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#1 プロローグ

リングにあがった人類学者、樫永真佐夫さんの連載です。「はじまり」と「つながり」をキーワードに、ベトナム〜ラオス回想紀行!(隔週の火曜日19時更新予定)

サム・サウの三山。写真の中央のやや右(タンウエン)

むかしむかし、この世に人があらわれるよりむかしのはなし、 この地上には巨人がすんでいました。 巨人はサム・サウの三山のうえに鍋をおき、モチ米を蒸して食事しました。 おこわを丸め、こっちにポーンと投げればこっちに山ができ、あっちにポーンと投げればあっちに山ができました(黒タイの民話より)

 2019年秋の暮れ、ハノイからルアンナムターまで800キロ、10日間の旅をした。
 「ラオスにつれていってもらえませんか」
 きっかけはS氏のこんな誘いだった。
 S氏とはかれこれ20年のつきあいになる。彼は、世界各地の民族雑貨、衣装、フェアトレード食品、民族学関連書籍などを販売している。のみならず研究者、探検家、作家、記者、マスコミ関係者、財界人などとの幅広いつながりを生かし、講演会、映画上映会、旅行企画、出版まで手がける事業家として、50年にもわたって民族学の社会的営みを支えつづけてきた。
 そんな偉大な先輩にお声がけいただいて断るわけにはいかない。それに行くなら早いにこしたことはない。というのは都市部のみならず、地方でも近年の変化が激しいからだ。
 たとえばラオス国境に近いベトナム西北部にある、わたしが長く関わってきた黒タイとよばれる人々がくらすとある村でも、2000年代以降の変化はあまりに大きい。電気が来るのとほぼ同時に、テレビ、バイク、ケータイ電話、ガスが村中に普及した。伝統的な染織は廃れて民族衣装を身につける人も減った。
 物質面の変化だけではない。テレビの普及にはじまる情報化と都市化は、土地の人のことばも精神もかえた。たとえば村では黒タイ語ではなすのがあたりまえだったのが、ベトナム語使用がどんどん増えている。また、慣習に詳しい古老たちはつぎつぎと世を去り、そのいっぽうで、若者たちはスマホを手にして町や都会へ去ろうとしている。しかもそんな変化をラオスも後追いしているのだ。
 わたしが乗り気になったのには、個人的な理由もある。村の暮らしの変化とともに、この10年のあいだには現地を訪ねるのも一年に一度、10日程度にまで減った。しかもいつも同じところで、同じ人にしか会っていない。だからS氏を案内がてら久しぶりの土地も訪ね、久しぶりの人にも会ってつながりを確認したくなったのだ。

 でも、「つながり」ってなんだろう。
 このことばを東日本大震災あたりからやたら耳にするようになった。ケータイやスマホのコマーシャリズムともむすびついて、無条件にすばらしいとされているきらいがある。
 わたしはそのことに少し違和感を感じてきた。「つながり」とは思いやり、助け合い、人情などで人を孤独から守ってくれるいっぽうで、きつく人を縛り重たくのしかかる息苦しいものではないかと。
 思い返せばベトナムやラオスで、黒タイの人々などが暮らす地域にハマっていたころ、わたしの身と心はどっぷりと濃い「つながり」のなかにつかっていた。この「つながり」は、ときにわたしをどこまでも優しく温かく包み込み、ときに激しく悩ませた。「つながり」ある世界には無数の愛憎が渦巻いているからだ。たとえば都会暮らしの気楽さも「つながり」を断てることにあったはずだ。
 しかしよくよく考えてみると、今もとめられているのはそういう「つながり」ではない。自閉的で気詰まりも煩わしさもない、互いに傷つけ合わない心地よい「つながり」だ。しかもスマホというテクノロジーは、そんな快適な「つながり」が満ちた美しい世界への扉を開いてくれるというのだ。
 スマホはすでにベトナムやラオスの国土の片すみにまで普及しつつある。たぶん国境地域の少数民族の村に住む人たちの「つながり」も早晩変わるだろう。だとすれば旅立ちはますます早い方がいい。
 とはいえ多忙なS氏とのスケジュール調整は予想外に難しかった。旅は一年半も先に延びた。もっともその分だけ旅のイメージがふくらんだ。陸路での国境越えというアイディアにはS氏が「そんなの、ふつうの旅行者にゼッタイ無理ですよ!」とむやみに興奮してくれたから、終いにハノイからラオスのルアンナムターまであれもこれも見ながら行く、盛りだくさんな企画になった。
 かくして2019年11月22日、われわれは旅立った。ベトナムからラオスまで長い旅路だったが、予定していた場所にすべて訪れ、会う予定だった人にもすべて会い、予定通り12月1日に帰途についた。

「陸路で行くベトナム〜ラオス」を記しているのは、ルアンアナムターの黒タイの手すき紙  ©Masao Kashinaga 

旅のルートと日程
11月22日(金)ハノイ着  
24日(日)ハノイ→ドゥオンラム村→ギアロ  
25日(月)ギアロ→ムーカンチャイ  
26日(火)ムーカンチャイ→トゥアンザオ→ディエンビエンフー  
27日(水)ディエンビエンフー→タイチャン国境→ウドムサイ  
28日(木)ウドムサイ→ナーモー村→ルアンナムター  
30日(土)ルアンナムター→ビエンチャンに寄りハノイ経由で帰国
(12月2日)

 だが旅を終えたわたしには、大きな悔いがあった。その理由は、S氏に対して現地の旅行ガイドとして十分に役割を果たせたはずがなかったからだ。
 出発前のわたしは、S氏にハノイでベトナムに詳しい知人たちを紹介し、わたしがかつてそこでどのようにすごしていたのかを披瀝し、ベトナムでもラオスでもふつうの観光客が来ないとっておきの場所に案内し、現地の知人たちを紹介し、また夜ごとにその日の復習と翌日の予習を饒舌に語るつもりだった。
 だがハノイに着いた日のまさにその夜、わたしはいきなりの体調不良に陥った。喉の痛みと激しい咳により、口をきくのさえままならなくなった。こうなると、S氏に旅を味わい尽くしてもらおうというサービス精神など、あっけなくふっ飛んだ。旅のあいだ、わたしはできるだけ喉を休め、カラダも休め、スケジュールをこなすことだけに心を砕いていた。ついにS氏持参の常備薬を抗生物質からなにからすべて巻き上げ、S氏にいたわられ続け、そのおかげで無事帰国したのだった。
 ガイドが客の足を引っ張るとは、なんというテイタラク!
 そんなわけで、せめてもの罪滅ぼしに、わたしが現地でなにを語りたかったのかを書くことにした。もちろん、それは自身のおさらいのためでもあった。

 S氏にとって、この旅の目的はどんなものだったのだろうか。
 ふりかえると、いちばん最初にS氏が口にしたのは、ラオスの村で染織を見たいという素朴な希望だった。わたしは、ルアンナムターなら黒タイの村にツテがあり、いくつかの民族の村で布作りが見られるだろうとこたえた。
 旅のイメージはそこからふくらんだ。
 黒タイの文化を知るにはやっぱり本家本元のベトナム側の村も訪ねたほうがいい。また、せっかく西北ベトナムを横切って北ラオスにいくのだから、数十もの民族が雑居する地域性を堪能してもらいたい。こうして陸路の旅の始点がハノイ、終点がルアンナムターと決まり、するとほぼ必然的に国境越えはタイチャンと決まった。
 次に、この3つの点をどうつなぐかだ。
 タイチャン国境へは、ナーノイ村とディエンビエンフーが通り道にある。ナーノイ村はラオス建国の始祖クン・ボロムの出生地だし、フランスの植民地支配からの独立を決定づけた栄光の戦勝地ディエンビエンフーは、黒タイの始祖ラン・チュオンゆかりの地だ。ならラン・チュオンの生誕地ギアロもはずせない。こうなったらついでに、ハノイからギアロへの道すがら雄王神社も横目に見ていこう。雄王は政府公認のベトナム建国の祖なのだから。
 ハノイからルアンナムターにいたるルートも決まった。目的は、ベトナムという国、黒タイという民族、ラオスという国の「はじまり」をたどることだ。この旅路は、国や民族といった共同体の「はじまり」の地をつなぐ800キロの長い糸だ。いっぽう、染織は道中のあちこちできっと見られるのでテーマの中心から外した。

ホーチミン廟(ハノイ)
黒タイの土地神(ギアロ)
水車のある村(トゥアンチャウ)

 これを書きながら、今さらだが共同体の「はじまり」について考えている。

 共同体にとって「はじまり」はいろんなものがあっていいし、あることの「はじまり」がたくさんあってもいい。「はじまり」は共同体そのものの存在の本質を支えてくれるからだ。だから「はじまり」の時と場所は記憶され、共同で「はじまり」を思い出し、メンバー同士の「つながり」を確認する儀式や祝祭が繰り返される。

 「はじまり」の場に実際に立ち会った人なんて、歳月がたてばどうせいなくなる。たとえどんな記録やモニュメントが残されていようと、「はじまり」をめぐる生々しい記憶は風化し、あいまいになる。ときには「はじまり」があとからつくられる。逆説的だが、「はじまり」があって共同体ができるというより、共同体が「はじまり」をつくるのだ。

 ここで、わたしが共同体とよんでいるものはなんだろう。たとえばベトナムやラオスのような国民国家だったり、黒タイやキン族のような民族だったり、政治的な地域統合体としての「くに」だったり、もっと小さい単位の地縁集団としての村だったり、血縁と婚姻関係でつながる親族だったり、といろいろある。いずれもメンバーシップが明確で、メンバーそれぞれに役割や義務があり、そのかわり困ったときには助けを期待したいという点が、その集団性に共通している。

多民族が集う市場(シンホー)
モンの棚田(ムーカンチャイ)

 そうか!
 やっと気づいた。
 そもそもスマホ時代の新しい「つながり」は、共同体など志向していない。メンバーシップも、メンバーの役割も義務も、ガチガチだったら面倒くさい。もっと自由なのがいい。そんな関係や集団がもとめられているのだ。
 しかもこうしたスマホ的「つながり」を、わたしたちが旅から戻った翌月(2020年1月)にはじまったコロナ禍は、さらに後押しした。他人との濃厚接触が悪となり、対面での直接的なコミュニケーションはかなり制限され、パネルや機器が介在する間接的なコミュニケーションを促したからだ。
 そんなわけで、今となってはS氏とのこの旅は、わたしにとって濃厚接触こそが善なる親密さの証だった前時代最後の旅となった。

 これがその旅の記録だ。この旅で、ベトナムとラオスにいた自分の足跡をたどるつもりもあったから、その土地にわたしが心を置いてきた四半世紀の回想記でもある。このシリーズを通して、旅で出会った人たちがどんな「はじまり」と「つながり」のなかで生きてきたのかを、読者のみなさんとともに想像できればと願っている。

丘の上の仏塔(ウドムサイ)
アカの村の門柱(ルアンナムター)

写真:樫永真佐夫

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フィールドワーク
「(旅・いろいろ地球人)調査は想定外だらけ(1) 血まみれの調査者」『毎日新聞』大阪本社、2020(令和2)年6月6日(土)

樫永真佐夫(かしなが・まさお)/文化人類学者                
1971年生まれ、兵庫県出身。
1995年よりベトナムで現地調査を始め、黒タイという少数民族の村でのくらしにもとづき、『黒タイ歌謡<ソン・チュー・ソン・サオ>−村のくらしと恋』(雄山閣)、『黒タイ年代記<タイ・プー・サック>』(雄山閣)、『ベトナム黒タイの祖先祭祀−家霊簿と系譜認識をめぐる民族誌』(風響社)、『東南アジア年代記の世界−黒タイの「クアム・トー・ムオン」』(風響社)などを著した。またボクサーとしての経験を下敷きに、拳で殴る暴力をめぐる人類史的視点から殴り合うことについて論じた『殴り合いの文化史』(左右社)も話題になった。

▼著書『殴り合いの文化史』も是非。リングにあがった人類学者が描き出す暴力が孕むすべてのもの。


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