うたいおどる言葉、黄金のベンガルで#5 (映像作家・佐々木美佳)
映画『タゴール・ソングス』監督であり、「ベンガル文化」「タゴール・ソングス」などをテーマに撮影、執筆、翻訳などを幅広く手がける佐々木美佳さんによる新連載「うたいおどる言葉、黄金のベンガルで」。ベンガル語や文化をとりまく、愉快で美しくて奥深いことがらを綴るエッセイです。第5回は、佐々木さんが初めてバングラデシュへ渡航したときに体験した「食べさせられ放題」について。
#5 やさしくてしあわせな「食べさせられ放題」
「アミ・トマケ・カワテ・チャイ(私はあなたを食べさせたい)」
こんなふうに言われることがバングラデシュや西ベンガルでは多かった。手を口の方に運んでご飯を手食するジェスチャーで「トゥミ・キチュ・ケエチョ?(あなたは何か食べた? )」と聞かれることもよくある。とくにバングラデシュでは、イスラーム文化圏であることも作用してか、みんながただの何でもない一人の学生を家に招いて食べさせたがってくれた。おかげ様で今ではすっかり、東京のバングラデシュ人が運営するミシュティ・ドカン(甘味屋)が大好きだし、断食月には部屋にそれ専用のカレンダーを貼って何となく暦を意識するし、バングラデシュの国民魚であるイリシュの香りを嗅ぐと体の細胞が踊るような心地がする。日本では手に入らないグァバがときどき恋しくもなる。
バングラデシュに初めて渡航したのは22歳の春だったと思う。23歳だったのかもしれないが、ちょっとよく覚えていない。そこからかれこれ7年くらいはベンガル語と付かず離れずの距離感でお付き合いを続けている。7年というのは何かを継続するという意味ではそれなりの年月だ。オギャーと生まれた赤ちゃんは7年経てば小学校に入学するだろう。7年も飽きずに何かを続けてこれたというのは、飽き性の私にとってすごいことだ。しかしこれがもし、あの『食べさせられ放題』の経験をしていなかったら、こんなにもベンガル語と継続して関わることができただろうか?もちろん詩歌文化に惹かれてこの言語を学ぼうと思ったし、音楽シーンでは次から次へと面白い歌が生まれていることは、継続してベンガル語に触れようという理由になっている。しかし怠け者の私がそれだけでこの言語を継続しているとは思えない。世界には魅力的な言語があふれているからだ。目うつりしつつもベンガル語に戻ってきてしまうのは、22歳くらいのときに浴びるように食べたベンガル料理のせいだろう。飽きっぽい私の心身をベンガルという土地に引き戻そうとする強烈な洗礼なのであった。
ベンガル料理食べさせられ放題チケットを手に入れたのは、学会発表のために東京にやってきたバングラデシュ人大学教授の鞄持ちボランティアのおかげだ。映画祭ボランティアで知り合ったバングラデシュ人映画監督の友人ということで、その人の日本滞在をサポートを私が担当することは、自動的に決定された。「わかったよ」と二つ返事で承諾したのはいいものの、鞄持ちといってもやることは際限なく、滞在延長に伴う宿泊施設の手配から、浅草観光案内、ムスリムの戒律に引っかからないレストランの選択、帰国便に無事送り込むための早朝送迎まで、何でもやる羽目になった。今思うと非常に熱心な働きぶりだ。そんな粉骨砕身が伝わったのか、その教授から「あなたをバングラデシュで歓迎しないと受けた恩を返しきれない」とメッセージが止めどなく入った。pleaseの英単語がメッセンジャーを埋め尽くす勢いだ。
「頼むからチケットだけ予約してきてくれ、あとは全て私が手配するから、心配ない(チンタ・ナイ)」
ここで私の学生生活に、2つの選択肢が用意された。「バングラデシュに行くか、行かないか」だ。3日くらい行くか行かないか悩んだ。実は、それまで海外一人旅をしたことがなかったからだ。そもそも大学でヒンディー語を専攻しようと思ったのも、言葉を覚えることでトラブルが減るだろうと思いついたからだ。そんな慎重派の私が渡航を決意したのも、「行けばあとは何も考えなくていいっていうから」という単純な理由だったのだ。
結果的に、今ではあのときえいやと渡航できて本当によかったと思っている。3週間くらいのちょっとしたホームステイであったが、そのとき浴びるように耳にしたベンガル語や、数々の出会いや、そして何よりも毎日腹がはち切れるまで食べたバングラデシュのベンガル料理が、人生を変えてしまったのだから。
教授の自宅には客間があり、ダッカ滞在中はそこを滞在拠点として貸してもらえることになった。目が覚めるといい匂いがした。教授が作っているわけではなく、どうやらお手伝いさんが朝早くに焼いてくれていたルティ(焼きパン)をチンしている匂いらしい。1枚1枚薄いフライパンで焼き上げられたルティは、専用の保管ケースに入れられ、遅い朝ごはんを食べる人が困らないようになっている。ふかふかになったルティを手でちぎって、それをラップパンみたいにしてディン・バジ(卵焼き)をくるんで食べるんだよと教えてもらう。見た目は素朴なパンと卵なのだが、これが予想を裏切る美味しさなのだ。長旅で疲れたお腹にも優しい。卵焼きには細かく刻まれたムリ(青唐辛子)が生地に混ぜこまれており、これが朝の覚醒を促す。卵焼きだけではなく、シンプルなスパイスで炒められたジャガイモの炒め物(アル・バジ)が、ルティを大量に食べるときの味変のような役割をはたす。無限ルティ朝ごはんだ。
「オ、オネク・モジャ!(すごくおいしい)」
基礎文法レベルのベンガル語を一生懸命駆使してその感動を表現する。すると教授は、「アロ・カーオ(もっと食べろ)」というふうに、私の皿に次から次へとルティを盛ってくる。ふわふわでほんのり甘いそのパンは、飽きのこない味だから、手でちぎってはおかずたちと一緒に食べているうちに、いつの間にか3〜4枚は食べてしまう。気がつけば胃袋は上限に達してしまうので、「バス、バス、バス!(もういい、もういい)」とストップのジェスチャーを皿の前で何度も繰り返さないと、その食べさせられ放題は終わらないのだ。
朝食「食べさせられ放題」の後には必ず、甘い1杯のチャ(いわゆるチャイ)をいただく。ぐらぐらに煮詰められたそのチャには惜しげもなく砂糖が入れられていて、満腹感の後の多幸感を増幅させる。そして次にやってくるのは睡眠欲だ。
「グム・パイ(眠い)」
と説明すると、教授は、
「グマオ(寝ろ)」
と言ってあっさり睡眠を容認する。食べた後に眠れる。それを誰もとがめはしない。ここは天国か、はたまた実家なのか……? 狐につままれたような心地で、あてがわれた客間のベッドにダイブして二度寝を貪った。日中はどうせ暑いから何もできない。結局寝た方が効率がいいのだ。そんな合理的判断が二度寝を後押ししてくれる。
目が覚めるともう夕方だった。日が暮れつつある時間帯こそ、お楽しみのはじまりなのだ。
「ミカー、ウトー(美佳、起きて)」
眠りからぼんやり目を覚ますと目の前には、教授の教え子と思われる学生さん二人がいた。日本から来た客人に興味津々のようだ。私はドキドキしながら、
「アッサラームアライクム。アプナル・ナーム・キ?(こんにちは。あなたのお名前はなんですか?)」
どうみても年齢の近そうな学生に向かって、私は教科書の例文を思い出しながら挨拶をした。すると一人の女子学生は、はにかみながら、
「アミ・シャミ。トゥミ・アマケ・『アプニ』・ボロ・ナ」
と早口で返事をした。しばらく頭の中でその言葉を繰り返し、ああ! 二人称の丁寧な「アプニ」を使うんじゃなくて、親しみを込めた二人称の「トゥミ」を使えということか。と合点がいくと、なぜだか嬉しさがこみあげてきた。親しみを込めた2人称は、これまで会話をしてきた先生といった立場の人に使うことはなかった。そのため、「トゥミ」という甘美な響きを、今この瞬間にできた友だちに対して使うことができるのかと思って、感慨深くなった。
「アミ・シュルミ。グルテ・ジャボ(私はシュルミ。遊びに行こうよ。)」
年齢のちかいシャミとシュルミと私は目覚めて3分で友だちになって、ダッカの街を散策した。教授のマンションはそもそも学園都市の中にあるから、建物を出るとそこにはさまざまな屋台が道に並んでいた。目に入るもの全てが珍しいので、私は「エタ・キー?(これは何)」と質問攻めをした。それはペアラ(グァバ)という果物だった。その場でグァバを切ってくれるおじさんに小銭をはらい、人生で初めての果物にチャレンジする。「ビトゥロボン・ディエ・オネク・モジャ(ブラックソルトをつけるとうまいよ)」という指示にしたがって、ブラックソルトの嗅ぎ慣れない硫黄の匂いとともに、未知のグァバを口の中に放り込む。
「ンー!?!?」
食べたことのない味というのはいつだって人間に新たな知覚をもたらす。スーッと鼻に抜ける爽快な香りと、味がしないのだかわからない不思議な果物の味と、しっかりとした歯応えと、パンチの効いたブラックソルトは、寝汗をかいた私には効き目がありすぎた。
「オネーク・モジャ!(めっちゃうまい!)」
体がスーッとした。グァバをエネルギー源として街をほっつき歩く。道に面した本屋にはベンガル語で綴られた本たちがところ狭しと並び、地べたに座ったサリーのおばさんはキラキラとしたバングルを売りさばく。目に入るものすべてが珍しいのだ。シャミとシュルミの「トゥミ・ショブ・ケテ・パルバ(なんでも食べていいよ〜)」の言葉を信じた私は、ピンポン玉くらいの小さな揚げパンに穴を開け、そこにジャガイモ等を入れた、日本のたこ焼きに似たフチュカと呼ばれるスナック、ただ焼いただけのピーナッツなど、ちょこまかとつまめそうな路上スナックをオーダーし、3人で回し食べをした。もぐもぐしながら、家族のこと、日本のこと、勉強のこと、恋愛のこと、辿々しいベンガル語を使いながら、一つ一つ説明しようとした。気分はすっかりマクドナルドのフライドポテトで何時間も話しこむティーンエイジャーだ。街を見渡せば、大学生たちが同じようにグループになって、座り込み、食べ、笑いながらおしゃべりに明け暮れている。周りを気にする必要も、時間を気にする必要もない。ベンガル語でうまく表現できないことがあっても、その空白は美味しくて珍しい食べ物たちが埋めてくれる。
夜の10時をまわって、教授の家に皆で帰宅した。イスラームが多数派を占めるバングラデシュでは、食べ歩きでそれなりにお腹は満たされていたのだが、
「アミ・『イリシュ』・カワボ(イリシュを食べさせてやる)」
という、教授の食べさせる指令が発動した。どうやら我々が外出している間に、お手伝いさんがイリシュのカレーを作ってくれたらしい。イリシュというのはベンガルを代表するニシン科の魚である。国民魚を振る舞われる外国人という構図は儀式のようなものだ。断るわけにはいかない。隣にいたシャミとシュルミはニンマリした。確かに私だって、外国人ゲストの案内ついでに高級寿司が食べられたら正直嬉しい。
早速、平皿が食卓に並べられていく。教授が私たちの皿に白米を盛り始めた。その白米を取り囲むようにして、ダル(豆)のスープ、細かく刻まれた野菜サラダ、野菜の炒め物、そして魚を垂直にぶった切ったと思われる堂々としたイリシュの切り身のまるまる入ったカレーが盛り付けられていく。主役のイリシュが堂々と輝く黄金比率。よそわれた各々から食事をスタートするスタイルだ。私には外国人だということでスプーンやフォークを用意してくれているものの、皆は慣れた手つきで手食を始めた。なんだかそっちの方が美味しそうで楽しそうだと私は思った。目の前に座る教授やシャミとシュルミの器用な仕草を見ながら、見よう見まねで白米をつかんでみるのだが、米自体は日本米とは異なりねばつきがない。パラパラと指先からこぼれ落ちてしまうからとても難しい。
「オー、マー!ミカ、ハート・ディエ・カッチェ!(わーお!美佳が手で食べてる!)」
二人はキャッキャと盛り上がる。
「アミ・シキエ・デボ(教えてあげよう)」
教授は初心者コースを担当するインストラクターのように、一挙一動を丁寧に教えてくれた。太いカタ(骨)をとりのぞき、指先でほぐしたイリシュの身とジョル(グレービー)を絡めると先程パラパラとこぼれ落ちた米は指先でつみれのような塊になった。
「エバべ(こうやってな)」
米と魚の塊を、教授は口の中にホイっと放り込んだ。そしてモグモグと咀嚼する。
「クーブ・ショホジュ(超簡単)」
教えられた食べ方に従って私も指先で塊を作る。言われた通り原理がわかれば超簡単だ。イリシュの高貴な香りとマスタードシードの独特な香りが鼻をつき抜け、魚そのもののもつ濃厚なうまみが口の中いっぱいに広がる。
「クーブ・モジャ……(超美味しい……)」
思わずため息がこぼれた。バングラデシュで魚の王様と言われるのも納得できる。これはなんというか、カニを貪り食べるときの恍惚感とどこか似ているのだ。興奮する私を「チーム・バングラデシュ」が「しめた」と言わんばかりに笑顔いっぱいで見つめる。イリシュのおかげか皆は白米をどんどんおかわりし、「イリシュカレーの宴」は瞬く間に大団円を迎えた。シメのチャを1杯すすりながら、日本で生まれ育ったお腹がパンパンになったのを撫でる。もう、動けない! 幸福な腹を抱えたまま、私はゴザに横たわった。
よく食べ、よく眠り、よく遊ぶお祭りのような日々がダッカ滞在中続いていった。毎日、時間のある学生の友だちが私のそばにいてくれて、むしろ一人になりたいときもあった。あまりにもハイテンションすぎたのか、途中で見事に体調を崩し看病してもらったこともある。そんな時に食べさせてくれたスパイス抜きのキチュリ(豆と米のおかゆ)の味は、小さい頃風邪をひいたときに親が食べさせてくれたおかゆのようだった。「トゥミ(きみ)」という親しみを込めた2人称を使いあう人々のふところに甘えるうちに、気がつくと帰国の時間が迫ってきた。別れ際、私は日本に戻るのがあまりにも寂しくなって、泣いた。みんなでご飯を食べる日々があまりにも楽しくて幸せだったからだ。
「チンタ・コロ・ナー。アバル・エショ。(心配しないでー。また来なよ)」
日本での大学生活はサークルにもろくに顔を出さず、やることといえば本を読むかアルバイトをするかだった。そういえばこんなふうに友達と四六時中一緒にいて、無為に時間を過ごすことはなかったと、ふと思った。本当はそうしたかったのかもしれない。バングラデシュの人々の人懐っこさにまみれながらバングラデシュのご飯を食べさせられた日々は、私の心身に深く刻みこまれ、切っても切れない縁を作り始めた。こうしてバングラデシュを離れて生活していても、ときどきふと、あのとき食べた味が無性に懐かしくなって、バングラデシュの料理をフラフラと食べにいってしまう。多感な時期に刻み込まれた味というのは抗いようもなく、ときに一人の人間の運命を方向づけてしまうのだ。