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【魔法の言葉を模倣せよ】ぼくの上級日本語教室【vol.2】

1.「という」「こと」をなくすだけでめっちゃ変わる

2.真にすぐれた名文は、読み手の凝り固まった考え方すら揺さぶる

vol.1は、文章ラクラクハック系マガジンかぁいいなぁ!と思わせておいて、vol.では教室の運営理念と絡めて太宰治の『人間失格』の文章を紹介します。
でも、その前に、この教室を立ち上げるにいたったぼくの思いを聞いていただきたい。

「上級日本語教室」は、リアルに立ち上げようと考えているサロンの名前の仮称です。
文字通りの日本語能力の向上を目的とした教室なのですが、そこへ至るまでの道筋で得られる読解力と思考力に価値がある、そんな授業を社会人に向けて授業する、そんな教室をイメージしています。
将来ともリンクできるようなシェア内容だったので、そういう空間を実現しようぜ的な意味合いで今回は紹介します。



真にすぐれた名文は、概念を突き破る。
突き破った先で出会うのは、新しい自分だ。
「読む」という体験を通した先に「新しい自分」に出会う。


ぼくは、こういう文章が好きです。「新しい自分」に出会える文章を書けるようになりたいと思うようになりました。それが作家を志した動機でもあり
ます。


そして、こんな文章を書けるようになる教室があるなら通いたいと思って探してみました。
WEBライティングの教室や胡散臭い日本語教室は見つかりました。SEOなどGoogleのアルゴリズムに気に入られるための文章です。
彼らが売りにしているのは、「新しい自分」に出会うことより替えの効く誰かになるノウハウだと直感的に思ってしまいました。

替えの効く誰かになろうとした時必死になっているときの自分のことを好きになるのは難しいからです。
しかし、誰かの機嫌や顔色を一挙手一投足、伺っているような人生は、自分の人生を生きていると言えるでしょうか。



これは、ぼくが考えるような教室ではありませんでした。
じゃあ、ぼくが考える教室とはどんな教室か。日本語力の底上げをしながら、名文に触れて、名作を読み、実用的な文章術やテクニックを学びながら、文章という道の内奥に鎮座する”なにか”を垣間見てしまうような、そんな教室です。

ですので、以下のコンセプトにはそういう内容がふんだんに盛り込まれています。

■この教室が目指すコンセプト
・古典に触れながらも最先端の知識に触れるような経験をもつ文章のグルメが集う、美食倶楽部のような日本語の品評会が行われる空間
・最先端の知識で身を包み、アップデートした自分をお披露目するのが楽しみになるような空間
・交流が目的でありながら日本語の向上が目的でもあり、さまざまな目的が交差する空間

日本語なんて誰でも書けるからわざわざ日本語教室なんて開校したって、集客が見込めないと思っていました。
しかし、これは大きな考え違いでした。
社会に出て多くの社会人からの文章の執筆の依頼を受けて来たのでよくわかります。
仮に大学を出ていても、多くの人には文章は書けません。
それもMARCHや関関同立みたいなちゃんとした大学を卒業しておきながら、まったく文章が書けない人が大勢います。
炎上覚悟ですが、ぼくの周りのMARCHや関関同立の卒業生の半分以上は卒論を書く能力を得ることなく卒業していると思います。流石にそれはないと思うでしょ?多分合ってます。みんな読めないし書けません。
読めないし書けないけど、みんなこっそり生きています。さも文章が書けるような顔をしながら。


文章が書けない人は、今後さらに増加すると思います。
人は、楽をしたがる生き物だからです。それは、今流行っているメディアを見れば明らかでしょう。
TikTokをはじめとするショート動画の中には、1〜2分と短い時間の中で起承転結がまくしたてるような早口で情報を発信しています。
こういう動画は効率的に使えば、時間の有効活用につながるかもしれませんし、そのおかげで収入アップにつながるかもしれません。
でも、TikTok上にアップされる動画は、情報をわかりやすく加工されています。こういう加工に慣れてしまうと、良質な日本語を読む時にすごく苦労します。
TikTokなどの情報は、いうなれば加工食品です。
加工食品は美味しいです。しかし、加工食品しか食べられないカラダになると栄養が偏ってなんらかの失調を引き起こします。
それと同じことがいえると思います。
TikTokで情報のシャワーを浴び続けるよりも、良質な読書経験がある友人5人に「最近おもしろい本はある?」と聞くほうがよっぽど面白い解答が得られます
また、脳の理解のサイズがTikTokの検索欄になってしまったら、TikTokのアルゴリズムが推奨する情報しか摂取できない脳になってしまいます。
実際に、ぼくも卒業論文を書く時にスラスラ読めていた本を引っ張り出して読んでみたらすごくむずかしく感じました。
しばらく良質な文章に触れていないと脳は劣化します。
そして、それはある種のフィルターバブルに陥る危険性を秘めています。
そういう偏りをなくするためにも、さまざまな情報に触れておく場所が必要です。

現代は、知識にフックさえつけておけば、いくらでも情報が引き出せる時代です。
GoogleやChatGPTは、その手間を極力減らしてくれる最良のツールでしょう。
こういう時代に生きる文章力って、アルゴリズムに好かれる文章じゃなくなっていくと思います。
少しぶっ飛んだ未来予想をします。
でも、いい線いってる未来予測だと思います。
この先の未来は、もっと個人的な記述ができる能力になっていくと思います。
文章をAiが生成してくれたとき、「読む」という行為そのものが持っている楽しさを引き出せる人間の創意の方がむしろ需要が高まるんじゃないかと思うのです。
これは、一般にAIが実務作業を引き受けて、人間がクリエイティブの領域を担うというシンギュラリティ後のよくある未来予測とほとんど同じですが、
そういう情報の優位性が増す時代こそ、シンプルな体験が強調されるようになるのです。
読むとか書くとか、そういうシンプルなことができる人が求められるようになるはずです。

「読む」という経験が持つ、感情が起伏したり、立ち止まって考えたり、そういう体験を促すような文章が書ける能力を今から磨いておくのが色々と楽しいと思います。
だからこそ、そういう文章を書くための自分が通うための日本語教室note上に立ち上げたいのです。


さて、長い前置きでした。
第二項のタイトルは、「真にすぐれた名文は、読み手の凝り固まった考え方すら揺さぶる」です。


(1)太宰治『人間失格』

戦後直後の文章なのに、信じられないくらい読みやすい文章です。
こういう文章は多くあります。谷崎潤一郎の『痴人の愛』や宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』など戦前の文章なのにきわめて読みやすい文章は多くあります。森鴎外の『山椒大夫』も芥川龍之介の『杜子春』など、どれも本当に読みやすいです。

恥の多い生涯を送って来ました。
自分には、人間の生活というものが、見当つかないのです。自分は東北の田舎に生れましたので、汽車をはじめて見たのは、よほど大きくなってからでした。自分は停車場のブリッジを、上って、降りて、そうしてそれが線路をまたぎ越えるために造られたものだという事には全然気づかず、ただそれは停車場の構内を外国の遊戯場みたいに、複雑に楽しく、ハイカラにするためにのみ、設備せられてあるものだとばかり思っていました。しかも、かなり永い間そう思っていたのです。ブリッジの上ったり降りたりは、自分にはむしろ、ずいぶん垢抜あかぬけのした遊戯で、それは鉄道のサーヴィスの中でも、最も気のきいたサーヴィスの一つだと思っていたのですが、のちにそれはただ旅客が線路をまたぎ越えるための頗る実利的な階段に過ぎないのを発見して、にわかに興が覚めました。

『人間失格』より引用

さて、「恥の多い生涯を送って来ました」
あまりにも有名な冒頭なので、知らない人はいないでしょう。
でも、この冒頭よりも2文目に注目してもらいます。「自分には、人間の生活というものが、見当つかないのです」。さりげなく忍ばされてる1文ですが、この1文にこの作品のすべてが表されています。この作品の主人公は、人間というものがわからないのです。そういう欠陥を背負って生きた人間の生涯がこの『人間失格』という作品なのです。
この作品の中で最も印象的なのが世間の捉え方です。


世間とは、いったい、何の事でしょう。人間の複数でしょうか。どこに、その世間というものの実体があるのでしょう。けれども、何しろ、強く、きびしく、こわいもの、とばかり思ってこれまで生きて来たのですが、しかし、堀木にそう言われて、ふと、「世間というのは、君じゃないか」
という言葉が、舌の先まで出かかって、堀木を怒らせるのがイヤで、ひっこめました。
それは世間が、ゆるさない
世間じゃない。あなたが、ゆるさないのでしょう?
そんな事をすると、世間からひどいめに逢うぞ
世間じゃない。あなたでしょう?
いまに世間から葬られる
世間じゃない。葬むるのは、あなたでしょう?

『人間失格』より引用

この太宰らしい問いかけがぼくは大好きです。
でね、こういう考え方ってぼくの中にすっかり染み込んじゃってる考え方なんだよな。

小説家という職業は、物語の中にこういう言葉を忍び込ませて概念をインストールして、時に思考をジャックします。
村上春樹の小説なんてその典型です。世界観に惹き込まれます。気づいたら物語の中にいて、物語の登場人物について考えていたら、自分も村上春樹ワールドの住人になってしまったんじゃないかと錯覚してしまうくらい没頭してします。文章を「読む」という体験を通して、ひとりの登場人物に徹底的に入り込みます。こういう読ませるテクニックをふんだんに盛り込んで、無理筋なぼやきを物語に溶け込ませる。
名文とは、その書き手の思考や生き方まで模倣したくなっちゃうほどの魅力で充満した箱です。世の中には、そういう箱の中に入らないと経験できない種類の快楽があるのです。これが読書による快楽。

このように、日本語名人の文章の文章に込められた文章術やそのマインドなどを目標にしています。
つまり、上級日本語教室は文豪の歩んだ道を歩み直すのです。


文豪は、煌びやかな文章と惹きつけられる面白いストーリーの中に、そっと概念を忍ばせる。
こういう概念は、読者の脳にサッと溶けるように浸透する。


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