が貧困の再生産工場であることを知らないのだ。

似たようなライフコースを歩んできた、鏡合わせのような人生しか周りにいないのは、ぼくたちだけではない。

それは、自分たちとは異なるライフコースを歩んできた人との対話不足からなる。
圧倒的に対話が欠如してる。
彼らの間には、かわされる言葉が見当たらない。

ホリエモンと成田悠輔はNewsPickcsの対談の中で言っていた。

「うめき声をあげながらわけわからない言葉を発するホームレスがいても気にならない構造をつくるべきだ」

格差社会は、今後さらに過激化していくだろう。
より多くの分断を生むだろう、しかし、彼らとの間にはコミュニケーションの断絶が起こる。
身近に「そういう人」がいなければ、存在しないのといっしょだ。
そうやって知らない間に「そういう人」は淘汰されていく。

自分以外の誰かの人生を考える余裕だったり、自分が知らない、自分が経験したことのない人生に対して謙虚になったり、他者へのリスペクトをもつためには、対話が必要なのだ。

曲紹介(2):ティーチャー?

だから、ぼくたちは借り物の言葉に安住してはいけない
主体的に、常に新しい言葉に向かって、借り物の言葉とは一定の距離をとらなければいけない。

なぜなら、借り物の言葉は誰かの通念だからだ。
ぼくが幸せになるためには、よその誰かが言った幸せそうに聞こえるものととは距離を取らなければいけない。


つまり、大切なことは先生から教わらないのだ。
自分で気がつくしかないのだ。


その気づきを得るために必要になのが、言語化力なのだ。


次回予告

次回は、Dragon Ashです。
お楽しみに。

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