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恐怖の国の希望について (『この夜を越えて』 梅田 蔦屋書店 河出真美さんによるレビュー)

1930年代ドイツの重要女性作家イルムガルト・コインが、ナチスが台頭する瞬間のひとびとを、19歳の女性ザナの視点から描いた小説『この夜を越えて』。梅田 蔦屋書店の河出真美さんより、切実なレビューが届きました。

恐怖の国の希望について

河出真美(梅田 蔦屋書店)

 あなたにはわからない。あなたが今生きている国と時代を、未来の人々が恐怖を持って顧みることを。みんなが熱狂的な歓呼を持って迎える「総統」が、独裁者として歴史に名を残すことを。あなたはあなたの現在を生きていて、一つの時代が歴史と呼ばれる前のところにいる。あなたの生きている世界で、人々は「あちら側」と「こちら側」に分かれ、「あちら側」の人々は、自分たちの入れるカフェを見つけることにさえ困難を抱え、「こちら側」の人々と恋愛をすることもできない。そんな「あちら側」の人々のひとりと恋をしている友人を見て、あなたは思う――「どうしてこうも無茶なのだろう? 理解できない」(pp.24-25)。「こちら側」にいるあなたにはわからない。「こちら側」で権力を持つ人々は、「こちら側」にいるはずの人にさえ、連行し、家宅捜索を行い、尋問し、といった暴挙に出ている。あなた自身も例外ではない。あなたは密告され、尋問を受ける――同じ家に住む親せきさえ信用することはできない。そんな世界に生きているあなたはこう思う。

 「最悪なのは、じつのところ何が起きているのか、わたしにはまったく理解できないことだ。ただ、いまではしだいに、どこで気をつけなくてはいけないかはわかってきた。」(p.80)

 そういうわけで、あなたは気をつける。気をつけるべきところで気をつける。そうすればきっと大丈夫だ。言うべきではないことを言わず、すべきではないことをせず、そうやって、「わからない」なりに注意深く生きていくことはできるにちがいない。十分に注意深ければ、あなたはきっと「こちら側」に居続けることができるだろう。いつまで? きっと、この時代が終わるまで。

 けれど、あなたにもわかる時がやってくる。無茶な友人はなぜ「あちら側」の青年と恋をしたのだろう。人はなぜ、自分の身に危険が及ぶかもしれないのに、自分の住む世界が「するな」と命じていることをしてしまうのだろう。それはつまりはこういうことだ――どんな恐ろしい世界にいようとも、人は何かを、捨てることができないほど、自分の身の危険がどうでもよくなってしまうほど、大事に思ってしまうことがある。

 おそらくそれはこんなにも恐ろしい世界を築き上げてしまうことのできる人間である私たちに残された希望だ。ザナ、あなたがこの小説の終盤でとる行動が、最終的にどういう結果に終わったか、大事なのはそこではない。あなたがその行動をとったこと、それ自体が希望なのだ。あなたの生きた時代を未来から眺める読者の前に差し出されたその希望を、私は尊いものを見る目で見つめるしかない。

 

この夜を越えて

イルムガルト・コイン/田丸理砂訳
四六判上製/224ページ/本体2500円+税
ISBN: 9784-86528-094-4
装幀:アルビレオ
左右社から好評発売中


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